六章
1
よく晴れた日の昼下がり、広い庭の一面にずらりと立ち並んだ包帯が、未だ水分を含んでいるためかやや重くたなびいている姿は圧巻だ。目覚めたばかりのラキシエルは、太陽の眩しさに目を細めながら、広がる白を眺めそう思う。
一ヶ月ほど前から、村の中で季節外れの風邪が流行ってしまい、特にこの一週間は忙しかった。怒涛のようにやってくる患者をあしらう事に精一杯で、寝る時間や食事を摂る時間すら惜しんでいたほどだ。当然、洗濯をしている暇などなく、怪我人相手に使った汚れた包帯はたまっていく一方で、減っていく在庫に怯えながらも、近々まとめてやろうと思うだけで、先延ばしにしていた。
しかし今、そのたまった洗濯物たちは、ラキシエルの目の前で気持ち良さそうに風に揺れている。
ついさっきまで眠っていたつもりだが、自分でやったのだろうか? いやいや、これだけ頭がすっきりしているのは半日しっかり寝続けた証拠だろう、だとすると目の前の光景は幻だろうか。そんなわけがない。きっと誰かがやってくれたのだ。では、誰が?
そこまで考えて、考える事も立っている事も面倒になったラキシエルは、腰を下ろす事にした。
草が柔らかくて気持ちいい。風が遠くから届ける、子供たちの笑い声も、耳に心地よい。のどかな空気の中で、誰かが呼びに来るまではのんびりしても許されるかな、などと考えたラキシエルは、ひとつ大きなのびをした勢いで上体を後ろに倒し、寝転がった。
遠い太陽の輝きが、色の違う双眸に飛び込んできたので、反射的に目を伏せた。そうして暗闇を呼びこんでも、太陽の温もりはラキシエルの全身を優しく刺し、存在を強調するのだった。
「元気にしてるかなー……」
久方ぶりに穏やかな空気に包まれたラキシエルは、ふと、かつて道を違えた青年の事を思い出す。
マーファ神殿の片隅に小さな診療所を作ってみたら、すぐに怪我人や病人がしょっちゅう来て、それらが来なくても年寄りや子供が居る家の相談を受けにいって、そうしているうちに近隣の村からも患者が来るようになって、目が回るような忙しさになって――気付けば、この村に住み着くようになってから、もう三年が過ぎていた。
この三年間、あの寂しがりやの青年は、どうやって生きたのだろう。今はどうしているのだろう。探し人は見つかっただろうか。それとも、今もまだ探し人を求めて旅を続けているのだろうか。前向きに、救いを求めて、生きているだろうか。
「お、ラキシエル。ようやく起きたんだ?」
乱暴に草を踏みしめる音が、徐々に近付いてくる。急に現実に引き戻された気がして、ラキシエルは目を開けた。
軽く首を捻らせると、ラキシエルのものより少し淡い金色の髪を短く切り揃えた少女が、笑顔で仁王立ちしている様子が目に入る。
「やあ、ライネ」
ラキシエルは軽く手を上げて応じた。
「やあじゃないよ。いつまで寝てるんだよ」
「たまに寝過ごすくらい許してよ。そうでなくても最近、ゆっくり眠れなかったんだからさ」
「忙しかったもんね。けど、昼過ぎまでは寝すぎだろ。親切なライネ様が朝から頑張って大量の洗濯物を片付けてあげたってのに、終わってもまだ起きてないからびっくりしたよ」
「あ、これ、君がやってくれたんだ。ありがとう」
ラキシエルは満面の笑みと共に感謝の言葉を伝えた。
「すごく助かったから、お礼にひとつ良い事を教えてあげるね。それ以上こっちに寄らない方がいいよ」
「どうして?」
「下着が見えてしまうからさ」
ライネは瞬時に顔を赤く染め、形良い眉を吊り上げた。膝丈の服の裾を押さえながらラキシエルに近付き、ラキシエルの傍らに座ったかと思うと、拳で殴りかかってくる。
「いて! 酷いな。本当の事を言っただけなのに」
殴られた頭を抑えながら、ラキシエルは体を起こした。なんとなくだが、この勝ち気な少女を相手にするには、目線の高さで負けていてはいけない気がしたからだ。
