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五章 神の剣




 激しい雨の音に促され、ユーシスは目を開ける。それとほぼ同時に、白く柔らかな手がユーシスの額に触れた。
 ナタリヤの手だった。熱を計ろうとしたのだろうその手は、とても冷たい。だがおそらくは、彼女の手が過剰に冷たいわけではなく、ユーシスの熱が下がっていないだけだろう。
 今回の熱は長引きそうだと受け止める冷静な自分と、惰弱な体を忌々しく思う幼い自分。その共生に気付くと、ユーシスは熱を持った弱々しいため息を吐いた。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
 ナタリヤは慌てて手を放すと、ユーシスの顔を不安げに覗き込んだ。
「今起きたのは偶然です。雨の音が聞こえて」
「ああ。朝は天気が良かったんですけど、お昼頃から急に降りだしたんですよ。それから、徐々に酷くなって。窓も雨戸も閉めているのに、こんなにはっきりと聞こえてくるなんて、また強くなったのかもしれませんね」
 閉めきった窓を一瞥してから、ナタリヤは再度ユーシスを見下ろした。
「食欲はありますか?」
「……少し」
「よかった。では、何か作りますね」
「お願いします」
 ユーシスは素直な気持ちで頼む事ができた。彼女の料理を食べたのは昨日が初めての事だったが、「美味しいです」と告げる言葉に嘘を交える必要がない程度に上出来なものが出てきたのだ。無論、手馴れていたモレナが作るものと比べれば劣ってしまうが、そこまで求めるのは酷と言うものだろう。
 笑顔で肯いたナタリヤが部屋を出て行くのを見守ってから、ユーシスは柔らかな枕に深く頭を埋める。
 目を伏せると、雨の音がよく聞こえた。叩き付けるような音だ。木々をなぶり、土を抉っているかもしれない。
 あまりにも鋭い音であったため、ふいにユーシスは、母の墓の安否が気になった。基本的には木や土よりも丈夫なはずだが、倒れてしまっているかもしれない。
 重い体を気力で起こした。ユーシスが寝台を出て歩き回った事に気付いたナタリヤが、きつく怒る姿を想像する事は容易かったので、間違っても物音が厨房まで届かないよう、慎重に、静かに、窓辺に近付いた。
 窓を開ける。雨の音が強まった。雨戸を開ける。雨の音は更に激しくなった。雨以外の気配がまったく感じられなくなり、家の中に居ると言うのに、雨の中に取り残されたかのような心細さに支配された。
 視界を濁らせる程に強い雨の向こうに、立ち続ける母の墓の輪郭が見える。とりあえず倒れてはいないようだし、大きな欠損も見えなかった。
 目で確認できる範囲でとりあえず納得したユーシスは、閉じなおそうと、少しだけ身を乗り出して雨戸に手をかける。すると、ユーシスの視界は少しだけ外に広がった。その端に人影が映ると、ユーシスは慌てて振り返り、影を凝視する。
「アスト」
 雨のせいではっきり見えなかったが、見間違えようのない人物だ。ユーシスは自信を持って友の名を呼んだ。
 影ははじめ、僅かな反応も見せなかった。「間違えたのだろうか」とユーシスが自分を疑いはじめた頃、ようやく身じろぎし、顔を上げ、ユーシスを見下ろした。
 大量の水を含んで顔に張りつく金の髪から、空色の瞳が覗いて見える。それは、雨に濡れているとは思えないほどの、乾いた瞳だった。
 ユーシスはその目の暗さを覚えていた。忘れたくても忘れられなかったのだ。四年前、母を殺したのが自分自身だと知り、精神的に打ちのめされていたアストが見せた弱さを。
 なぜまた同じ――いや、当時よりも酷いかもしれない――状態になっているのか、見ただけでは判らない。気落ちしている点を除くと、普段のアストと違っているのは、腰から吊るした黒い鞘に納まる光の剣がない事だが、何か関係があるのだろうか?
