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五章 神の剣




 駄目だ。集中できない。
 諦めたリタは、先ほどから一行も読み進められない本を閉じると、机の上に置いた。
 無意識に手つきが乱暴になっていたようで、机と本がぶつかる瞬間、大きな音が鳴る。自分でやった事だと言うのに、少しとは言え驚いてしまったリタは、間抜けな自分に気付かれたくないと、平静を装ってみる。
 さりげなく辺りを見回した。音に反応して振り返っていたジオールと目が合う。引き締まった口元と、普段と変わらない愛想の無い表情は、「全て気付いている」と言いたげだ。リタは瞬時に顔を反らした。
「まったく、あの男は、この私をわざわざ王都から呼び寄せておきながら、どこをほっつき歩いてるのかしらね!」
 ごまかすように恨みを込めた言葉を吐き出すと、数歩離れたところに立つジオールが、首を振る気配がした。
「存じません」
「あのね、私だって、貴方が知らない事くらいは判ってるわよ。ひとりで時間潰しながら、おとなしく待ってあげるのに腹が立ってきたから、愚痴を言っているだけ。いちいち真面目に答えないでいいの!」
 厳しい口調でジオールに言い捨てると、リタは腕を組んだ。少しだけ考え込んで、名案が重い浮かぶと、腕を解いて身を乗り出す。
「ハリスならカイの行き先を知ってるわよね」
「おそらくは。ですが……」
「が?」
「私はハリスが今現在どこに待機しているかを存じません」
 リタは脱力し、椅子の背もたれに寄りかかる。当たり前の事に気付かず、得意気に発言した自分自身に呆れてしまった。
 さて、どうしよう。リタは新たに考えはじめた。読書で時間を潰すのは無理だと身をもって知っている。かと言って、部屋の中でやる事なくじっとしているのは耐えられない。
 リタはとりあえず立ち上がり、部屋を出る事にした。城の中を適当に歩き回れば、何かしら面白いものに出くわすかもしれないとの、微かな希望に縋ったのだった。
 当たり前に着いて来るジオールを従えて、リタは適当に歩いた。苛立ちを隠そうとしないので、無意識に乱暴な足取りになる。たしなめるような口調のジオールに、「リタ様」と名を呼ばれたが、聞こえないふりをした。
 すれ違う者たちはさほど多くなかったが、全員がいちいち立ち止まり礼をしてくるのは、少し面倒だった。自分の暇つぶしのために、城で働く者たちの仕事の邪魔をしているのではないかとの罪悪感も湧き上がり、困惑してしまう。
 せめて目的地を決めようとリタは思った。そして考え付いたのは、ルスターの執務室だった。日中ならば基本的にそこに居るはずだし、何となくだが、彼ならばカイの居場所を知っている気がしたのだ。
 目的地が決まると、少しだけ足取りが軽くなった気がした。長い階段を昇る事も苦にはならず、ルスターが待つ部屋に辿り着くまであっと言う間だ。
 ルスターの部屋の扉は、開け放たれていた。部屋の中にもそうとうな人数が居そうだが、それでも納まりきらず、通路まで人が溢れ出ているために、だ。
 大抵はリタよりも歳若い青年たちで、身なりからして聖騎士と考えて間違いなさそうだが、全員が全員、かろうじて見た事があるか、まったく見た事ない顔をしているので、おそらくハリスの部下だろう。
 リタの立場なら、彼らを押しのけて部屋の中に入るのは簡単だった。しかし、聖騎士たちの顔の真剣さに圧倒され、ある程度近付くと歩みを止める。いっそ立ち去るべきか、とも考えたが、見えない状況に興味を抱いてしまったリタには、できない選択だった。
「何かしら、あれ」
 リタは自身の隣に並んで足を止めたジオールに問うが、彼は無言のまま、何かを警戒しているように険しい視線を聖騎士たちに向けていた。
「『魔物の子』の事です」
 人垣の向こう、部屋の中から、聞き捨てならない言葉が聞こえた。
 リタは咄嗟にジオールに振り返る。ジオールも同じ事を感じた――いや、彼はもしかすると、声が聞こえる前から気付いていたのかもしれない――ようで、リタと目が合うなり小さく肯いた。
「誰の事だ?」
 返事はハリスの冷たい声だ。
 彼もここに居たのかと、冷静に現状を受け止めながらも、リタは自分の頭に徐々に血が上るのを感じていた。
