六章
2
ついさっきまで「お腹がすいた!」と騒いでいたライネが、今は湯気が立ちのぼるスープ皿を無言で見つめているから、ラキシエルの胸中に不安感が渦巻いた。
ライネの様子は明らかにおかしい。ライネはいつも、小柄な割に清々しいほどの食べっぷりで、見ていて気持ちが良いほどなのだ。そんな彼女が、しかも腹をすかせた状態で、食べ物を口にしようとしないとは。どこか調子が悪いのではないかと疑ってしまう。
「ラ……」
「ねえ、ラキシエル」
「え、な、なんだい?」
心配になって声をかけようとしてみれば、逆に名前を呼ばれて、ラキシエルは恐縮する。ライネが神妙な顔で見上げてくるので、食事の手を休めて匙を置き、ついでに手を膝の上に置いて、話を聞く姿勢をとった。
数瞬無言で見つめ合った後、ライネは少しだけ震えた声を出す。
「黙ってどこかに行かないでね」
急に心臓が冷え、動きが止まったかのような感覚。ライネの言はラキシエルの望みを端的に現したもので、ラキシエルは一瞬だけ、頭の中を覗かれたのかと怯えた。
だが違うのだろう。ライネはただ察したのだ。ライネはこの村の住人の中で、誰よりもラキシエルと同じ時間を過ごし、誰よりもラキシエルの近くに居た。怪我の治療と、年単位で続いた長い歩行訓練が終わった後も、彼女はほぼ毎日ラキシエルの元を訪れて、自身の足がどう言う状態なのか、報告を欠かさなかった。お礼のつもりなのか、ラキシエルの部屋や診療所の掃除や片付けをしてくれる事もあった。最近では洗濯まで手伝ってくれる。そんな事を一方的にしてもらうわけにはいかないよと、今日のように逆に食事をご馳走することもあり――そんな彼女だからこそ、態度や空気の小さな変化から、感じ取ったのだろう。
「どこにも行かないで、なんて言う気はないんだ。みんな、ラキシエルがいつかどっかに行っちゃうって、判ってる。そう言うラキシエルだからこそ、この村に来てくれたんだって判ってるから。でもね、黙って出てかれたら、悲しいし、辛いし」
「僕がどこかに行ってしまう事を前提に話しているね」
「行かないの?」
ライネは俯きがちの顔を上げ、期待を込めた明るい瞳をラキシエルに向けたが、ラキシエルはそれを平然と見つめ返し、わざとそっけない言葉を吐き出した。
「いいや、行くけど」
ライネは瞬時に瞳の輝きを曇らせ、肩を落とす。
「君はすっかり元気になったし、この村には新たな医者が生まれている。僕はもう、ここに居る必要はないよ。無駄に長居する厄介な客人になる前に、出ていくさ」
「それってさ……その、ラキシエルは、ボクのためにこの村に残ってくれてたって事?」
ラキシエルは穏やかな笑みを浮かべ、静かに首を振る。少女の言葉と、瞳に込められているように見える期待を、否定するために。
「違うよ。僕がここに残ったのは、僕自身のためさ。君のためにだったら、きっと、彼をひとりにする事なんてできなかった」
自身の力を精一杯活用し、ひとりでも多くの人を救う。それこそが贖罪に繋がると、ラキシエルは信じている。
だからこの村に残ってライネを救ったのは、たまたまライネがラキシエルの目の前で大怪我を負ったにすぎず、けしてライネのためではないのだ。同じ怪我を他の人物が負ったなら、当然その人物を助けたのだから。
「ねえ、ラキシエル。ボクに何かできる事があったら、教えて」
小さな体をさらに小さく縮こまらせたライネがそんな事を言うので、ラキシエルは立ち上がり、体と腕を伸ばして、ライネの小さな頭を撫でた。柔らかい髪が優しくてのひらをくすぐる感覚が気持ちよい。
「子供扱いしないでよ」
ライネは唇を尖らせながら言った。
「昔は喜んだのに」
「子供だったからでしょ」
「僕から見れば、まだ子供だけどなあ……だからってわけじゃないけど」
ラキシエルは一瞬間を挟んでから続ける。
「君が気に病む必要はないんだよ。前にも言ったろう? 僕が君を治療したのは僕のためで、君のためじゃないって。だから、君が恩に着るのは筋違いなんだ。むしろ、僕が君に感謝しなければならないのかも。僕のそばで怪我してくれてありがとうってね」
