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四章 芽生えたもの




 雲の無い青空から轟音と共に鋭く落ちてくる光の正体を、アストは知っている。人が神の雷と呼んでいるものだ。
 悪しき魔物を罰するための雷は、アストの母シェリア亡き現在、たったひとりにのみ許された力だ。その人物は、普段ザールに居ないはずであったが、今ここに来ているのだと、アストは素直に信じる事ができた。
 かつて父はアストに断言したのだ。いつか再会する日が来るのだと。あの日語ったいつかが、今日だったと言う事だろう。
 アストは空に向けていた視線を地上に戻す。すると、木々の向こうから次々と人が現れた。白き鎧を纏った十数名の男たちは、各々剣を構え、アストの左右をすり抜け、先に行ったハリスの後を追っていく。何人か懐かしい顔があったが、声をかけて引き止めるなどの無粋な事はしなかった。
 男たちが背中の向こうに消えると、アストの目の前に残ったのはふたりの女性だった。ひとりは昨日、ザール領主ルスターの命を受け王都へ使いに出たナタリヤ。もうひとりは、王都の大神殿に居るはずの、神の娘リタ。
 太陽の下で輝くためにあるような、長い金の髪を緩い風に揺らしながら、リタは勝気な微笑みを浮かべた。
「私って、いつもいい時に現れるわよね。感謝して欲しいわ」
「リタさん……!」
「久しぶり、アスト。大きくなったわね」
 リタは軽やかな足取りでアストに近付いてくる。
 間近に見る事によって、彼女が思っていたよりも小柄であった事をアストは知った。四年以上前の記憶では見上げなければならなかった彼女の顔が、いつの間にか見下ろす位置にあったのだ。
 何となく大きい人だとの印象があったため、居心地が悪くやり辛かったが、屈んだり座ったりするのもおかしな話なので、アストは普通を装って語りかける。
「何しにザールに来たの?」
 率直に訊ねると、リタは唇を歪めながら肩を竦めた。
「さあ? 私の方が聞きたいくらいよ。手紙でカイに呼ばれたの。私の力を借りたいって、それだけ書いてあってね。だから、何をやらされるかはまだ判らないんだけど――まさか、今出てきてる魔物の始末じゃないでしょうね」
「そうかもよ」
「だったらアスト、私の代わりにカイを殴ってやって。あのくらいなら、私が来なくたって、ザールに滞在している聖騎士をいくらか集めれば充分でしょう」
 アストの横をすり抜けて戦いの場へと向かうリタの足取りの力強さには、小さな怒りが混ざっていた。 
「自分で殴ればいいのに」
 言いながら、アストはナタリヤに目配せし、リタの後ろを着いていく。頼もしい味方を得た今ならば、城に帰らず残る事を選んでも、誰も怒らないだろうと判断しての事だった。怒るどころか、帰路で何が起こるか判らない事を考えれば、安全で賢明な選択だと褒められるかもしれない。
「できる事ならそうしたいんだけど、無理だから」
 リタは右手で作った拳を、左てのひらに打ちつけた。
「どう言う意味?」
「言葉通りの意味。大した事じゃないから、気にしなくていいわよ」
 そう言われると余計に気になってしまうアストだったが、リタが暗に「訊くな」と言っているのを理解したので、黙って従う事にした。
 屋敷の前を通り過ぎ、森のやや奥まで踏み込むと、激しい戦いの音が目前に迫った。聖騎士たちの剣が魔物の皮膚を断ち、魔物が聖騎士たちの鎧を打つ中に、草が踏みにじられる音や、木々が軋み、倒れる音も混じる。
