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五章 神の剣




 雨はまだ止みそうにない。
 ザールの城の中で、窓越しに空を見上げていたリタは、豪快なため息を吐いた。そうしたところで、天気もリタの心も晴れやしないのだが。
「失礼いたしました。何か、お飲み物を運ばせましょう」
 声をかけられて、リタは視線を城内へ戻す。途中、柔らかな布に包まれて横たわる抜き身の剣が目に入り、少しだけ胸が痛んだ。
 リタの前には剣の他に、空になった器がある。城に帰還してすぐ、使用人のひとりが用意してくれた茶の器だ。リタはそれを随分前に飲み干しているのだが、誰ひとり注ぎにも、片付けにも、来る気配がなかった。
「気にしなくていいわよ」
 リタは声の主であるルスターを見上げ、答えた。
「皆、突然の事に結構動揺して、仕事にならないんでしょ。喉が渇いたら、自分で何か取りに行くわ」
 ルスターが近付いてきていた事に、声がかかるまで気が付かなかった辺り、自分も相当動揺しているのだろうと思いながら、リタは言う。
 そう、ザール城内は一時、大騒ぎになっていた。長年ザールで生活をしていた神の御子カイの死を、皆が知る事によって。
 彼はただ死んだわけではなく、エイドルードの使命を果たすために死んだのだと、地上の民を守るための剣に生まれ変わったのだとリタが告げると、騒ぎはだいぶ収まった。神の子の死が事故や魔獣の意志でなく、神の意志なのだと知る事によって、恐怖や不安が薄れたからだろう。
 しかし、深い悲しみだけは薄れる事はなかった。むしろいっそう濃いものとなって、城内を埋め尽くしている。
「カイは幸せ者ね。こんなに悲しんでもらえるんだから」
 ルスターは儚く微笑みながら肯いた。
「ザールの民は皆、カイ様を慕っておりましたから。神の御子としてはもちろん、人としても」
「そうね、そんな感じ。皆、まるで友達が死んだみたいな悲しみ方。きっとカイの事だから、神の御子としてどーんと座ってればいいところで、ちょこまか働いたり、周りに気を使ってたりしてたんでしょう」
「ええ。アスト様ご生誕の後、城にお入りになった時は、いきなり『何か仕事をさせてください』とおっしゃりましたからね。放っておいては厨房の皿洗いや城の床掃除からはじめそうな勢いでしたので、さすがにそれは困ると、新人兵士たちへの剣術指南などをお願いしておりましたが」
「ああ、だからか。どっちかって言うと若い男の人の方が泣いていたのは」
 リタの説明によって皆、カイの死はエイドルードの大いなる意志であり、大いなる喜びのために必要な事なのだと、理解した。悲しむ事は、大きな絶望を歓迎する事だとも。
 だから皆、「神の御子」の死では嘆くまいとしていたが、それでも、堪えきれない悲しみに涙する者は、けして少なくなかった。「カイ」の死を嘆かずにはいられないのだ――リタ自身も、もちろんその中に含まっている。
 いけない。また泣いてしまいそうだ。涙を堪えようと目を細めたリタは、そばに立つ男の笑みから目を反らす。
 同時にひとつの疑問が湧き上がり、リタは再びルスターを見上げた。
「貴方、仮にも領主なのに、暇なの?」
「いいえ」
「こんな所で時間潰してて、いいの?」
「お邪魔ですか?」
「そうではないけど」
「ならば、もう少しだけおそばに置いていただけませんか。昨晩はどうにも眠れず、朝がたまで書類仕事をし、ある程度片付けておりますので、多少は時間に余裕があるのです。ですから今、己の感情に正直に浸るために、多少の時間を使ったとしても、許されるのではないかと」
 リタは抱いた疑問の答えを聞いた気がした。少しだけ不機嫌になると、ルスターを見上げる視線を強め、軽く睨む。
「私、貴方が一番最初に泣くと思っていたわ」
 儚い微笑みは、泣いているようにも見える時もある。だがけして泣いてはいないのだと、リタは感じていた。
「貴方、こうなる事を知っていたんでしょう」
「いいえ」
「見え見えの嘘を言わないで」
「本当に、存じ上げませんでした。カイ様のお姿が、このように変化されるとは」
 神の一族のみが触れる事を許された、元はカイであったものに、ルスターは手を伸ばす。
