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四章 芽生えたもの




 はじめナタリヤは、どこか具合を悪くしたか、単純に躓いたかで、体勢を崩したユーシスが、アストにもたれかかったのだと思っていた。
 違うかもしれないと疑ったのは、アストの手がけしてユーシスを支えようとせず、ユーシスの手首を掴むだけにとどまっていたからだ。らしくないと思い視点を上げたナタリヤは、アストの表情が苦悶に歪んだまま強張っているのを目にする。愕然としながらも、立ち止まっている事はできず、アストの元へと駆けた。
 血の気の引いたアストの顔が重く項垂れる。アストは一瞬だけ額をユーシスの肩に預けたが、すぐに地に崩れ落ちた。
 すると開放されたユーシスの手がナタリヤの手に入る。その手は、アストの腹部ともども赤く染まっていた。
「アスト様!」
 信じられない光景を目の当たりにし、自身も倒れ込みたい気分に支配されながら、それでも立ち続けて居られたのは、足元にアストを転がしたユーシスが、形良い唇を歪ませながら、禍々しい笑みを浮かべていたからだった。
 ユーシスが倒れるアストに向けて血まみれの手を振り上げるので、ナタリヤはためらわず、ユーシスの手を蹴り上げた。そうして体勢を崩したユーシスに、勢い任せの体当たりを食らわせて突き飛ばすと、アストの傍らに両膝を着き、少年の体を胸に抱いた。
 アストを刺したものは一体何なのだろう。ユーシスの姿を装った魔物だろうか。それとも、ユーシスがおかしくなったのか。生身の手で人の体を抉ったのだから、前者と考えるのが妥当か――自身のものと同色の瞳を睨みつけながら、ナタリヤはアストを抱く手に力を込めた。
 不気味な笑みを顔面に貼りつけたものの正体が何であろうと、アストを渡してはならない事だけは確実だった。そのためには、けして離してはならない。たとえ、この身を盾にしようとも。
 強く決意しながらも、ナタリヤの気は動転しはじめる。触れたアストからはまだ鼓動が感じられたし、浅い呼吸は温かくナタリヤの指に絡むのだが、傷の深さはけして安心できるものではない。もしこの若く幼く尊い命が散ってしまったとしたら――考えるだけで恐ろしい事だった。
「リタ様! 助けてください、リタ様!」
 今のアストを助けられる人物の存在を思い出したナタリヤは、できる限りの大声で叫んだ。
 さして間を空けず、軽い足音が駆け寄ってくる。伸ばされた白く細い腕がアストの傷の上にかざされると、ナタリヤはようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。
「どうなってるの? あれはユーシスじゃないっての? それとも、ユーシスはアストの友達なんだって思ってた私が間違ってるの? あるいは」
「わ、判りません、私も」
 ナタリヤは喉を鳴らした。
「でも、できれば、ユーシスじゃない事を願ってます。そうでなければ、悲しすぎますから」
 傷が塞がっただけのアストの体をリタに預けると、ナタリヤは立ち上がり、剣を構え直した。
 ユーシスの形をしたものも、すでに立ち上がっている。頬に付着した土の汚れを拳で拭いさると、ナタリヤに対して不敵な笑みを浮かべた。
 ユーシスとほとんど会った事がないナタリヤだが、アストが語るユーシスならばよく知っている。ユーシスは、冷めた口調でアストを傷付ける事があったとしても、素直に謝る事を知っている少年で、けしてアストを裏切ったりしないはずだ。アストを傷付けながら笑う事など、できる子ではない。
 あれは偽者だ。
 ナタリヤは構えたまま、ユーシスの形をしたものへと突き進む。アストを傷付け自分たちを惑わす不快な生き物を、早く消してしまわなければならないと思った。
 間合いに入るよりもずっと早く、ユーシスの形をしたものは、透き通る声で歌うように声を紡いだ。聞き惚れたいほど綺麗な声だが、状況を考えれば何かしら良くない意味があるとしか考えられないのだから、油断はできない。
 人であるナタリヤには意味が理解できないそれが、意志を疎通するための言葉のようなものであるのだと判ったのは、ユーシスの形をしたものを守るように、魔物が集まってきたからだった。
 空を走る魔物たちは、木々を突き破って現れると、ユーシスの形をしたものの周囲を飛び回る。地上を駆ける魔物たちは、聖騎士たちに阻まれて自由がきかないためにまだ駆けつけてきていないが、勢いが増し、それだけで聖騎士たちを圧倒しそうな勢いだった。
 当然ナタリヤが構えた刃は、ユーシスの形をしたもののところまで届かず、一番外側を飛び回る魔物の羽を傷付けるがせいぜいだった。一匹を傷付ければ、近くの魔物たちもこぞって反応し、まとめてナタリヤに飛びかかってくる。
 草を刈るように乱暴に剣を振り回しながら後退する事が、ナタリヤにできる全てだった。その程度で追い払える程度にしか力のない魔物である事を幸いと思うべきなのか、後退を余儀なくされた事を悔やむべきなのか――はじめは前者が強かったナタリヤだが、魔物たちの隙間から、少年の姿をしたものの冷ややかな笑みが見えた時、後者の想いが力を増した。魔物たちの壁を追いやらなければ、あの生き物を消し去る事ができない。
