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五章 神の剣




 清々しい青空が広がっている。
 雲に覆われる事のない太陽は、きつく地上を照らしており、これから寒くなる時期だと言うのが信じられないほど熱い。目を細めながら太陽を見つめていたアストは、やがて眩しさに負け、視線を地上に戻した。
 地上にあるものの中で最初に目に入ったのは噴水だった。噴水が立てる水音は爽やかで、太陽の熱さを柔らかく中和してくれる。アストは心地良い水音に耳を傾けたまま、目だけはそばに立つ父の背中に向けた。
「で? その、神の剣とやらを手に入れるための儀式は、どこで、どうやってやるのよ」
 カイから数歩離れたところに、何人か人が固まって居る。その中で一番手前に立っているリタが、いつも通りの強気な態度で発言した。
「場所は別にどこでもいい。余計な人間がそばに居てはいけないから、人気のない所がいいな」
「人ばらいをいたしますか?」
「いえ、いいです。森のどこか、ちょっと開けたところでも探します」
「ところで、余計な人間って、どこまでが余計なの?」
 腕を組んで不満げに語ったリタの眉間に皺が寄った。
「安心してくれ。わざわざ呼び寄せるくらいに、君は必要な人だよ」
「それは良かったわ」
「残念ながら、君の後ろに居る人たちは、『余計な人間』の範疇になってしまうんだけどな」
 カイが肩を竦めながら言うと、リタは振り返り、後ろに立つ者たちを見た。
 彼女の護衛隊長であるジオールや、アストたちの護衛隊長であるハリスが、幾人かの聖騎士たちを従えて立っている。少し離れたところには、ザールの領主であるルスターの姿も見えた。
 はじめから見送りの姿勢を取っていたルスターは驚く様子を見せなかったが、ジオールとハリスのふたりは、無表情ながらも多少反応を見せた。彼らの後ろの聖騎士たちは、若干の動揺を顔に出している。
「悪いな。今回ばかりは、三人で動く事を許してくれ」
 落ち着いた声は、個人の我侭ではなく神の意志である事をはっきりと告げていて、だからハリスもジオールも、何ひとつ口にせずに受け入れた。
「じゃ」
 手を上げ、まるで近所の商店に買い物にでも行くかのように気軽な口調で言うと、カイは歩き出す。
 拍子抜けしながら、アストは父の背中を追った。リタも同様だった。何か言いたそうな顔をしているように見えたが、実際口に出して言うつもりはないらしく、黙って着いてきている。
「偶然にでも人が来ないところがいいよな」などと言いながら、カイは森へと続く道を選んだ。森へ向かうと言っても、ユーシスの屋敷を訪ねる時に進む道とは途中で分岐したので、アストにとっては初めて歩く道だった。
 森に入ると、まずは背の高い草に驚いた。同じ森でも、少数とは言え人が出入りしている場所とは違うようで、ユーシスの屋敷周辺とは随分印象が違う。
 少し奥に入ると、今度は木々に生い茂る葉に勢いが増してきた。太陽の光はまったくと言っていいほど地上まで届かなくなり、ところどころに木漏れ日が差し込むのみとなった。先ほどまでの眩しさが嘘のように薄暗く感じる。
 その薄暗さの中、どれほど進んだ頃だったろうか。やがて、木の密集度が他のところよりも若干低い場所に辿り着いた。
「この辺でいいか」
 木漏れ日に手を翳したカイは、呟きながら足を止めた。すぐに振り返ったので、続けて足を止めたばかりのアストと目が合った。
 どきりと、アストの心臓が大きく鳴る。向けられた父親の優しい目に驚いたからだった。
 アストに対してはいつも優しい人だから、驚く事ではないはずだが、普段よりも強い慈しみを感じる眼差しに、アストの息は詰まりそうになっていた。しかし、目を反らして楽になる事はできない。「父さんは俺が知らない不思議な力を持っているんだろうか?」と疑いながら、黙って見つめ返す事が、アストにできる全てだった。
