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五章 神の剣




 冷たい水に浸された布が、ユーシスの額の上に置かれた瞬間、頭の熱が徐々に奪われていく。
 気持ち良かった。この感覚がずっと続けばいいのにとユーシスは願ったが、儚い願いだった。布はユーシスの熱を奪う事で、すぐに温くなってしまう。小さく落胆したユーシスは、熱のこもった息を吐いた。
 同時に、額から布が取り払われる。今日は随分こまめだなと気になったユーシスは、薄目を開けた。軽く見上げたところにあった顔が、よりによって従姉妹のものである事が判ると、慌てて飛び起きる。熱のせいか体に力が入らず、上体を僅かに起こすだけに留まったが。
 水を汲んだ手桶の中に布を浸した後、絞っていた手が止まる。振り返った女性の顔は、正面から見てもやはりナタリヤのもので、ユーシスは無意識に身構えていた。
「具合はどうです?」
 ユーシスの動揺とは対照的に、風の吹かない湖のように落ち着いているナタリヤは、ほのかな笑みを浮かべている。「随分汗をかいてましたから、喉が渇いているでしょう?」などと言いながら、水を差しだしてきた。
 渇いた喉と体の欲求に逆らえなかったユーシスは、とりあえずおとなしく水を受け取り、飲み干す。
「どうして貴女が、こんなところに」
 喉を潤したユーシスは、投げかけられた問いに答える事なく、別の問いを口にした。
 あんな事件が起きてもなお、甥の面倒を見る事をやめようとしない伯父の人の良さは、今更驚く事ではなかった。モレナはもう居ないのだから、他の人物が代わりに館の中に居る事も、不思議ではない。
 問題なのは、モレナの代わりがナタリヤである事だった。「従姉妹が」と言えばおかしくないかもしれない――これまでに自分と彼女がありきたりな従姉妹の関係を築いていたならば、だ――が、そこを「領主の娘が」に置き換えると、途端にありえなくなる。
「どうして、と問われると……」
 ナタリヤは僅かに迷いを見せてから答えた。
「どさくさに紛れて、としか」
「どさくさ?」
「ええ。昨日の貴方は、疲労と熱で意識朦朧としていたので、すぐに休ませた方が良いだろうと、カイ様が貴方を館に運び込んだんです。それから、何が起こるか判らないし、病人をひとり放り出すわけにもいかないしと、誰かが貴方の世話をしなければ、との話になって――せっかくだからと、私が立候補しました。普段ならどなたかに止められていたかもしれませんが、見渡す限り目上の方ばかりだったせいか、特には」
 ユーシスはとりあえず納得する事にして、再び寝台に横になる。
 柔らかな枕に後頭部を埋めると、ふいに意識が晴れた気がした。回りはじめた思考は、ナタリヤによってはっきりと語られなかった現実を受け止め、少しだけ暗い気持ちになる。
 つまり、ナタリヤより立場が下にある者で、ユーシスの世話をすると名乗り出た者が居なかったのだ。元より魔物の子として避けられていたユーシスであるから、望んで手を上げる者が居ないのは当然だろうが、領主の娘に雑用を押し付けて知らん顔をするとなると、よっぽどの事と言えるだろう。
 口の中に広がる苦い感情に顔をしかめるユーシスの額に、水に浸した布が置かれる。相変わらず冷たくて気持ち良かったが、今回は照れ臭さと申し訳なさが混じってしまい、少しだけ居心地が悪かった。
「忙しくないんですか?」
「誰がです?」
「貴女が。ここで閉じこもって暮らしている僕には判らないけれど、領主って言うのは、色々仕事があるんでしょう?」
 ナタリヤは浮かべる笑みを強くした。これまでの、ただ相手を労わるものとは雰囲気が変わり、やや意地悪そうに見える。
「まだ父は健在で、私はただの補佐ですから。居なくても問題はありませんよ」
「そうですか?」
「ええ。私が手伝えない分、父が忙しくなっているでしょうが」
