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五章 神の剣




 空色の双眸が予想外の光景を映した時、リタは太い木の幹に預けていた背中を離して身を乗り出したが、それ以上動こうとはしなかった。目にした光景が信じられないあまりに、脳内が必要以上に冷静になってしまったのかもしれない。まずは現状を把握しなければならないと思いが先走り、ただ、見た。
 見たところで、現実は変わらなかった。アストが手にした光の剣は、確かにカイの身に埋め込まれていたのだ。
 ユーシスの一件を間近で見ていたリタは、その剣が人を生かし、魔物を切る剣だと信じて疑わなかった。故に、少しずつ体勢を崩しはじめたカイの表情が、徐々に苦痛に歪んでいく意味が、全く理解できなかった。痛いわけがないのだ。今までカイだと思い続けていたものが、魔物が化けたものでもない限り。
 カイの体は、顔が青褪めていくと同時に沈んでいった。自分の意志でしているのではないだろう、勝手にそうなっているのだ。
「父さっ……父さん、父さん!」
 やがてカイの膝が地面に着くと、アストが叫ぶ。裏返った、酷い声だった。状況が違えば、「変な声出さないでよ」などと軽口を叩きながら、笑いあっていたかもしれない。
 だが今は、とてもではないが、笑えない。少年が父を呼ぶ声は悲痛で、カイの表情が演技ではないと、リタにも伝わってきたのだ。
「父さん……!」
 アストは空気を震わせる声でもう一度叫ぶと、走り出した。まるで魔物に怯え逃走する幼子のように、振り返る事なく、がむしゃらに。
 突然の事にアストが動揺しているのは明らかだった。さもなければ、混乱しているのだろう。放っておいてはどうなるか判らず、咄嗟にリタは「追わなければ」と思った。
 しかし、剣を体に埋め込んだまま蹲る男は、もっと放っておけない。自分がもうひとり居れば良いのにと、歯がゆい思いをしながら、リタはカイの傍らに膝を着いた。
「私の役目がこんなくだらないものだとは思わなかったわよ」
 リタはカイに手を翳し、癒しのための神聖語を紡ごうとした。
 しかしカイは、震える手をリタに向けて伸ばす。制止しようとしているのだ。
「必要、ない」
 拒否する声の弱さに、リタは抱く怒りを強くした。
「馬鹿言わないで。必要ないわけないでしょう」
「ないんだ」
 カイは頑なに言い切ったが、リタは従わなかった。神聖語で素早く呪文を唱え、傷を癒そうとする。
 だが、傷は癒えなかった。それどころか、リタの手から光が発生する事さえなかった。まるで、リタの中にある力が、カイを癒す事を拒否するかのように。
 リタが拒否するわけがない。拒否するくらいならば、はじめから力を使おうとしないのだから。
 ならば、どう言う事だろう。
 まさか、エイドルードが――?