 もどかしい思いで剣を振るい続けるナタリヤの隣に、ハリスが駆けつけて来る。ハリスが振るった鋭い一撃は、小さな魔物を二体同時に叩き落とした。
「ハリス様。あちらの方は大丈夫なのですか?」
「ジオール殿たちに任せた。それより、無事か?」
「はい、私は。アスト様も、リタ様の癒しの力があれば、回復すると思います」
 力を込めた一刀で、一匹の魔物を切り捨ててから、ナタリヤは続ける。
「申し訳ありません。力及ばず、アスト様をお守りできませんでした」
「ジオール殿に頼まれたそうだが、本来アスト様をお守りするは私の役目だ」
 ハリスの言葉は会話を断ち切る事を望むかのように冷たく、彼が抱いた後悔の強さを如実に表していた。
「むしろ感謝しよう。君たちが現れたからこそアスト様はこの場に留まったのだから。もしあのままユーシスと共に城に向かっていたら、もっと恐ろしい事になっていたかもしれん」
 確かにハリスの言う通りかもしれなかった。リタの手どころか、他の誰の手も届かないところでユーシスの形をしたものが行動に出ていたら、アストはされるがままだっただろう。その上、魔物たちがザールの町中に呼び込まれていたかもしれない。
 ナタリヤたちはまとわりついてくる魔物を全て片付けると、肩を並べて構え、息を整えた――息を整えたのは、ナタリヤだけだったが。
 重なり合う魔物たちの向こうから、再度美しい声が響くと、ナタリヤはハリスを見上げた。
「また魔物を呼んでいるのかもしれません」
「今の戦力でこれ以上は厳しいな。出かけに手配した増援が到着するはずだが、いつかは判らん」
「アスト様のお力に縋るわけにはいきませんか?」
「緊急事態だ、やぶさかではないが――アスト様に可能だろうか?」
「もちろん回復されてからの話です」
「いや、そうではない」
 魔物たちの隙間からちらちらと蜂蜜色の髪が覗いて見え、ナタリヤはハリスが危惧するものの正体を察した。
「あれが、ユーシスの形をしているからですか?」
 ナタリヤが問うと、ハリスは僅かに間を空けてから答えた。
「残念だが、あれはユーシスの形をしたものではなく、ユーシスだろう。アスト様と私は、彼が屋敷の中で魔物ともみあっているのを見ている。そこから演技だったとは考えにくい」
 ハリスを見上げるナタリヤの視線にこもる力が増した。
「私には、あれは魔物に与しているようにしか見えません」
「そうだろう」
「では、ハリス様は、『ユーシスは魔物だ』とおっしゃるのですか。いわれのない差別だと否定してきたものが、真実であったと?」
 ハリスは静かに首を振り、一瞬だけ後方を覗き見た。倒れたアスト――いや、その傍らに座るリタを探したようだ。
「ユーシスは少なくとも半分は人であり、カイ様が『魔物ではない』と認め祝福をお与えになった。ゆえに、ユーシスは魔物ではない。だが、魔物の味方をする者が、すべからく魔物なわけではない」
 謎かけのような言葉が示す答えを、ナタリヤはすぐに導き出す事ができた。ユーシスが魔物の子と呼ばれた由縁を思い出せば、容易な事だった。
 ユーシスの父ユベールが魔獣から与えられたもの。生者死者を問わず、人を操り、魔物に従わせる力。ユベールはすでに亡き者となっているが、同じ力を持つ者がザールのどこかに現れたのかもしれない。
「私もかつてはそうだったが、リタ様のお力で救われた」
 隣に並ぶ男も叔父の犠牲者だった事を知った驚きに浸る余裕はなかった。ナタリヤは振り返り、視線だけでリタに縋る。
 リタはふたりの会話を聞いていたようだ。手はアストの傷にかざされたままだが、顔はこちらを向いている。ナタリヤと目が合った事が気まずいのか、ハリスを見上げる事で目を反らしてしまった。
「私に、ユーシスを正気に戻せって言いたいの?」
 ハリスは強く肯いた。
「相手がアスト様に害なすものならば、私は人であろうと魔物であろうと、切り捨てる事を厭いません。ですが、ユーシスに関しては、それを望まぬ方々もいらっしゃるでしょう」
「確かにね。私もその内のひとりなんだけど」
「周囲の魔物は我々が始末いたします」
 ハリスは流れるような動きで構えを変え、警戒から攻撃へと切り替える。「待って」とリタが呼び止めるのが僅かに遅ければ、一瞬の間に何体かの魔物が地に伏していただろう。
「貴方はひとつ大切な事を忘れているわ。貴方が魔物に操られた時と今とでは、決定的に違うものがある」
 素直に聞けば、単純に苛立っているように聞こえるリタの声。しかしナタリヤは、別の感情を感じとった。悲しげ、いや――寂しげな何か。
 視線は魔物に向けたままのハリスが、意識だけをリタに向けた。
「あの日、私はカイに選ばれなかった」
「存じております」
「だから、力のひとつを失ったの。破邪の力を。だから、だから、私はもう、貴方を魔の気から解放した力を持っていない」
 リタは唇を噛み締め、俯いた。
「私にはユーシスを救えないのよ」


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.