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五章 episode3



 アーシェリナがセインを見上げる瞳には、沢山の感情が詰まっている。
 突然の再会による驚きや動揺、困惑と言った類のものも見えたが、最も強いものは明らかに歓喜で、その根源にあるものは、セインの記憶の中にある、離れ離れになる前の彼女が抱いていたものと、同じもののように見えた。
 そう見えるのはきっと、自惚れがみせる幻ではないのだろう。
 セインは動けないでいた。今すぐアーシェリナに駆け寄るべきだと判っていても、まるで足を地面に縫いつけられたかのように、立ち尽くす事しかできなかった。
 その、セインを引き止めるものの正体は、戸惑いや恐怖ではない。強い、強い、感動だった。アーシェリナが今も変わらず自分に向けてくれるものへの、感謝や喜びだ。
「セイン……」
 おぼつかない足取りで、アーシェリナが近付いてくる。十歩にも満たない、短い距離。それでも、意識を取り戻した途端に強力な魔法を使った彼女には辛かったのか、ずいぶんと時間がかかった。
 セインは自ら歩み寄れない事を情けなく思いながら、自身のそばに辿り着き足を止めてもまだふらついているアーシェリナに、無言で手を伸ばした。
「セイン」
 差し伸べた手は震えている。だが、恐る恐ると言った様子で重ねられたアーシェリナの手は、もっと震えていた。
「セイン、セイン、セイン、セイン……!」
 指先と手のひらが触れ、互いの体温が混じった瞬間、堰を切ったようにアーシェリナの唇から飛び出したのは、セインの名前だった。
 何度も何度もセインの名を繰り返すが、他の言葉は何も口にしない。出てこないだけかもしれない。アーシェリナの瞳は、言葉よりも判りやすく、多くを語っていた。どれほどこの時を待ち望んでいたか。どれほど――セインを求めていたか。
 アーシェリナと離れてから今日までずっと、自身に問いかけてきたものがセインにはある。もし再会する事ができたら、アーシェリナに何と声をかければ良いのかと。だが、どれほど考えても答えが出ず、とうとうこの日を迎えてしまったのだった。
 けれど、この瞬間、セインは答えを見つけた気がした。
 本当は、とっくに判っていたのかもしれない。自身に不都合な現実が訪れた時、それに失望する事が怖ろしくて、答えから目を反らしていただけなのかもしれない。
 答えはずっと、とても近くにあったのだ。自身の心の中に。しかもそれは、とても簡単な答えだった。
 セインとて、昔から変わっていないのだ。ただ、アーシェリナに笑ってほしかった。幸せそうに微笑みながら生きてほしかった。けれどいつしか、アーシェリナの幸せの中にひとつの強い影がある事を知り、その陰りの原因が自分自身と知ってしまった頃から、迷いが生まれたのだ。
 陰りの原因を取り除く事はとても簡単だった。けれどセインは、けしてそれをしなかった。セインにとって、それは最後の砦だったのだ。アーシェリナを手放すための――アーシェリナが、セイン以外のものを求める日が来た時、己の心を守るための。そうする事がどうして自分を守る事になるのか、考える事から逃げながら。
 けれど今、セインの目の前に居るアーシェリナは、幽閉された時の中で、彼女の世界の中にセインしか居なかった頃と同じように、迷う事なくセインを見つめてくる。自由になって、セインと離れて暮らして、何年が過ぎたと言うのだ。その間、世界を巡り、沢山の人々に出会っただろう。こんなにも美しい女性を、多くの男たちが放っておかなかっただろう。セインのように傷付けたりせず、ただ優しくしてくれた者がいくらでも居ただろうし、そうでなくても、セインよりましな、もっと良い選択が、無限に広がっていたはずだ。
 それでもアーシェリナは、セインとの再会を望んでくれた。
 再会の喜びに震えるほどに、セインを望んでくれた。
 だからセインは決意する事ができたのだ。アーシェリナの心と、押し殺し続けた自身の心に応えるため、呼ぶ事を。
「アーシェリナ」
 そう呼ぶ事がセインにとって、どれほど特別な事であったか。
 ほどなくして気付いたアーシェリナは、瞳からも、顔からも、感情を消した。何よりも強い驚愕が、僅かの間、彼女の心を凍らせたかのようだった。
 けれどその氷はすぐに溶け出し、双眸から涙となって溢れ、白い頬を静かに伝う。
「会いたかった。ずっと、会いたかったの」
 震える声は、離れていた間ずっと抱き続けていた願いを告げる。
 そうして浮かべた微笑みは、セインが彼女に与え続けた陰りの消え去った、かつてないほど美しいものだった。
「私、ずっと……貴方を失ってから、ずっと辛かった。私が、私でなくなってしまったみたいで、世界が消えてしまったのかと思うくらいに。でも――でも、もう一度会うのも怖かったの。私は、もしかしたら一生、貴方にとって『アーシェリナ様』なのかと思って……でも」
 こみ上げてくるものが喉につまり、アーシェリナは俯く。
「五年以上も待ち続けた日が、ようやく来たのだと思ったけど……けれど、違うのね? 十五年? 十六年だったかしら……」
 愛してほしいなんて言わないと、いつだったか、アーシェリナは言った。ただのアーシェリナだと認めてほしいだけなのだと。
 認める事などできるはずがなかった。認めてしまえば、愛してしまう。誰よりも幸せにならなければならない人を、誰よりもくだらない男の元に縛り付けたくなる矛盾を抱える事に、あの頃のセインではけして耐えられなかった。
 だがもう観念するしかないと、セインは覚悟を決めた。
 きっとアーシェリナは、他の誰かのそばで幸せになどなれないのだ。
 アーシェリナを幸せにできるのは、自分ただひとりなのだ。
「長い間待たせて、すまなかった」
 セインは精一杯の優しい笑みを浮かべると、魔物の血に染まっていない左手をアーシェリナの肩に回す。
 久しぶりに感じた懐かしい温もりは、セインの胸に深い安堵を呼び起こした。


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