「問題じゃないですか。後で叱られたりは……」
「大丈夫ですよ。昨晩城に戻ったカイ様やアスト様が、父に状況を伝えてくださったはずです。今頃父は、怒るどころか精力的に、ふたり分働いていると思います。そう言う人ですから」
 何が大丈夫なんだかと言おうとしたユーシスは、しかし何も言わなかった。伯父とは会った記憶が無かったが、彼がユーシスのためにしてくれた数々の事を思い出すと、「本当に大丈夫なのだろう」と、素直に信じられたのだ。
「変な人たちばかりだ」
 代わりに、率直な感想を口にする。すると、首を傾げたナタリヤが、興味と言う名の視線を向けてきた。
「アストの事は最初っから変なやつだと思ってました。でも、思い返してみると、アストだけじゃありませんでした。カイ様も、リタ様も、伯父さんも、貴女も、皆変だ。僕を恐れないんですから」
 ユーシスは真実魔物の子だった。魔獣の手先として、傷を負わせる事もした。
「僕だって、僕自身が怖いくらいなのに」
 小さな笑い声がユーシスの耳に届く。
 それは忍び笑いと言えるほど微かなもので、本人は隠すつもりであったのかもしれない。だが、ふたりしか居ない静かで小さな部屋の中では、充分な音だった。
 笑い声の主は、柔らかな手を伸ばす。先ほど起き上がった時に乱れた毛布を整え、冷えかけたユーシスの肩に温もりをくれた。
「私だって、私自身が怖いですよ」
「意味が違う」
「そうですか? 理性に勝るものが勝手に体を動かして、アスト様を傷付けた。同じだと思いますけど。突き動かしたものが自分の意志だったか他人の意志だったか、そのくらいの違いで――あら? 私の方がよっぽど悪質ですね」
 ナタリヤは自虐的な事を口走りながら笑い、仕事を終えた両手の行き場を探した後、膝の上で重ねた。
「アスト様は私をお許しくださった」
 罪の意識が宿る声音は、ユーシスの記憶を呼び起こす。
 あの時アストは泣いていて、だからユーシスは、ナタリヤに対して怒りを抱いていた。本音を言えば今もまだ、彼女に対してわだかまりがある。アストが彼女を許したと言うなら、ユーシスにはもうあれこれ言う権利などないのだが。
「ありがたい事だと思っておりました。今も思っております。けれど、少しだけ悔しくなりました」
「どうして」
「アスト様は、貴方の事をお許しにならなかったから」
 心臓が跳ね、ユーシスの中で、鼓動ばかりが鳴り響く。
「もちろん、悪い意味ではありません。許す前に必要なものを、アスト様ははじめから、貴方に対して抱かなかった、と言う事です」
「でも、それは」
「原因とか、動機とか、結果の問題ではなく、貴方だからなのだと思います。それが羨ましくて、少し妬けました」
 言ってナタリヤは、彼女自身の唇に、立てた人差し指を押し付ける。「アスト様には内緒にしておいてくださいね」と言って、可愛らしく笑った。
 何と返せば良いのか。迷うユーシスの救い主は、乾いた鈴の音だった。はじめは何の音か判らず戸惑ったユーシスだが、音に反応して立ち上がったナタリヤが部屋を出て行った時、客人が来たのだと知った。
 小走りで遠ざかっていった足音は、すぐに戻ってくる。後に複数の足音を引き連れて――ユーシスの部屋の前に辿り着く頃には、足音のひとつがナタリヤを追い越していたが。
「ユーシス! 元気か!」
 扉が開くと同時に、明るい声が響く。
「全然。だいぶ熱があるみたいだ」
「そっか……」
「お前が元気だからって、病人の周りであまり騒ぐなよ」
 アストの後ろから現れ、アストの頭を上から押さえつけるのは、カイだ。
「食欲はあるか?」
 カイに問われてはじめて、ユーシスは自身の空腹を自覚した。普段ならば、体調が悪い時はあまり食べる気がしないのだが、気分だけは晴れている事と、最後に食事をしたのが一昨日の夜であった事が手伝って、それなりに食欲が湧いていた。
 ユーシスが肯くと、ナタリヤは慌てだす。
