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四章 芽生えたもの




 意識を取り戻すと同時に聞こえたリタの声は、絶望を語っていたように思う。
 体の内側に淀むものを吐き捨てようと、長い息を吐き出したアストは、眠り続けたい願望をどこかに押しやり、重い瞼を開く。
 腹部に手をやった。熱の発生から一瞬送れて激しい痛みが走ったはずのそこから、傷は綺麗に消えている。悪い夢だったのだと都合よく思い込むには、自身が流した血で温く湿る服が邪魔をした。
 ユーシスの手に脇腹を抉られたのは、現実だった。ならば、彼が恐ろしい事を語ったのも、現実だったのだろう。語られた内容はおそらく、巧みに練り上げられた嘘でも、口からでまかせでもなく、紛れもない真実なのだろう。
 アストは血で汚れた手を握りしめ、拳を作った。
「本当に、お前のせいなのか……」
 渇いた喉から吐き出す声は、震え、掠れていた。理性が認めた事を、感情がけして認めようとしないからだ。
「アスト」
 いち早く目覚めに気付いたリタが、アストの名を呼ぶ。
 悲痛な表情は、他にかける言葉が見つからない、と言った様子で、見ている方が辛い。たまらずアストは目を反らし、誰の手も借りずに立ち上がった。
 厚い魔物の壁の向こうに、僅かにユーシスの姿が見える。端整な顔立ちは見慣れたものと同じだが、そこに張りつく表情はいつもの彼と大きく違っていて、厳しい現実をより痛々しくアストに伝えてきた。
 冷たい笑みだ。まるで、人ではない生き物のよう。
 このまま放っておくわけにはいかないだろう。より多くの魔物を呼び込まれ、被害が広がるかもしれないのだ。しかし、具体的にどうしていいのか判らないアストは、呆然と立ち尽くし、ユーシスを見つめる事しかできずにいた。
 後方からリタの声が響いた。聖なる雷を呼ぶ神の言葉。さほど間を空けず、魔物たちの肉が焼ける匂いが漂いはじめる。
 遅いかかってくる魔物からアストを守るため、ハリスとナタリヤのふたりがアストの前に立ちはだかった。ハリスの素早い剣戟は迫る魔物を逃さなかったし、基本に忠実なナタリヤの剣も、魔物を確実に一体ずつ屠っていた。
 せっかく傷を治してもらったんだ。立っているだけじゃ意味がない。俺も何かしないと。
 頭では判っていた。気も逸った。しかし、何をしていいかが判らない。
 魔物を倒すんだ。
 少しは冷静になったのか、ようやく当たり前の答えに行きついたアストは、自身の力の象徴である光の剣の柄を握り締める。
 ユーシスも一緒に?
 自問によって、アストの全身は凍りついた。僅かな間の後、柄にかけた指が解け、腕は力無く垂れ下がった。
 それだけは、嫌だ。
 戦わなければならないと言う使命感と、戦いたくないと言う感情。己の中の矛盾を整理する事も抑える事もできず、アストは再び立ち尽くす。
 守るためなら、救うためなら、いくらでも戦える。けれど、そのどちらでもないと言うのなら、戦いたくない。傷付けるため、滅ぼすためならば、戦えない。
「助けて」
 アストは呟いた。対象を口にはしなかったが、もちろんユーシスの事であり、自分自身の事でもあった。
 魔物の群れから、誰かユーシスを解放してくれないだろうか。神の娘であるリタですら、できないと言っていたけれど――
「っ……!」
 目の前から押し殺した悲鳴が聞こえ、アストは顔を上げる。ナタリヤの声だった。魔物の牙を食らったか、服の左袖が引き裂かれ、赤い血が滲み出ている。
 アストを追い詰める葛藤が、いっそう強まった。このままでは、傷を負う者が増える一方で、最悪死者が出るかもしれない。
「力を、貸してくれる?」
 弱々しい声でアストが言うと、戦い続けるハリスの意識が、ナタリヤの顔が、ナタリヤの傷を癒すリタの視線が、一斉にアストに集まった。
「どうする気?」
「とりあえず、ユーシスを引きずり出す。それで、ユーシスを拘束する。後の事は、それから考える」
 リタは呆れたようでいて、安堵しているようにも見える笑みを浮かべる。
「まあ、いいでしょ。とりあえずはユーシスの口を塞いで、これ以上魔物が増えないようにできればいいんだし。外側の魔物は私に任せて。裁きの雷は力の制御がし辛くて、小さい魔物相手だと近くにいるユーシスも巻き込む可能性があるから、あとは剣でよろしく」
「判りました。私は落雷と共に突撃します――ナタリヤ」
 名を呼ばれたナタリヤは肯き、傷が癒えた腕で剣を構えた。
 カイも光り輝く刀身を持つ剣を構えた。剣の力を解放すれば、ユーシスの周囲に集う魔物たちなど容易に塵と化す事ができるが、それはしない。できない事だった。中心に居るユーシスまでもを巻き込んでしまう恐れがあるからだ。
 神聖語が力強く放たれた。リタが雷を呼ぶ所を、アストはこれまでにも何度か見た事があるが、最も鋭い声だったかもしれない。地上に落ちる雷も同じだけ鋭く、魔物たちの断末魔の叫びが、何重にも重なって響き渡った。
 間髪入れず、ハリスとナタリヤが進む。命を落とすまでには至らなかった魔物や、ユーシスのごく近い位置に待機していたために無傷の魔物たちが、ふたりの剣で次々と屠られていった。