「とぼけないでください。今もアスト様のおそばに居る、子供の事です」
「悪いが、とぼけたつもりはない。本当に判らなかったのだ。ユーシスは『魔物の子』ではないからな」
「ハリス様……!」
「それともお前たちは、アスト様のお力を、カイ様のお言葉を、信じられないのか?」
 言われた聖騎士たちにとっては、ハリスの反論は卑怯に感じただろう。しかし、心情的にユーシスの味方であるリタにとっては、清々しいほどだった。握りしめた両の拳に力を込め、内心でハリスを応援してしまう。
「アスト様やカイ様を疑えるわけがありません。判りました、あの少年が人であると、我らも信じましょう。しかし、そうであっても問題がないわけではない。あの少年が魔獣の意志に従い、アスト様のお命を奪おうとしたのは、紛れもない真実なのですから」
「私は報告を聞いたのみだが」
 次に反論したのはルスターだった。いつもの柔らかさの欠片もない、硬質な声だ。
「彼は自ら魔獣に従ったわけではなく、ただ操られたのでは?」
「それに何の違いがあると言うのです。あの少年がアスト様にとって危険である事に、変わりはないでしょう。新たな問題が起こる前に、早々に何らかの処分を――」
 リタは黙って見ているつもりだったが、体が勝手に動き出した。足は力強く床を蹴り、数歩分だけ部屋に近付く。
 まずは、部屋に入れなかった若い聖騎士たちが、リタに気が付いた。彼らは慌てて身を引き、リタが進むための道を作る。リタが進めば進むほど、部屋の内部にまでリタの存在が伝わり、やがてリタは、ハリスの前に辿り着いた。
 ハリスも、ルスターも、その場に居る聖騎士たちも、全員がリタに注目した。後ろの方に隠れる若者の中には、気まずそうな顔をしているものも居たが、多くは堂々とした態度で、リタに礼をした。
「貴方たち、今の言い方は……」
「リタ様」
 ハリスはリタの名を呼ぶだけでリタを諌めると、部下たちに背を向け、リタに歩み寄る。流れるような動作でリタの前に跪くと、頭を下げた。
 無防備な首が、リタの前に晒される。
「どうかお許しを。彼らの発言に誤りはありません」
 ハリスの言葉に、リタは僅かに動揺したが、静かに呼吸する事で気を落ち着かせた。そして、彼が態度と合わせてリタに伝えようとした真意を理解すると、小さく、しかし力強く肯いた。
「それを、貴方が言うのね」
「はい」
「もちろん意味は判っているわね?」
「はい」
「ジオール!」
 リタは自身の護衛隊長をそばに呼び寄せると、目だけで合図をし、彼の腰に吊り下げられた剣を引き抜く。
 ジオールがいつも片手で軽々と振り回しているからと甘く見ていた。リタにとっては、両手で構えても、少し重いくらいだった。腕が震えだしては情けないので、早々に事を片付けようと決めたリタは、ハリスの首に刃をあてがう。 
「いい覚悟だわ」
「悔いはございません。あの時一度は覚悟いたしましたから――むしろ、長生きしすぎたくらいです」
「確かにそうかもしれないわね」
「リタ様!」
 聖騎士たちは慌てた様子で、リタとハリスの元に駆け寄ってきた。みな一様に「何が起こっているのか理解できない」と言った面持ちだ。リタが神の娘でなければ、羽交い絞めにしてでも止めにかかったかもしれない。
「何をなさるおつもりですか」
「貴方たちが言ったんでしょう? 危険人物はさっさと処分しろって」
「それは、『魔物の子』の事です。なぜハリス様が!」
 魔物の子。
 その言葉に篭る差別的な感情が、リタは嫌いだった。自分がまだ神の娘だと判る前、得体の知れない力のせいで化け物扱いされていた時代、向けられていたものに良く似ているからかもしれない。
 いっそう不愉快になったリタだが、動揺する聖騎士たちの滑稽さに、少しだけ溜飲を下げる。笑いたい気分にもなったが、笑ってしまっては意味がないと判っていたので、必死に堪えた。
「知らないなら教えてあげる。貴方たちの隊長であるハリスは、かつて魔獣の意志に操られ、神の娘であるこの私と、シェリアと、おまけにこのジオールにも剣を向け、命を奪いかけた前科があるの。どう? 処刑されて当然の、とても危険な男だと思わない?」
「そんな……!」
「リタ様」
 ジオールが一歩身を乗り出し、その大きな左手で、リタの両手ごと柄を握った。