「どうしてそんな所に立ってるんだ。いくら君が僕に比べて頑丈だからって、無茶だよ。とにかく、家の中に入って、体を拭いて。そうだ、ナタリヤに、何か温かいものを用意してもらうよ」
 ユーシスはごく当たり前の提案を投げかけたが、アストはゆっくりと首を振るだけだった。
「中に入るのが嫌だって言うなら、無理は言わないよ。でも、何も言わずに立っているのはやめてくれないかな」
 アストの態度に、多少なりとも腹が立ったユーシスは、僅かに声を荒げる。
「この雨の中、わざわざここに来たって事は、君は僕に何かを望んでいるんだろう? じゃあ、それを言えばいい。包み隠さず、正直に。それともまさか、僕が拒絶するとでも思っているのかい?」
 アストはもう一度ゆっくり首を振ってから、一歩踏み出した。二歩、三歩と続く。水を含んだ土を跳ねさせ歩く姿は、やはりか弱かった。
 窓の前に立ったアストは俯いた。髪や顔から零れ落ちる水滴が、窓枠に落ち、跳ねた。
 跳ねた雫はユーシスの手に触れ、はじける。冷たい。こんなにも冷たい雨を、彼はどれくらいの時間浴び続けていたのだろう。
「色々な事が、頭の中ではじけて伝わってきた――判ったんだ」
「何が?」
「俺の使命とか、運命とか、そう言うもの。エイドルードが、俺にさせたかった事だよ」
 アストは緩慢な動きで右手を彼自身の左側面に伸ばし、納まるべきものが足りていない鞘に触れた。
「何も知らずに、凄い力を手に入れたって浮かれていた事が、今思い出すと、馬鹿みたいで、恥ずかしくて、しかたない」
 アストが目を伏せると、空色に宿る暗い光が隠れた。
「光の剣は、魔物を倒すためのものじゃなかった。人を救うためのものでも。エイドルードは、俺に両親を殺させるために、俺に光の剣を与えたんだ」
 ユーシスは小さく息を飲んでから、唇を噛む。その痛みと共に、目の前の少年が四年前以上に傷付いている理由を、ゆっくりと受け止めた。
 記憶にない母を殺した事実に、あれほど苦しんでいたのだ。強く愛し、慕い、頼りきっていた父親を殺した痛みとなれば、どれほど強烈だろうか。
 目を開けたアストは、震える自身の手を見つめていた。彼が悲しみを知った瞬間は、赤く汚れていたのだろうか。今は、雨に濡れているだけだけれど。
「父さんは、時が来たら、俺の剣は、神の剣に生まれ変わると言っていた。その剣を手に、魔獣を滅ぼせとも。俺は、肯いた。誇りを持って、そうするつもりだった。この大地を守るって使命を、果たそうと、思ってた」
「アスト」
「大事な人たちを守りたかったんだ。エイドルードの封印が完全になくなっても、皆が、普通に生きていける世界を作れるなら、俺にしか作れないなら、そうしなきゃいけないし、そうしたいとも思った。でも、でも――俺がこれから、そんな世界を作ったとしても、そこに父さんは居ない」
「ア……」
 もう一度友の名を呼ぼうとして、ユーシスは息を詰まらせる。
 恩人であり、つい昨日まで普通に会話していたカイの死が、単純に悲しかった事も原因のひとつだ。だがそれ以上に、語れば語るほどに絶望を呼び寄せるアストの心が、途方もなく悲しかった。
「ひとりきりで、洞穴に潜れって、父さんは言ったんだ。そうするつもりだった。だって、魔獣を倒して戻ってきたら、父さんがいつもの笑顔で、『おかえり』って、『お疲れ様』って、『よくやったな』って、そう言って、迎えてくれると思ってたから。でも、そんな事もう、望む事もできない!」
 神や己への怒りを込め、固く握られたアストの拳が、強く窓枠を打つ。
「ユーシス、俺は怖いよ。行くのが怖い。もしかしたら俺は、使命を果たすために、他にももっと、大事なものを失うんじゃないかって……そんなの嫌だ。絶対、嫌なんだ」
「それは」