「どうして」
「これが、俺の、最後の、果たすべき、役目だから」
「やだ。やめてよ。このままじゃ貴方は」
「俺の魂と、俺の、抜け殻を、吸収し……光の剣は、神の剣へと、生まれ変わる」
「――!」
 リタは声にならない悲鳴を上げる。体中から力が抜け、へたりこんだ。それでも必死に首を振った。カイが語る、カイと言うひとりの男が地上から消える未来を、否定するために。
 力無く地面を見下ろしていたカイの目が、リタを見つめる。空色の瞳は、途方もなく優しく輝きながら、リタの感情を受け止めているようだった。
「剣を、どうか、アストの手に。君にしか……」
「嫌よ」
「もう少しで、全てが、終わる。俺を手にしたアストが、最後の役目を果たせば、自由に、なれる。運命から、解放される」
「嫌だって言ってるでしょう」
「アストも……君も」
 力を失った、掠れはじめた声は、眼差しと同じだけ優しく、それでいて鋭く、リタの胸を貫いた。
 これまで生きてきた中で受けた、あらゆる苦痛に勝るものが、強くリタの心を揺さぶり、かき乱した。痛いとか、苦しいとか、そんな単純な言葉では説明できないものが、リタを内側から執拗に責めるのだ。
 やがて、驚愕に見開く事で乾きかけていた双眸から、静かに涙がこぼれ落ち、リタの頬を伝う。
 カイの言葉の中には、リタが長い間強く望んでいながらも、けして得られないと諦めていたものが、確実に含まれていた。だが、こんな形で受け取る事を望んでいたわけではなかったリタは、溢れるものが悲しみなのか喜びなのか判らないまま、泣くしかなかった。
「嫌。私は絶対、こんなの、認めないから。何でも知って、隠している貴方だもの、本当は知ってるんでしょう? 言いなさいよ、貴方が助かる方法を。貴方が諦めるほどの苦難がそこにあっても、私は諦めずにやり遂げて見せるから。さあ、教えて!」
 涙声でリタが叫ぶと、カイはゆっくりと目を細め、微笑み、同時に地面の上に倒れ込んだ。
 アストやリタに心配をかけないためだろうか、これまで無理に飲み込んでいた息を、断続的に吐き出す。苦痛に耐えるのはもう限界なのだろう、切れ切れながら懸命に呼吸する音が、うるさいくらいにリタの耳に届いた。
 その呼吸よりも、静かすぎる彼の表情の方が、リタにとっては辛いものだった。カイは他の手段など知らないのだと、少なくともカイ自身が生存したまま大陸を救う方法を知らないのだと、だからこそ神の御子としての使命に殉じる道を選び実行してしまったのだと、もはやリタがカイに対してしてやれる事は何ひとつないのだと、理解せざるをえなかったがために。 
「何よ」
 痛々しいカイを目前にしながら、優しい言葉がひとつも出てこない自分自身に嫌気がさしながらも、リタは正直な思いを吐露する事を止められなかった。
「ひとりで全部知って、ひとりで全部決めて。自分ひとりで苦しんで、自分ひとりで抱え込めば、それでいいとでも思ったの? 他の人を苦しめたくないとかって、格好つけてるつもり? だとしたら、貴方は馬鹿だわ。そうじゃなかったら、私たちを馬鹿にしてるのよ。私が……私が、何にも気付いてないと思ってるの?」
 ひと息で言い切ったリタは、雑な動作で涙を拭い、続けた。
「あいにくだったわね。私はとっくに気付いてるわよ。貴方が全てを知った上でシェリアを選んだ事も、シェリアを殺した罪を償うために、神の子としての運命に黙って従った事も。知らないふりをしてきたのは、貴方自身に真実を語ってほしかったからよ」
 小刻みに震えるカイの手が、突然伸びた。とうに力を失っているのか、鈍い動きで。だが確かに、リタに触れようとしていた。
 できるわけがない。彼は十五年前、リタではない少女を、生涯の妻として選んだのだから。その日からリタとカイは、お互いだけには触れられなくなったのだから。
 土と血に塗れた大きな手は、リタの頬のそばで制止した。それだけで、リタはカイが何をしようとしていたかを知った。彼はリタの涙を拭おうとしたのだ――自分たちを遮る力の事を忘れて。
 縋りつきたかった。頬を寄せ、思う存分泣き喚きたかった。そんな些細な望みさえ叶わないもどかしさによって、涙は更に溢れ出た。
「だからもう、隠す意味はないの。言ってよ、カイ。正直に。私を助けるためにシェリアを殺したんだって、貴方の声で聞かせて。お願いだから、私を共犯者なんだって認めてよ」