 その中から重要な音をひとつも聞き逃すまいとするリタの集中が、傍からでも見て取れた。ひとつでも多くの命を守るためには、自身の力を有効に活用しようとする意志が――リタは即座に、倒れる聖騎士にとどめの一撃を食らわせようとする魔物の上に雷を落とす。同時に駆け出し、地に伏した聖騎士の息がまだある事を確かめると、癒しの力を発動した。
 アストの隣に立つナタリヤも、剣を抜いて戦いに備えた。
「ナタリヤも戦うのか?」
「今はジオール殿より、アスト様の護衛役を任されております。積極的に戦うつもりはありませんが、必要とあらば」
「俺はナタリヤに守られるのか」
「ご不満ですか?」
 アストの呟きを聞き逃さなかったナタリヤは、素早く剣を回転させてから、再度構える。
「私がカイ様に師事した年月は、アスト様の倍以上ですが」
「そうだったっけ」
 苦い笑みを浮かべながら、アストは背負ったユーシスを降ろすと、優しく地面の上に横たわらせた。
 伏せられた目は未だ開く様子はない。呼吸も安定しているし、目立った外傷はないため、問題はないと思いつつも、こうなった状況が状況だけに、不安ばかりが募る。後でリタに診てもらおうと決めたアストは、眠るユーシスの前に立ちはだかった。
「戦うおつもりですか?」
「いいや。今俺が前に出たら、皆邪魔者扱いするんだろ。だから今は大人しく見てるよ。新手が来て、皆の手に負えなくなったら、俺が出る。それまで、力を温存しておく」
 アストは剣の柄に手を置いて、目の前で繰り広げられる戦いを見守った。
 四年前の、封印の儀式を行った日の事を、アストはあまりよく覚えていない。だが、ひと薙ぎで多くの魔物の命を奪った事と、激しく疲労した事だけは覚えている。
 当時よりも身体的に成長したアストは、当時と比べてかなり体力がついているはずだが、それでも、同じ事を何十回も繰り返せるとは思えなかった。三度四度剣を振るえば、四年前と同じように倒れてしまう可能性が高い。
 本当に必要な時に使うのだ。皆を、ユーシスを守るために。
 誰かの役に立ちたいと、己の中に眠る力に憧れた日々は、さほど遠くない。今でもアストの中には、がむしゃらに光の剣を引き抜いて、聖騎士たちに混ざって戦いたいと言う願望がある。それを抑えられるようになったのは、四年間で成長したのが体だけではない証なのだろう――行き場の無い願いを抑え込むため、アストは自分自身を強く肯定した。
「アスト様、下がって!」
 響くナタリヤの声に、アストは反射的に従った。
 アストの頭上に広がる枝や生い茂った葉が、大きく揺れる。若い緑の葉が雨のように落ちてくると同時に、羽を持つ魔物が勢いよく現れ、アストやユーシスに飛びかかってきた。
 直前までアストが立っていた場所に駆けつけてきたナタリヤは、高く剣を構え、魔物の脇腹を叩き切る。
 魔物は腹から血を吹き出しながら、少し離れた地面に落ちた。衝撃で折れた羽をぎこちなく動かしながら、新たな攻撃の手を模索している様子を見せたが、鈍い動きではどうしようもない。ナタリヤの追撃を真正面からくらい、あっさりと命を散らした。
「ありがとう」
 ナタリヤがひと息吐くのを確認してから、アストは素直な気持ちを口にする。
「必要ありません。アスト様をお守りする事は、私の使命です」
「そうだとしても、ユーシスを助けてくれた事は、使命じゃないだろ。だから、ありがとう」
 ナタリヤは一瞬真顔になってから、少し寂しさを混ぜた華やかな微笑みを見せた。
「やはり、必要ありません」
「ナタリヤ、俺はさ」
「私は」
 冷たくも聞こえる言葉だけ残して背中を向けるナタリヤに、アストは言葉で縋りついたが、振り払うように放たれた鋭い声が、アストの声を奪った。
「その子が産まれた日も知っています。ザールの城の一番端の暗い部屋で、ひっそりと産まれた赤子の事を。その誕生を祝ったのは、レイシェル叔母様と、私の両親と、カイ様くらい。幼心に、寂しい生だと思った事を覚えてます」