「馬鹿な事を言うからだよ」
「言わずに覗いたらもっと怒るくせに」
「うっ……確かに」
納得したそぶりをみせつつも、機嫌はまだ完全に治っていないらしく、ライネは顔を反らして唇を尖らせる。その横顔に、出会ったばかりの頃の幼い横顔が重なって、微笑ましくなったラキシエルは、声を殺しながら笑った。
この村で暮らすようになったばかりの頃は、豊かな太陽の恵みと優しい風、その中で伸びやかに育つ緑に圧倒されたものだった。だが時間が過ぎるごとに、もっと驚くべき事があると気が付いた。子供の成長だ。
ライネもそうだ。幼さと男子顔負けの活発さから、ライネを少年と見間違えていたのは、そう昔の事ではない。しかしここ一、二年で、外見上はずいぶんと女らしくなった。大きな目とくるくる変わる表情は愛らしく、美少女と言って差し支えない。外見だけでライネに憧れる少年たちの存在を、ラキシエルは知っている。
ライネと同年代の子供たちも、今は成人し、何かしらの仕事についていた。中には、三年前の事故の後、ライネを救ったラキシエルに憧れて医学に興味を持ち、暇さえあればラキシエルに習い、医学書を写し取っている少年も居る。彼はすでにラキシエルの助手の域を超え、一人前の医者としての歩きはじめていた――おかげでラキシエルは昨晩、「重病人や怪我人が来るまで寝させて」と言い残して眠りに落ち、今日の昼過ぎまで惰眠を貪る事ができたのである。
「そう言えば、足の調子いいみたいだね。この間、思いっきり走っていたの見たよ」
「うん。もうすっかりいいよ。ラキシエルのおかげ」
「そりゃそうだ」
ライネは目を細めてラキシエルを睨み上げた。
「もちろん、君の頑張りが一番大事だったよ」
「ま……いいよ、その辺は。感謝してるのはほんとだし。おかげで、最強の女戦士になるって言う夢を諦めずにすみそうだからね」
とんでもない事を口走りながら両の拳をぐっと握りしめたライネは、目を輝かせて空を仰ぐ。
ラキシエルは返答に困った。女性の中でもどちらかと言えば小柄な彼女に向いている夢とは、到底言いがたかったからだ。才能ではなく気持ちが大事、と言ってやりたいのはやまやまだが、失敗すれば死が待ち構えている世界に行こうとしている彼女に対し、簡単にかけていい言葉ではないだろう。ならばいっそ、反応する事を諦めようと考えたが、ライネの嬉しそうな笑顔や堂々とした態度の中に本気を感じ取ってしまうと、むげにするのははばかられた。
それに、誇らしいと思ってしまったのだ。ラキシエルが三年前に見捨てていればけして見れなかっただろう夢を抱く、ライネの心が。自分が選んだ道は間違っていなかったのだと、言ってもらえた気がして。
「良かったなあ」
だからラキシエルは、そう呟いた。何が良かったかは語らずに、ライネに話かけるつもりもなく、ただ言葉をこぼした。
こぼれた言葉が自身の耳に届くと同時に、気付いた事がある。自分はもう、この村に滞在する理由がない、と言う事だ。
ラキシエルは三年間、この村に滞在し、医者として働き、村人たちに生活を助けてもらいながら生きてきたが、村の一員になろうとした事は一度もなく、それを察していたのか村人たちも、ラキシエルを親しい客人のように扱っていた。いつかラキシエルは村を出る、と、互いに理解していたのだ。もしかすると、いたずらばかりしていた子供が急に真面目に医学を学びにきたのは、いつかラキシエルが居なくなる日を恐れての事だったのかもしれない。
そうだ。ライネがこうも元気になったのだ。一日も早く、贖罪の旅を再開させよう。世界には、病や怪我で苦しみながら、救いを求められない人たちが大勢いる。そのひと達を、ひとりでも多く救わなければ。
フィアナ、君に許してもらうために。
Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.