 アストもふたりの後を追いかけた。力の放出を抑えた剣は、目の前の魔物を無差別に葬る事はしないが、魔物に対してはどんなに研ぎ澄まされた刃よりも鋭い切れ味を持っている。虫を潰すよりも容易く、魔物たちを一匹ずつ両断していった。
 突然の猛攻に戸惑ったのか、ユーシスの反応は鈍かった。思いの他容易にユーシスに近付けた事に、驚きながらも喜んだアストは、剣を鞘に戻すと、ハリスとナタリヤが切り開いた道に無理矢理体を押し込み、ユーシスに手を伸ばす。
 ユーシスは避けようと身を捩るが、彼を守るために周囲に群がっていた魔物たちが、彼の足を引っ張った。彼には、逃げ道が存在していなかったのだ。
 アストの手がユーシスの服を掴む。首元だ。アストはユーシスが苦しそうに表情を歪めたのに気付いていたが、力を緩める事をしなかった。我侭に付き合ってくれた者たちを、裏切るわけにはいかない。
 細い体を力任せに押す。ユーシスは魔物としての力を得、普通の人間よりもいくらか硬い皮膚を得ているようだが、勢いを得たアストを押し返せるほどの力は得られなかったようだ。アストが加えた力に抗いながらも抗いきれず、背中から地面に倒れ込み、小さく咳き込んでいる。
 アストはユーシスの腕を捕らえ、薄い胸を膝で押さえつけた。咽る様子は演技ではなさそうで、呼吸の自由を奪う事は可哀想に思ったが、手加減する事はやはりできなかった。
 雷鳴が響く。リタの雷が再び落ち、残った魔物を撃ったのだ。ハリスやナタリヤも、未だ魔物と戦っている。アストとユーシスを守る壁になってくれている。
「ユーシス。俺が判るか?」
 問いかけると、ユーシスは小さく肯いた。
「もちろんだよ、アスト」
 名前を呼ぶ声は、いつもと同じ、親しみがこもったものに聞こえた。
「他の誰が判らなくなっても、君を見失う事だけは絶対にないよ」
「そうか」
「だって君は、人の世の救世主なんだから」
「……そうか」
 はじめて言われる言葉ではない。同じ意味を持つ言葉なら、過去に飽きるほど繰り返されてきただろう。傷付いていた頃もあったが、今はもう慣れてしまっていて、いちいち痛みを覚える事はなかった。
 だが、今こうしてユーシスの口から語られると、張り裂けそうな痛みに心が泣く。他の者の前では無理だとしても、ユーシスの前では、ユーシスの前だけでは、アストはただのアストで居たつもりだったのに。
 いや、この傷付き方は間違っているのかもしれなかった。ユーシスはアストを崇め、距離を置くために、アストを救世主と呼んだわけではないのだ。魔獣の眷属として、最も憎き者を指す意味を持って、アストを救世主と呼んだに違いない――それは余計に悲しい事だけれど。
「俺はどうしたら、お前を救える?」
「どう言う意味で?」
「俺が望む形で」
「身勝手な言い分だね」
「ああ。勝手でいいんだ。俺たちがこれまでみたいに、アストとユーシスとして、生きていけるなら」
 ユーシスは薄く、冷たく笑った。
「君は愚かだね。知っていたとして、僕が教えると思うのかい? 今の僕は、君と同じものを望んでないって言うのに」
 アストは沈黙を挟んでから答えた。
「そうだな、教えてくれるわけがないよな」
「でも、その愚かさは嫌いじゃないから、本当の事を教えてあげるよ。判らないんだ。昔は神の娘の力によって解放できたみたいだけど、それも偶然見つけた方法だったみたいだしね」
「そうか」
 ため息混じりに短い言葉を吐き出して、アストは目を細めた。
 見下ろすユーシスは相変わらず笑っている。以前の自分ならば、笑うユーシスを見て悲しむ事などけしてなかっただろうと思うと、アストは泣き叫びたい気分になった。
 本当にどうしようもないのなら、決断しなければならないのだろう――アストはユーシスの腕を押さえる手に力を込めた。
 確かに今のアストたちは、生きたまま解放する方法を知らない。しかし、生きたままとの条件を排除すれば、話は変わる。ひとつだけ、確実に、ユーシスを止める方法がある。
 アストはいざとなれば自分がその手段を取らなければならないと判っていた。人の世の救世主としても、ユーシスの友としても。それが正しい事なのだと頭では知っていた。
 だが、どうしても諦めきれない。今は判らなくとも、すぐに名案が浮かぶかもしれないではないか。すぐには無理でも、何年、何十年も経てば、あるいは。
「アスト」
 ユーシスがアストの名を呼ぶ。
「アスト」
 まるで動揺を誘うかのように、もう一度。
 友を呼ぶ、優しい声に聞こえた。だからアストは耐え切れず、ユーシスの口を塞ごうと、手を伸ばした。
「君が僕を殺すの?」
 アストの手がユーシスの唇を押さえる直前、ユーシスは言った。
 まるで相手の自由を奪い取る魔法の言葉のようで、すっかり捕らわれたアストは、身動きできなくなった。
 できないよ、俺には。
 アストは動かない唇ではけして紡げない言葉を、心の中で叫ぶ。
 俺は、お前を殺せない。
 俺自身からお前を奪う事なんて、できるわけがないだろう?


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.