 まさか邪魔をするつもりだろうか。リタは内心慌てて、ジオールを睨み付けた。いつもは妙なところで察しがいいくせに、こう言う時に限って鈍いのは困りものだ。
「リタ様のお手を煩わせるまでもありません。私が」
 言ってジオールはリタの手から剣を奪い取った。
 とうとう我慢できなくなったリタは、小さく吹き出してしまう。だが、その程度の笑いならば、今の雰囲気を壊すほどではなかった。むしろ、神の娘の厳しさが浮き彫りになり、青年たちに畏怖の念を与える役に立ったようだ。
「そうね。私が自ら手を下す必要は無いわ」
「リタ様!」
 聖騎士たちの先頭に立つ、一番年上と思われる青年が、強くリタの名を呼んだ。
「大神殿でお過ごしのリタ様はご存じないかもしれませんが、ザールにてハリス様の下に勤めておりました我々は、見てきました。アスト様やカイ様の身の安全のため、ザールをはじめとする大陸全土の平和を守るため、ハリス様がどれほどご尽力なされていたか。ですからどうぞ、ご慈悲を」
 リタは体ごと聖騎士たちに振り返り、空色の瞳でひとりひとりを真っ直ぐに見上げた。
「慈悲を、ハリスだけに与えろと言うの?」
「はい」
「あの子が、ユーシスが、何も守らなかったから?」
 リタはまず、随分勝手な言い草だと、怒りを覚えた。だがすぐに怒りは冷めた。彼らの言う通り、ザールに居なかったリタはザールで起こった大抵の事を肌で感じていない。怒りを覚えるリタの心こそ、勝手なのかもしれないと思ってしまったのだ。
 張りつめた空気の中、誰もが口を噤み、静かな時間が流れる。
「何も守らなかったわけではない」
 その時を終わらせたのは、ルスターの声だった。
「ユーシスは、一番大切なものを守ってくれた。我々が殺し続けた、アスト様のお心をだ」
 家族なり、友人なり、恋人なり、大切な人が居る者ならば、ルスターが語った意味を理解できない訳がない。
 納得した者もいくらか居た。多くは困惑した。「だからと言って見逃せない」と言いたそうにしている者も居た。内心はそれぞれ違っていたが、皆一様に口を閉ざし、再び静かな時が訪れた。
 沈黙には耐えられたが、己の内側から湧き出る感情を押さえ込む事には耐えきれず、リタは口を開く。だが、言いたい事が沢山ありすぎるせいか、何から語れば良いのか判らず、いたずらに時間が過ぎていった。
 戸惑うリタの代わりに沈黙を破ったのは靴音だった。リタの周囲に居る男たちのものではない――彼らならばもう少し重い音を立てる――事は判っていたが、女性か子供のものだろうと予想を立てるがせいぜいで、誰のものかがすぐには判らなかった。
 人をかき分けて現れた少年を目の前にしたリタは、口を閉じて息を飲む。彼が、話の中心に居た人物のひとりであったからだ。空色の瞳は憂いに満ちていて、今の話を聞いていたのだろうとリタは察した。聞いていなかったとしても、場の雰囲気からどんな話をしていたか、理解してしまったのだろう。
「アスト」
 リタが名を呼ぶと同時に、今にも泣き出しそうに見えたアストの表情が変化した。太陽の光を浴びたかのように、陰りをどこかへと消し去った、強い眼差しだった。
 アストは振り返り、戸惑う聖騎士たちの前に堂々とした態度で立つ。その姿は力強く、頼もしく、眩しく、「ああ、自分たちはこの少年に救われるのだ」と、見るもの全てを納得させるだけの説得力があった。
「心配かけてごめん」
 立ち姿と同様に、声もまた力強い。迷い、泣いていた少年の姿は、どこにも見えなかった。
「皆の不安や心配事は、魔物や魔獣がこの大地に存在しているせいだと思う。他にも理由はあるだろうけど、一番大きいのは、そこだろう? だからもう、大丈夫」
「アスト様……」
「明日、俺は神の剣を手に入れる」
 場が少しだけ騒がしくなった。
 アストの言葉の意味を知る者ならば、感激して当然だった。リタとて、胸の奥の方が痺れ、体中に力が漲ってくる気がしたくらいだ。
 リタはアストの顔を眺めた。小さく微笑む横顔は凛々しいものだった。
「そして魔獣を倒し、魔物たちを根絶やしにし、大地に平和を呼ぶ。約束するよ」


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.