「悪いが、リタは少し離れていてくれるか」
 リタと会話をするためにカイが顔を反らすと、緊張が解れ、アストは安堵する。そんな自分に疑問を抱きつつも、考えたところで答えは判りそうもなかった。
「判った。で、何をすればいいの?」
「とりあえず、見てるだけでいい」
「何よそれ。本当に私が必要なんでしょうね」
 疑う言葉こそ投げかけたが、リタは特に不満げな様子を見せず、大人しくカイの指示に従った。あまり離れすぎてしまうと、あちらこちらに生える木々によって視線が遮られてしまうためか、十歩程度の距離しか離れていなかったが、それで充分だと言いたげにカイが肯くと、太い幹に背中を預けた。
 カイが再び振り返り、アストの正面に立ち尽くす。先ほどのように得体の知れない息苦しさこそ感じなかったが、鋭い眼差しは確実にアストを威圧した。
「剣を抜け」
 素っ気ないほど短い指示に操られるように、アストは剣を抜く。
 剣が放つ光が、薄暗い世界を少しだけ明るく照らした。眩しくはなかったが、アストは反射的に目を細める。
 見ると、剣を見下ろす父の目も、アストと同様に僅かに細まっていたが、そうした理由は自分とは違うのだろうと、アストは肌で感じていた。カイを取り巻く空気が、妙に緊張しているのだ。
「構えろ」
 次に来た短い指示にも、アストは無言で従った。光が形を持った柄を両手で握り、構える。アストの剣が光の剣でなければ、父も剣を構えていれば、いつもの手合わせと変わらないなと思いながら。
 ここにきてアストは、自身を取り巻く空気が変わりはじめていると気付いた。小さな痛みが皮膚に触れ、軽く痺れるような感覚だった。その痺れが全身に伝わる頃には、手にした剣が放つ光が増していた――いや、光が増したからこそ、空気が攻撃的に変わったのだろうか?
「目を伏せて、集中しろ」
 どうしてか、次の指示には素直に従う気になれなかった。
 戸惑うアストが何もせずに立ち尽くしていると、カイはアストの正面から動き、アストに近付くと、大きな手をアストの目の前に翳した。
 視界を遮る父のてのひら以外、何も見えなくなる。そんな状況に追い込まれてしまえば、目を伏せるしかなかった。
 ひとつの感覚を閉ざすと、他の感覚が冴え渡る気がした。とりわけ、肌の痺れを強く感じる。指先の辺りは一番痛みが強く、集中して力を込めなければ、剣を取り落としてしまいそうだった。だからこそ父は集中するように言ったのだろうと、ようやくアストは気が付いたアストは、重く感じはじめた剣をいっそう強い力で握りしめる。
 父の手が遠ざかるのが判った。軽く、土を踏み締める音。元の立ち位置に戻ったのだろうか? 目を伏せているアストには判らない事だった。
「エイドルードはまさしく神だった」
 およそ父らしくないと言える、抑揚のない声が語る。
「偉大なる力で人と大地を救った存在だから?」
 目を伏せたまま、アストは父の言葉に応えた。
「それも含めて、エイドルードは人が及びもしない存在だった。何もかもが、地上の民とは違いすぎたんだ」
 疲れて下がりはじめたアストの手を支えるように、父の手が伸びる。大きな手が、アストの手に重なった。伝わる温もりと力が、アストを支えてくれた。
「エイドルードと比べると、俺たちは地上の民に近すぎるな。地上で、人に紛れて生きていたのだから、当然かもしれないが」
「うん」
「なあ、アスト。お前の母親は、シェリアは、俺たちの中で一番、神に近い存在だったと思うよ。彼女の心は、普通の人とは離れたところにあった。離れるように、作られたんだ。俺はそれが悲しいと思った。許されない事だとも。だから、お前をシェリアのようにはしたくないと願い、大神殿の者たちの影響をできるかぎり受けない場所で、共に暮らせるようにしたんだ。それがエイドルードの意志だと、もっともらしく嘘を吐いて」
 やはり抑揚のない声の中に、感情が混じりはじめる。
