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五章 episode3



 思い返せば以前の自分は、アーシェリナと並んで歩く事など、滅多になかった、とセインは思う。それはアーシェリナの歩行速度に合わせる事が苦痛だったと言うわけでなく、主の身を守ろうと前を歩いたり、一歩下がって見守ったりしている事がほとんどだったから、だ。おそらく以前の自分は、そうする事によってアーシェリナの距離をより広げようとしていたのだろう。
 けれど不思議な事に、隣に立って歩いてみれば、前からずっとこの立ち位置であったかのように自然で、距離を開ける事にこだわっていた過去の自分が、ひどく無意味で馬鹿らしいもののような気がした。
 たが、それはきっと、いざ訪れた再会の時を乗り越えた今だからこそ言える感想なのだろう。そう、隣で輝く華やかな笑みを見下ろしながら、セインは考える。
「ソフィアもね、ずいぶん大きくなったのよ」
 無理のないようゆっくりと歩きながら、アーシェリナは嬉しそうに語った。ソフィアの病気がロバートの術によって回復している事はすでに伝えてあるからか、余裕や安堵感が言葉尻からにじみ出ている。
「ここに来る前に一度見ているから、知ってます」
「しまった」と思った時にはもう遅く、全員の視線がセインに集まっていた。
 セインにとっては自然にすべりでた口調で、それを理解しているアーシェリナは寂しそうにするのみだが、他の四人、特に仲間たち三人は違う。よっぽど強い違和感を覚えたのか、奇異なものを見る目をセインに向けてきていた。
「間違えた」
 咄嗟に修正しようとしたが、上手く行くわけもない。
「どんな間違いよ」
「師匠が……別人みたいです。まさか、変な化け物に取って変わられてるんじゃ」
「いやいや、落ち着けアーク。美女相手に態度が変わるなんて、むしろ普通の人間っぽいだろ。ま、普通なセインが気持ち悪いって言うなら、賛成するけどな」
「お前らな」
 無意識に敬語が出てきてしまった理由は、ロバートが口にしたものとは大きく違っているのだが、やはり正しい理由を説明する気にはなれず、セインは頭を抱えながら深いため息を吐く。
 すぐ隣から、小さな笑い声が聞こえる。困惑するセインを気遣ったのか、少し押し殺しているけれど、楽しそうな笑い声。
 まあいいか、と、セインは仲間たちを詰る言葉を飲み込んだ。
 アーシェリナが笑ってくれたなら、それでいい。

 町に戻った時はすでに真夜中で、町中が静まり返っていたが、こんな時分に真っ先に寝ていなければならない幼子であるはずのソフィアは、寝台の上で体を起こしていた。
 親が居ない隙に夜更かしをしていると言うよりは、日中ずっと眠っていてようやく目覚めたばかりのため眠くならない、と言ったところなのだろう。病の面影をすっかり消し去ったソフィアは元気で、寝台の傍らに腰かけ相手をしているエルディの方が、よほどくたびれた顔をしていた。
「あ、おかーさん!」
 アーシェリナが扉を開けて部屋に入ると、ソフィアはそれまで話し相手であったエルディを忘れたかのように、即座に振り返る。
「おかえりなさい!」
 そして、ソフィアは元気よく寝台から飛び出した。半ば意識が朦朧としているエルディの反応は遅く、彼が自分を止めようと伸ばした腕をものともせずにするりと避け、アーシェリナに飛びつく。
「駄目よ、ソフィア。ちゃんと寝てなきゃ。お熱下がったばかりなんだし、いつも眠ってる時間でしょ?」
「だってねむくないんだもん。ずっとねてたし」
「そう思ってるだけよ。横になれば、すぐ眠っちゃうわよ」
「そうかなあ? ね、そうなのかな、シー……」
 己の味方を探したソフィアは、いつも母と共に居る女騎士に話しかけようとして――母のそばにシーラではない人影を見つけると、声を止めた。
 セインは息を飲み、ソフィアの動向を窺った。セインにとってソフィアは、アーシェリナ以上に、再会の際どう対応していいか判らない相手だった。共に暮らした日々など覚えているはずもなく、ただ血が繋がっているだけの父親の事を、ソフィアがどう思っているのか、まったく想像がつかなかったからだ。
 ただセインにとっては、ひどく愛しく懐かしかった。それは、自身を真っ直ぐ見上げてく子の容貌が、出会った頃のアーシェリナによく似ているからだけではないのだろう。大きく、真ん丸く開かれた目が、自分と同じく氷色に輝いていて、今となっては唯一の血縁である生命の存在感を、見せつけられているような気がする。
「え、エルディおじちゃんじゃ……ない、よね?」
 ソフィアはセインにそう問いかけてから、慌てて振り返った。諦めたていで椅子に座ったままのエルディを確認すると、またセインに振り返る。それを何度か繰り返しながら、ふたりの顔を見比べる。
 セインはその場に片膝を着き、目線の高さをソフィアに近付けると、柔らかく微笑んだ。
「俺は、ソフィアのお母さんの古い知り合いだ。一応、ソフィアがもっと小さかった頃に、会った事がある。小さすぎて覚えていないだろうけどな」
「セイン……」
 突然父だと名乗ってもソフィアは混乱するだけだろう。そう考えて、セインは自分が父親である事を伝えなかった。一度だけ夢に出てきたソフィアの姿や言動が脳裏にちらつき、正直に伝える事が怖かったのも手伝って。
「ちっちゃいころ、あったことがあるの?」
「ああ」
「じゃあ、えっと、ちがったらごめんね?」
「ん?」
「おとうさん?」
 セインは目を見開いた。
 意識しての事ではないが、顔から笑みが瞬時に消え去る。腹を立てたわけでも、胸に湧きあがる幸福感が消え去ったわけでもなく、ただ、驚いて。いきなりそう呼んでもらえるとは思ってもいなかったから。
「あのね、あのね、おかーさんがね、おとうさんはエルディおじちゃんににてるっていってたの。あとね、ソフィアってよんでくれたでしょ? ソフィアのゆめのなかに、おとうさんがいつもでてきてね、かおはみえないんだけど、いつもおなじこえでソフィアをよぶんだけどね、そのこえに、すっごくにてて、だからね、おもったの。だからね」
 精一杯説明をしたソフィアは、恥じらいながら手を伸ばす。はじめはセインの手を掴もうとしていたが、何かに怯えたかのように、袖口を掴んだ。
 その行為は、ソフィアが幼い心で懸命に押さえ込んだ希望や願望にしか見えず――セインはたまらず、ソフィアの小さな体を抱きしめていた。
「違ってない」
「え?」
「ごめんな、ソフィア。今まで一緒に居てやれなくて」
 たとえば今、幸せとは何なのかと訊ねられたとしても、上手く説明する言葉など、セインは持ちあわせていない。
 けれど、それでも、今自分の手の中にある温もりや、今の自分を取り巻くものたちが幸福なのだろう事は、叫び出したいほどに理解していた。


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