 ひとつになりかけたふたりの道が離れた夜を越えてから、リタはこれほどまでに素直な想いを口にした事はなかった。本音を口にすればするほど、自分が惨めになって行くような気がしたからだ。
 だが今のリタにとって、自身の矜持など、無価値だった。ただ、欲しかった。縋れるものが。心の拠り所が。
「これ以上、私をひとりにしないで……!」
 リタの叫びを受け止めたカイは、無言のまま、リタに届かなかった手を自身の胸元に引き寄せ、唇を引き締めた。
 最後まで何も言わないつもりか。これほど懇願しても、想いに応えてくれないのか。
 リタは絶望しかけた。その時、カイの喉が微かに動いた。何か言おうとしているのだと気付いたリタは、慌ててカイの口元に耳を寄せる。消え入りそうな声を、けして聞き逃さないようにと。
「自惚れるなよ……」
 それがカイの、最後の言葉。
 ひどく冷たい、突き放した言葉だった。しかし、カイが最後に浮かべた表情は、どんな言葉、どんな手よりも優しく温かく、リタを包み込んだ。
「カイ……!」
 命の火が消え、完全に力を失ったカイの体は、光の剣と共に浮かび上がった。
 リタは追いかけるように立ち上がったが、カイの体は懸命に手を伸ばしても届かない高さへと昇ってから静止する。
 輝く光が弾けた。
 強く眩しい光は、常人ならば目を開けていられなかっただろう。しかし、神の娘であるリタは違った。涙に濡れた両目を見開き、カイの行く末を見守る事ができた。
 カイの体は緩やかに形を失い、光に溶けていく。
「ずるい」
 光はカイを吸収する事で、より強い光へと変化し、光の剣を包み込む。
「ずるいよ。私も、一緒に――」
 抱く望みを笑い飛ばすかのようにリタだけを置き去りにして、剣と光は融合をはじめた。明るい輝きは、リタをより寂しくさせた。
 強烈な光の中で、リタは自分だけが人の形である事を嘆いた。もはや涙は溢れなかったが、涙していた時よりもずっと深い悲しみが、リタを打ちのめす。
 やがてひとつとなった光は、実体を伴った。人の手では作りだせないほど滑らかな、鋼ではありえないほど明るい白銀の刃を持つ、美しい長剣。
 リタは固く目を伏せ、頭を下げ、俯いた。頭の重みにつられて、自然と膝が地面に着くと、いっそこのまま地面の上に倒れ込みたいとの願望が湧き上がった。
『剣を、どうか』
 崩れ落ちかけたリタの体と心を支えたのは、カイが残した言葉のひとつだった。
『アストの手に』
 そうね。私にはまだ、やらなければならない事が残っている。
 空虚と化しかけた思考がそこに至ると、リタは顔を上げた。未だ涙は乾いていなかったが、生まれたばかりの神の剣をきつく見上げる空色の瞳には、強い意志が宿りはじめていた。
 シェリアもカイも、神の子としての運命に従い、人としての生を終えた。
 ならば、ひとり生き残ってしまった私も、神の子としての役目を果たそう
 立ち上がる力を取り戻したリタの意志に従うように、剣はゆっくりと地上へ降りてきた。放っておいても大地が優しく受け止めただろうが、リタは手を伸ばし、自身の両手で受け止める体勢をとった。
 ようやく触れる事が許された、直前までカイであったたはずのものは、まるで空気のように、見た目から想像できないほど軽い。だと言うのに、見た目通り、金属そのものの冷たさだった。
「私の手と違って、貴方の手は、いつでも温かかったのに」
 時の流れに埋もれて消えてしまいそうな記憶を手繰寄せたリタは、いびつな笑みを浮かべながら、手の中の剣を見下ろした。
 銀色に縁取られた白い柄の中心には、空色の宝石が埋め込まれている。ささやかな木漏れ日を浴びる事で淡く輝くその様は、人であった時のカイの瞳の優しさに似ている気がした。
「ねえ、カイ」
 リタは自身の瞳と同じ色を持つ宝石に微笑みかける。
「貴方はいつか、言っていたわね。今すぐ確実に後悔する道よりは、いつか後悔するかもしれない道を選ぶって」
 ――ねえ、カイ。
 貴方は今も、後悔してないの?
 語りかける代わりに、リタは空色の宝石に唇を寄せる。
 唇に触れる冷たさは、言葉にならないカイの答えのように感じられた。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.