 様々なものが混在しており、正体を知る事は難しい。知る事を早々に諦めたアストの胸を、寂しさが占める。父の声が、アストの胸の奥から、切ない感情を呼び寄せるのだ。
「けれどそれは間違っているかもしれない。俺は俺自身の感情に従うあまり、大きな過ちを犯してしまったのかもしれない――俺は長い事、悩んでいたよ。お前は、お前自身にのしかかる運命に耐え、乗り越えなければならないのに、人の心で、それが可能なのかと」
 アストの手を包む父の手に、更なる力がこもった。
「だが、今のお前なら大丈夫だと、俺は信じている。人に近い存在であっても、運命に耐えられるんだと。辛くて、苦しいかもしれないが、乗り越えられるだけの力を、支えを、今のお前は持っているはずだ」
「うん」
 アストは自信を持って肯いた。
 言われずとも判っている事だった。自分を支えるものの象徴が、アストの手を覆っているのだから。
「アスト」
「ん?」
「ごめんな」
 突然の謝罪の意味を、はじめアストは理解できなかった。
 父の手にこもっていた力が緩むと、更に意味が判らなくなる。半ば混乱したアストは、父の指示に逆らって目を開けた。
 視界が開けると同時に、父の手に再び力が入る。未だ成長途上であるアストには抗えきれない、強い強い力。それが突然、アストの手を引いた。
 手から伝わる力は、僅かな時間でアストの全身に働いた。体が浮くような感覚がしたかと思うと、アストの体は目の前に立つ父親の体に、吸い込まれるように引き寄せられた。
 広い胸が、目の前に迫る――そこでアストはようやく、謝罪の意味をおぼろげに理解したのだった。
「父、さん?」
 視線を少しだけ下げると、アストが手にする光の剣が、父の腹に深々と埋まっているのが見える。そこからは確かに血が滲み出ていて、アストは目を剥いた。
「何で」
 アストは短い言葉に、瞬時に湧き上がった多くの疑問を込めた。
 だってこの剣は、魔物しか傷付けないはずじゃないか――いや、違うのか? 何を滅ぼすかと問われ、「魔物を」と答えた時、父は「――まあ、そうだな」と、曖昧な肯定をしただけだった。
 かつて父は厳密には何と言っていたのか――そうだ、確か、「エイドルードの加護を得ないものを滅ぼす」と。
 では父は、エイドルードの加護を得ていないと言うのだろうか。彼はエイドルードの御子で、エイドルードに最も近い生き物であるのに?
 そう言えば、アストの母は、この剣によって命を落としたのだった――
 そもそも、なぜこんな事をする? 自ら滅びを選ぶような。いや、滅ぶ事は無いのか? 父は以前、誰かに言ったのだ。「役目を終える前に死ぬ事など絶対にない」と。
 ならばこれはただの自傷だと?
 それともこれが、役目、だとでも?
「っ……」
 父の口から息と共に、押し殺した呻き声が漏れた。掠れ声だが、そばに居るアストの耳に届くには充分だ。
 アストは動揺のあまり、咄嗟に剣を手放そうとした。
 剣が手から完全に離れる瞬間、剣を伝って迫りくる力のようなものが、アストの中に侵入し、弾け、膨張する。それは、次々とめまぐるしく形を変えながら、アストの脳内に次々と知識を植えつけていった。
「嫌だ。そんなの嫌だ、父さん」
 膨らんでいくもののせいで、頭が破裂しそうな気がしたアストは、両手で自身の頭を抑えながら、父に救いを求める。
 しかし、ゆっくりと崩れ落ち、両膝を着き、苦しそうに蹲った父が、アストに応える事はなかった。
「父さっ……父さん、父さん!」
 丸まった背中を貫く光の剣の切っ先が目に入ると、アストはただひたすら父を呼び、叫ぶ。
 そうして父に縋りながらも、アストは現実から目を背けていた。いや、目だけではなく、全身で。
 アストは地面を蹴り、走り出していた。その場から逃げ出すために。


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