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四章 芽生えたもの


12

 冷たく静かで薄暗い、一面が灰色のみの世界の中に、押し殺した泣き声が響いていた。
 時折ユーシスの名を呼ぶ、聞き覚えのある涙声は、間違いなく少年のものだ。しかし、自分自身のものではなかった。ならばアストだろうとユーシスは知った。ユーシスは、自分とアスト以外に、同じ年頃の少年の声を知らないのだから。
 ユーシスは灰色の中にアストの姿を探そうとして、はじめて体が動かない事を知る。ただ、意識だけは妙にはっきりとしていた。そしてその意識が、灰色の世界を自由に見渡している事に気付いた時、この灰色の世界は現実ではなく、ユーシス自身が見ている夢なのだと、漠然と理解した。
 暗くも明るくもない一色に塗りたくられた、意味のない夢。なのに、見えない場所から届く声だけが、強い意味を持っている気がする。それもまた、ユーシスが見ている夢なのだろうか。それとも、現実のものなのだろうか?
 確かめるために、ユーシスは手を伸ばそうとした。夢の中の自分には体がなかったので、現実の体を。
 全ての力を集中する事でようやく、手が僅かに動く。
 意識の外に居る誰かが、ユーシスの動きに気付いたようで、ユーシスは自身の手を強く握る誰かの手を感じた。同時に、灰色がどこかへ流されて行く。意識は現実に戻り、固く閉じていた瞼は解放された。
「ユーシス!」
 開いたばかりの目に最初に映ったのは、アストの顔だった。涙に濡れた表情は、四年ほど前に一度だけ見た彼の泣き顔とまったく同じだった。この四年間で随分成長したように思っていたが、外見だけの話だったのだろうか。微笑ましく思ったユーシスは、無意識に表情を和らげていた。
 手を握る力が強まる。握り潰されるかもしれないと不安に思うほどに痛かった。だがユーシスは、痛みを訴える事をしなかった。今自分が感じている痛みは、アストの想いの強さなのだと知っているからだ。
「アスト……」
「ごめっ、ユーシス、ごめん」
 ユーシスが名を呼ぶと、アストは即座に謝罪を口にした。
 嗚咽を必死に飲み込みながら発する言葉は、幾度も途切れる。それでも先に続けようとするので、短い言葉がいくつも連なっていた。
「どうして君が謝るのさ」
 ユーシスは精一杯の想いと力を込めて、アストの手を握り返す。
 魔物と化したモレナによって、ユーシスの内に眠っていた黒いものがはじけた時、ユーシスの意志と体は魔獣の意志に支配された。だが、ユーシス自身の意識が完全に失われたわけではない。何が起こったのか、自分が何をしたのか、ユーシスははっきりと覚えていて、だからこそ、今謝罪するべきはアストでなく、ユーシスの方だと判っていた。
 アストの事だから、ユーシスに剣を向けた事を謝っているのかもしれない。だとしたら、必要のない事だとユーシスは思った。アストが光の剣を振るってくれたからこそ、ユーシスは魔獣の意志から解放され、再びアストの前に戻って来られたのだ。それはユーシスにとって、何にも勝る喜びだった。
 仮にアストの剣でユーシスが死んでいたとしても、やはり謝罪を受ける必要はないだろう。アストは、やるべき事をやっただけなのだから。
「君は約束通り、僕を守ってくれたんだ。ありがとう」
 アストは強く首を振った。
「でも、俺は」
 一度鼻をすすり、涙を拭う。
「お前は魔物じゃないと、信じていたつもりだったのに。そう、言い続けていたのに。なのに、俺は、さっきまで、お前が本当に魔物なのかもしれないって、疑ってた。俺の剣で、お前が死んでしまうかもしれないと思って、剣を振るうのをためらったんだ」
 アストの告白によって、ユーシスの手から力が抜けた。いや、手からだけではなく、全身からだったのかもしれない。
「馬鹿だな」
 小さく呟いたユーシスは、できる限りの笑みを浮かべる。ユーシスと同様に力が抜けたアストの手を振り解き、自身の手を自由にすると、涙に濡れたアストの頬に触れ、涙を拭った。流れる涙が多すぎて、ユーシスの手では足りなかったが。
「どうして疑ったりしたのさ」
「ごめん、ごめん……」
「疑う必要なんてはなかったんだよ。君は、僕が魔物だと信じて良かったんだ。僕は、それだけの事をしてしまったんだから」
 ユーシスはアストに触れていた手を放す。生乾きの血液の染みが大きく広がった腹部まで手を下ろしてから、再び触れた。切り裂かれた服の向こうの傷は、綺麗に消えている。神の娘リタの、偉大なる力で。
 もしリタがこの場に居なかったら、アストはどうなっていたのだろう。傷や失血によって、命を落としていたのだろうか――想像する事すら耐えられない悲しみに全身が震えだすのを感じたユーシスは、固く目を伏せた。