 布越しに触れるならばと、リタは黙って見守るつもりだったが、ルスターは自ら手を止め、けして剣に触れようとはしなかった。
「じゃあ、死んでしまう事は知っていたのね」
 ルスターが無言によって肯定すると、リタは自身の目頭を押さえた。今度は悔しさのあまり泣きたくなった。
 カイが自分ひとりで抱え込むために多くを隠していた事を、今更責めようとは思わない。彼の気持ちが理解できないでもないからだ。
 だが、リタには隠していた事を、他の人物には教えていたとなると、話が違うと思ってしまう。カイがルスターを慕い、信頼していたのは知っているし、ルスターがリタよりも遥かに近い場所に居たのも判っているが、それでも悔しさは抑えきれなかった。
「ハリスも知っていたの?」
「どうでしょう。リタ様おひとりでご帰還された先ほどの反応からして、ご存知ではなかったと思いますが」
「じゃあ、貴方だけって事ね。ずるすぎるわ」
 ルスターは困惑を笑みに混ぜ込み、肩を竦める。
「カイ様がお話くださったわけではありません。私が勝手に気付いたのですよ――少々卑怯な約束を投げかけたせいなのですが」
「何て?」
「確か、『もし貴方の死も運命によって定められているのならば、それを私にも教えてください』と」
「それでカイは、律儀に約束を守った……わけじゃないわよね?」
 ルスターは無言で肯いた。
「その時は、答えに詰まっていらしただけです」
 リタは小さく吹き出した。こんな状況で笑える自分に驚いたが、心から笑いたい気分だった。カイが必死になってひとりで抱え込もうとしていた秘密が、そんなにも簡単に明らかになっていたとは、思ってもみなかったのだ。
 自分もルスターのようにすれば良かったのかもしれないと、リタは少なからず後悔した。意地を張らず、素直な気持ちで沢山話をしていれば、彼が隠していた事をいくらか知れたかもしれないと。そうすれば、今になってこんなに寂しい想いをしなくてすんだのかもしれないと。
「カイも貴方には勝てなかったって事ね。ざまあみろだわ」
「勝負したつもりはございませんが」
「お礼を言うわね、ルスター」
 リタが礼を口にすると、ルスターは黙り込んだ。
「貴方が――約束された死を共に苦しむ人が居たなら、カイはきっと、本当の意味でひとりにならずにすんだと思うから」
「いいえ、リタ様」
 ルスターは再び首を振った。
「私がおらずとも、カイ様はけしておひとりではございませんでした。アスト様と貴女の存在そのものが、カイ様の支えだったのですから。カイ様の思考も行動も、すべては」
「知ってるわ」
 リタはか細い声で強い意志を示し、ルスターの言葉を遮った。
「アストの事はいいとしましょう。カイは、アストの保護者なんだから。でも、私の運命まで勝手に決める権利が、あの男にあったのかしら」
「それは」
「あったとしても、私は自分の事を自分で決めたかった。生きるにしても、死ぬにしても」
 ルスターの目が同情による心の痛みを表した時、リタは迂闊な事を口走った事にようやく気付き、軽く唇を噛む。
「ごめんなさい、ルスター。私がこんな事を言った事は、誰にも内緒にしてね」
「リタ様……」
「私、二度とこんな事言わないから。だって、あの男は、最後に、私に、『自惚れるな』って言ったんだもの。言う通りにするわ。十五年前、あの男に選ばれると信じてた自分を恥じて、思いっきりふられて恥ずかしい想いをしたけど、そのおかげで生き残れたんだって、自分の幸運に感謝しながら生きて、『若い頃は綺麗だったのに』って言われちゃうくらいの、しわしわのおばあちゃんになって、周りの人に『ようやく死んでくれたか』って思われるくらい長生きして、それから、笑いながら死んでやるから」
「それをお聞きして安心いたしました」
 春の陽だまりのように温かく微笑んだ男は、同じだけ温かな笑みを、神の剣に向けた。
「私は最後に、リタ様にお伝えしなければならない事がございます」
 恐る恐る手を伸ばしたルスターは、かつてはカイであったものに、布越しに触れる。リタの心やカイの体を労わるような、優しい手付きだ。
「カイ様からのご伝言なのです。万が一、魔獣が消滅するよりも早く、リタ様の中にある、救世主たるアスト様に繋がる力が途切れた時には、と」