「ごめんなさい。そばに居たのに、ちっとも気が回らなくて。すぐに何か作ります」
「作れるのか?」
「はい。難しいものでなければ」
「何なら俺がやろうか?」
 ナタリヤは目を見開いてカイを凝視した。
「カイ様はお料理がお上手なのですか?」
「子供の頃は父親とふたりだけで暮らしていたし、一時期城の外で暮らしていた事もあったから、それなりには――いや、どうだろうな。最後に作ったのは、十五年近く前だから」
 ナタリヤは笑みの中に困惑を混ぜ込んだ。
「ならば、やはり私が。王都に居た頃は自炊しておりましたし、今も時々は母と菓子などを作りますから」
 それでも料理は四年以上ぶりになるのではなかろうか。
 ユーシスは出てくる料理に期待をかけるのをやめようと決めた。状況が状況だけに、元々贅沢を言うつもりはない。菓子が作れるならば、食べられないようなものは出てこないだろうから、それで充分だ。
「あ、俺も手伝うよ、ナタリヤ! ここに居たら、無駄に騒いじゃいそうだから」
「ですが……いえ、そうですね。急いだ方がいいでしょうから、お願いいたします」
「手伝うならいいが、邪魔はするなよ」
「しないよ!」
「そうか。せいぜい頑張れよ」
 むきになって反論するアストを軽くあしらったカイは、台所に向かうふたりを見送った。
 アストたちの到着で急にうるさくなった部屋が、また急に静かになる。突然の変化だけでも居心地が悪いと言うのに、カイとふたりきりと言う妙な顔合わせも合わさって、ユーシスはどうしていいか判らなくなった。
 足音が鳴った。カイが少しだけ移動し、ナタリヤが部屋を出た事で空いた椅子に腰を下ろしたのだ。
「ちょうどいい。君だけに言いたい事があったんだ。昨日はアストがいい事を言っていたから、言いそびれてしまったんだが」
 そこで一度言葉を切ったカイは、静かに深呼吸してから続けた。
「責めはおとなしく受けるつもりなんだ」
 ユーシスは無言で、重い体を起こす。本当は寝ていたかったが、できる限りカイと目の位置を近付けたかった。
「正直に、本当の事を言うよ。俺の大切な人たちが君の生を望んだ事や、正義感が働いた事が、君を生かした理由である事に嘘はない。けれど、理由はもうひとつあったんだ。それは、幼くて我侭な卑しい心で――ちょうど君が生まれた頃、俺は、自分の無力さに嘆いていたんだ。そんな俺の目の前に、君と言う、俺の力で助けられる命が現れて」
 ひと呼吸置いてから、カイは続ける。
「嬉しくてしょうがなかったんだよ」
 くだらない。
 一番初めに抱いた感想はそれだった。だがすぐに、ユーシスが産まれた頃の彼は、今のユーシスやアストとさほど変わらない年齢の少年だったのだ、と言う事実を思い出す。思い出してしまうと、正直な感想を口にする気にはならなかった。
「それはもう、いいです。昨日は取り乱していて、すみませんでした」
「……いいのか?」
「はい。アストが、僕が生きてて良かったと言ってくれたから。前にも言われたのに、僕は迷った。だからもう、迷いたくないんです。アストの隣に、胸を張って立つためにも」
 カイの大きな手が、普段ならアストにするようにユーシスの頭に乗り、蜂蜜色の髪をくしゃくしゃに撫で回す。少し痛かった。ユーシスの髪は、アストのように細くて真っ直ぐではなく、癖がある。カイの指に絡みやすいののだ。
「俺は正しい事をしたんだろうな」
 呟くカイの笑顔は、喜びに溢れていた。それはおそらく、ユーシスの責めを受けなかったからではないのだろう。
「アストの父親としてだけではなく、エイドルードの御子としても」
 大げさな物言いに不安を覚えたユーシスは、睨み付けるようにカイを見上げた。
「どう言う意味です?」
 問うと、カイは曖昧に笑い、ユーシスの頭から手を離した。
「すぐに判るさ。きっとな」


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