 ユーシスの中で、罪悪感や後悔が渦巻く。同時に記憶は過去へと遡りはじめ、やがて自身を苛む感情が産まれた原点へと辿り着いた。
 ユーシスの心は急速に冷え、感情の向かう先が変化する。自分自身でも、アストでもない、新たな人物へと。
 運が良いと言えるのだろうか。その人物は、ゆっくりとユーシスの元に近付いてきていた。ちょうどアストの体が壁になっており、顔は見る事は叶わなかったが、力強い足取りは、間違いなく彼のものだった。
 ユーシスはアストの肩を掴んだ。アストの体と自身の腕を支えにし、上半身を起こす。体は軋むように痛みを訴えたが、気力で耐えた。滲み出る汗だけは抑えきれなかったが。
「カイ様」
 強い意志を込めて名を呼ぶ。すると、カイは足を止めた。
「僕を操ったのは、父が僕の中に残した種なのだと、モレナは言っていました」
 顔を上に向けるのも辛い。せめて眼差しだけでもと、ユーシスは上目遣いで必死にカイを睨みつける。
「そうか」
「本当はもっと早く芽生えるはずだった種だとも言っていました」
「そうか」
「貴方が、僕に生誕の祝福を与えなければ、とも」
 カイは神妙な顔をしてユーシスを見下ろしたまま立ち尽くしていたが、アストの肩を掴むユーシスの手に、徐々に力がこもっていくのを知ると、ユーシスにできる限り近付いてから、地面に膝を着いた。
 手が届くところにカイが来ると、ユーシスは体勢を崩しながら、必死に腕を伸ばす。カイの胸倉を掴んだ。遠くに群がる者たちが騒然としたが、気にしていられなかった。
「貴方は知っていたんですか。父が、生まれる前の僕に何を仕込んでいたか」
 カイは無言を貫いた。真実は判らないが、ユーシスにとっては肯定でしかなかった。
「詳しい事が判らなくても、貴方なら、僕が魔物のようなものだと知っていたはずでしょう。どうして――」
「ユーシス」
「どうして僕に祝福を与えたんですか。どうして、幼い僕を殺さなかったんですか。どうして僕は、この手で、アストを傷付けなければならなかったんですか……!」
 汗で滑ったのか、体力の限界だったのか、ユーシスの手は滑り落ち、カイを手放す。両手は大地に着いた。その上に、熱い雫が零れた。
 僕は、泣いているのか。
 自分の状態を冷静に受け止めたユーシスは、俯く事でカイやアストから顔を隠す。嗚咽も必死に飲み込み、泣いている事を気付かれないよう勤めたが、濡れたユーシスの手の上に、アストの手が重なった。
 アストの手にもユーシスの涙が落ちる。これでは、気付くなと言う方に無理があるだろう。
「かつての俺の行動が、今の君やアストに大きな苦しみを与えたんだな」
「ええ、そうですよ」
「だが、君やアストの元には、それ以上の喜びが訪れているんじゃないか?」
 悔しい事に、カイの言う通りだと、ユーシスはすぐに理解してしまった。己の心を痛めつける苦しみや悲しみは、アストと出会う事がなければ、けして知りえないものなのだから――だからこそどんな痛みでも乗り越えられるのだろうと判っていながら、素直に認めるのは悔しかった。
「モレナの話を聞いた時、僕は、貴方を愚かだと思いました。けれど同じくらいに、感謝の念を抱きました。その時は、です。今は」
「ユーシス、俺は前にも言ったけど」
 ユーシスの言葉を遮ったアストは、再び、ユーシスの手を強く掴んだ。
 なぜ邪魔をするのだと、僅かに顔を上げたユーシスは、小さな恨みを込めた目をアストに向ける。
 ユーシスの視線に怯む事なく、アストは微笑んでいた。まるで、全てを受け止めるかのように。
「お前が今も生きていて、あの雨の日に会って、今こうして目の前に居てくれる事を、凄く嬉しい事だと思ってる」
「あの時と今とは」
「変わらない」
 声音は優しい。だが、何よりも力強く、ユーシスの心を真っ直ぐに貫く言葉だった。
「変わらないよ、ユーシス。俺がどんなに苦しんで、傷付いたとしても。たとえ死んだとしても、絶対に変わったりしないんだ」
 こみあげてくるもの抑えようと、ユーシスは目を閉じる。
 視界は暗い闇と化した。だが、指先から伝わる温もりは、どんな朝をも上回る清冽な明るさを秘めており、胸中に広がる苦い想いを、全て覆い隠してくれた。
 僕もだ。
 そう言わなければならないと思った。アストのためと言うよりは、ユーシス自身のために。しかし、声が喉で詰まって出て来ない。たった四文字の言葉すら自由に紡げない自分が情けなく、もどかしく、悔しかった。
 胸が軽くなったのは、アストの優しい手が、ユーシスの肩をに触れた時だ。
 その手は声の代わりに、「言わなくてもいい」と、「判っているから」と、言ってくれているような気がした。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.