「ボクが言いたいのは、そう言う事じゃなくて……!」
ライネは自らの胸倉を掴み、そこで言葉を喉に詰まらせた。俯き、肩を丸め、唇を小さく動かしながら、次に吐き出す言葉を模索しているその様は、今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えているようにも見える。
「どこかに行くなら、ボクも連れてって」
長い沈黙の後、ライネは言った。
ライネがそう言い出すだろう事を、まったく予想をしていなかったと言えば嘘になる。けれどやはり、いざ口に出されると驚くしかなく、ラキシエルは今にも飛び出してきそうな強い動揺を、ゆっくりとした呼吸を繰り返す事で飲み込んだ。
「この村に何か不満があるのかい?」
「違うよ。不満なんてない。この先もこの村で生きていく事が、一番正しいのかもしれないって思う。でも、ボクは外に出たいんだ。このままここに居たら、ボクはボクでなくなっていく。ただの女の子になってしまう」
力強く言い切るライネの目は、言葉と同じだけ力強かった。
「ただの女の子になる事の何が不満なのかが僕には判らないけれど……とりあえず、旅はそんなにいい事ばかりじゃないよ。女性ならなおさらね」
女性だから、との言われ方をライネが嫌っている事に気付いていながら、あえてラキシエルはそう言った。
ライネが自身についてどう思っているかはともかく、ライネが少女で、おまけに可愛らしいのは事実である。体が女性で、周囲が女性として見る以上、彼女が背負う苦労は変わらない。その苦労はきっと、ラキシエルが想像するよりも大きいはずだ。
「でも、ボクは行きたい。ボクは戦士になりたい。強くなりたいんだ!」
眼差しからも、言葉にこもる力からも、部屋に充満する空気からも、ライネの真剣な思いは伝わってくる。それは肌が粟立つほどに強く、少なくとも彼女がかつてのラキシエルのように、見栄や賞賛のために特別な存在になりたいわけではないのだろうと理解するに充分だった。
戦士になる事が彼女の本当の夢だと言うなら、簡単に摘み取るような事をするべきではない、とは思う。
だが、彼女の夢を認めた上で、共に村を出るとなれば、彼女が夢を追う事に対してそれなりに責任を負わねばならないだろう。そこまでする義理があるかと言えば、まあないのだろうが――久しぶりのひとり旅は寂しくなるなと思う心が後押しして、ラキシエルはため息を吐きながら頷いていた。
「判った」
「ほんとに!?」
「ただし、条件がある。勝手に家出する事は許さないよ。周りに事情や気持ちを説明して、納得してもらう事。いいね?」
「大丈夫、任せといて! ありがとう、ほんと、ありがとう、ラキシエル!」
安心して気が抜け、空腹を思いだしたのか、ライネの腹が大きく音を立てた。
照れくさそうに頬を染めたライネは、目の前の食事に向き直る。考え事と話に集中して手付かずになっていたスープは、すっかり温くなっていたが、「おいしい」と何度も言いながら、笑顔で食べ進めていた。
「お礼と言っちゃなんだけど、旅の間はボクがラキシエルを守ってあげるよ」
「いや、いらないよ」
「でも、この村に来る前は、戦士と一緒に旅してたってよく言ってたじゃん。守ってもらってたんだろ?」
「うーん、そうだったかなあ……」
やはり、少し早まったかもしれない、と、ラキシエルは少しだけ後悔した。彼女との旅は退屈や寂しい想いこそないだろうが、苦労しそうだ。きっと目が放せなくなるだろう。セインとは違った意味で。
ささいなきっかけからかつての同行者の事を思い出したラキシエルは、目を細める。一番に思い出すのはいつも、別れ際の顔だった。
――セイン。
君は元気にしているだろうか。
理解者を見つけ、幸せに生きているだろうか。
Copyright(C) 2011 Nao Katsuragi.