 リタは自身の胸を押さえた。力の源は別のところにあるのだろうが、アストの存在を感じる場所は、心の中のような気がしていたからだ。
 アストは今少しだけ遠いところに居ると、リタは感じていた。細かな距離までは計れないが、大まかな距離ながら、力の強弱で知る事ができる。そして、はっきりと判る方角。双方を合わせて思いつく場所は、ユーシスの屋敷しか考えられない。
「途切れる事なんてありえるの?」
 ルスターは小さく肯いた。
「アスト様がお役目を果たす前に亡くなられた場合です」
 膝の上で両の拳を握り締めたリタは、真剣な眼差しでルスターを見上げる。
「その時は、貴女が神の剣を手に魔獣と対峙し、救世の役目を果たさなければならないと、カイ様はそう――」
「私でも、いいの?」
 リタは身を乗り出した。
 まるで夢のような話だ。自分が行けるものならば行きたいと、リタはずっと思っていたのだから。
「剣は本来アスト様のものです。ですがリタ様もまた、エイドルードの御子。神の剣と化した後ならば、手にする事は可能だと、カイ様はおっしゃっておりました」
「じゃあ」
「ただし、正当な持ち主ではないリタ様が剣の力を解放するには、お命と引き換えにする必要があるとも」
 リタの体は一瞬硬直したかと思うと、すぐに力が抜けた。ゆっくりと椅子にもたれかかり、息を吐く。
「今になってそれを言うのは、卑怯じゃない?」
「いざその時が来るまでは黙っていて欲しいと、カイ様に頼まれておりましたから」
「じゃあ、その時が来なかったんだから、黙っててよ」
「今ならば、カイ様が恐れていた事態にはならないだろうと思いましたので――いえ、単純に私が、カイ様がどれほどリタ様を想っていたのかを、リタ様にご理解いただきたいと、願ってしまったせいでしょう。アスト様は充分すぎるほどご存知でしょうから、私ごときが口出ししようとは思わないのですが」
 リタは抑えきれない笑みを浮かべながら、ルスターを睨み上げた。
「貴方はカイを甘やかしすぎよ」
「以前、カイ様にも同じ事を言われました。自覚は無いのですが」
 ルスターの困惑を受け止めると、リタは不敵に笑い、立ち上がる。瞳が潤みはじめているのを自覚すると、ルスターの目から逃れるように窓の外に目をやった。
 瞬間、リタの中にある小さな力が変化を訴えた。その感覚の意味を知っていたリタは、横たわる神の剣に手を伸ばし、布ごと抱えあげる。
「ずっとユーシスのところでじっとしていたけど、ようやく動き出したみたい」
「アスト様ですか?」
「そう。やる気になってるかどうかは判らないけど、とりあえずこれ持って会いに行ってみるわ。私はそのために……そのためだけに、生き残ったんだからね」
 ルスターの横をすり抜け、リタは部屋を出た。
 自身の足音だけが響き渡る通路は、暗く、寂しい道だった。だがリタは、悲しい空気に飲み込まれる事も、負ける事もない。気持ちは充分すぎるほどに沈んでいる。これ以上、傷付きようがなかった。
 部屋の入り口から数歩離れた通路の途中に、ジオールが待機していた。彼の後ろには、ハリスも。神妙な顔をして、ただ、立っていた。
 彼らはもう判っているのだろう。自分たちの役目は終わっているのだと。それでも、終わっていないふりをして、リタを守る位置に居てくれたのだろう。
「思っていたより長い付き合いになったわね、貴方たちとは」
 ふたりからいくらか距離を置いて足を止めたリタは言った。振り返ると、ルスターもそこに居たので、彼にも届く程度の声量で。
「でもきっと、貴方たちが私たちに付き合ってくれた時間は、私たちが認識している時間よりも、ずっと長いんでしょうね」
 最初に動いたのは、ジオールだった。彼がリタの前に跪き、礼をすると、彼に続くように、ハリスとルスターも同じ姿勢をとった。
「シェリアとカイの分までお礼を言うわ。長い間、ありがとう」
 感謝の言葉を述べても、けして頭を上げようとしない三人を順に見つめてから、リタは再び歩き出した。
 もう振り返らなかった。足も止めなかった。静かな道と、その先にある雨が鳴り響く道を、ただひとりで進んだ。
 会うべくして出会う少年と向き合う時まで。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.