「そうだ。そんな事になるくらいなら、このまま何もせずに、魔獣の封印が解けるのを待った方がいい。そうして、俺も、皆と一緒に滅んでしまえば――」
「アスト!」
 咄嗟に叫んだユーシスは、できる限り窓から身を乗り出すと、腕を伸ばし、アストの体を抱き寄せる。アストの肩に顔を埋め、首に強くしがみついた。
 ユーシスの上にも冷たい雨が降りそそぐ。アスト同様、ユーシスの体も雨に濡れはじめた。
「ユーシス……?」
「駄目だ、アスト。そんな事を言っては。君の心が、もっと悲しくなる」
 触れるアストの体は冷たかった。熱を出しているユーシスとは、そもそも体温差があるのだろうが、きっとそれだけではない。彼は、そうとう長い時間、雨に打たれ続けたのだ。少しでも己を罰しようと――それに気付かず眠り続けていた自分が悔しく、ユーシスは涙しはじめていた。
「ひとりが怖いって言うなら、僕も一緒に行く。僕は弱いから、戦う君の役になんて立てなくて、それどころか、足手まといになるかもしれないけど……でも、君が君であるために、そばに居て支えるよ。だからアスト、君は、使命を放り投げては駄目だ。君の父親が残した意志を、手放しちゃ駄目なんだ!」
 ユーシスが叫ぶと、アストの体から徐々に力が抜けはじめた。
 アストはユーシスの肩に顔を埋め、もたれかかってくる。それから、深く、深く、過去に吸い込んだ全ての息を吐き出すかのように、長い息を吐いた。その息は、彼の体の冷たさとは対照的に、ひどく熱かった。
「風邪、ひくぞ」
 沈黙の後、アストが紡いだ言葉は、よりによってそれだった。
「今更、何を言ってるんだ。もうとっくにひいてるよ」
「そう言えば、そうだったな」
「ひいてなかったとしても、いいんだよ。そんな事より、ずっと大事だろう?」
「……そっか」
 アストは一度深呼吸をしてから、ユーシスの両肩に手を置き、ゆっくりとユーシスを引き剥がす。そして真正面に向かいあうと、小さく笑った。
 蒼白だったアストの顔に赤みがさしはじめる事に気付いたユーシスは、少しだけ嬉しくなった。すぐに雨で流されてしまうために涙は見えないが、アストは今、確実に泣いている。原因が、父の死に対する悲しみなのか、これからの自分への不安なのかは判らなかったが、彼が自分自身の心を取り戻した証に思えた。
「お前が居てくれて、本当に良かった」
 先ほどまでの心の乱れはどこにもない、静かだが力強い声は、雨に負ける事なくユーシスの耳に届く。何よりもユーシスを喜ばせる、優しい言葉となって。
「俺、行くよ。ひとりで」
「ひとりで?」
「大丈夫。ひとりで行ける。守るよ。この大地を。皆が……お前が生きる地上を。だからお前は、待っていてくれ」
 一瞬だけ戸惑った後、ユーシスは肯いた。こみ上げてくる感情を必死に堪えながら、何度も、何度も、力強く。
 肯きながら決意した。彼が愛した、彼の父親の代わりにはけしてなれないと判っているけれど、それでも、『おかえり』と、『お疲れ様』と、『よくやったね』と、力強く言いながら、帰還する彼を迎え入れるのだと。
「ユーシス」
「ん?」
「ありがとな」
 ユーシスは僅かな間、言葉を失った。
「何を言っているんだ。それは僕の、僕らの――」
 アストは無言で首を振る事でユーシスの言葉を遮ると、名残惜しむようにユーシスの若草色の瞳を見つめてから、踵を返して走り出した。
 アストの背中はすぐに暗い雨の向こうに消えてしまったので、代わりにしばらく残り続けた、泥に刻まれた足跡を、ユーシスは見つめ続けた。
 激しい雨がなおも降りそそぎ、跡を消し去ってしまっても、ずっと。


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