 アストは無言で、ナタリヤの背中とユーシスの寝顔を見比べた。どちらも微動だにせず、アストの視線を受け止めるだけだ。
「一時は存在すら忘れさっていた薄情な親族である私の方こそ、お礼を言わなければならないのです、アスト様。ユーシスの生が寂しいものでなくなった、それは間違いなく、貴方のおかげなのですから」
 ナタリヤがユーシスの存在を忘れてしまったのは、俺のせいじゃないか――言おうとして、アストは声を飲み込む。
 代わりにナタリヤから目を反らし、前方で戦う聖騎士たちや、走り回るリタの横顔を見守った。自分の出番が来ない事を祈るのが正しいのだろうと思いながら、ただ立ち尽くすのはやはり少し息苦しく、救いを求めて時折ユーシスを見下ろした。
 何度目かに見下ろした時、ユーシスの長い睫が僅かに震えた気がして、アストはその場に跪く。近付いて顔を覗き込むと、再度睫が揺れた。薄く開かれた唇から、呼吸に混ざって消えてしまいそうなほど小さな声が漏れ出る。
「ユーシス?」
 声をかけ、肩に軽く置いた手でそっと揺さぶった。何度か繰り返すと、両目がゆっくりと開き、春の緑の色が現れた。
「起きたか?」
 ひと呼吸挟んでから、ユーシスは肯く。動きが鈍く、本調子ではなさそうだが、アストの言葉が理解できる程度に意識がはっきりしているのは間違いないようだ。ようやく安心したアストは、ユーシスの肩から手を離した。
 ユーシスは現状が受け入れられていないのか、しばらくは寝転がり、空ろに上を見上げたまま、呼吸を繰り返すだけだった。やがて少しずつ理解に至ったのか、緑の瞳に動揺を浮かべ、一度きりの深呼吸を挟むと、両手で体を支えながら上体を起こす。
 ろくに動けないくせに、落ち着きの無さがまる判りと言う、不思議な状態だった。もしかするとユーシスは、屋敷の外に居る事実に怯えているのかもしれない。少なくとも彼は、アストと出会ってから昨日まで、一度として屋敷の外に出た事がないし、しきりに「屋敷の外に出てはいけない」と口にして、外の世界を拒絶している様子だった。
「安心しろ。大丈夫だから」
「うん……」
 のろい動作で肯いたユーシスは、直後に響いた魔物の咆哮に反応し、顔を上げる。
 彼の視界を阻もうと、アストはユーシスの顔の前に移動したが、すでに遅かった。ユーシスの目は、自分たちを取り囲む多くの魔物や、その魔物と戦う聖騎士たちの姿を、はっきりと捉えてしまっていた。
「魔物が、集まってきているね」
「まあな」
 掠れた声が語る事実を肯定してから、アストはすぐに首を振った。
「お前の事だし、余計な事考えてるだろうと思うから、先に言っておくな。気にするなよ、お前のせいじゃないんだから」
 アストは軽く握った拳で、ユーシスの胸を軽く叩く。そして今できる限りの力強い笑みをユーシスに見せつけると、立ち上がった。
 リタや聖騎士たちの活躍のおかげで、魔物はだいぶ減ってきている。さっきまでと同じように、いざと言う時が来るまで見守る役に徹するべきだと判っていた。
 しかし、目覚めたユーシスがこの光景を見てしまった今、願望が忍耐力を圧倒しはじめた。ユーシスの目に映る魔物たちを、一刻も早く消し去りたい。それが、今のアストの中で一番強い想いだった。
「違うよ、アスト」
 ユーシスが立ち上がる気配がする。
 土を踏む音がひとつ鳴るごとに、ユーシスの気配が近付いてきている気がした。アストはその場で足を止め、振り返るべきかで悩む。今の自分が、ユーシスを不安にさせるような表情をしているかもしれないと考えると、ユーシスに顔を見せるのが怖かった。
 迷っているうちに、ユーシスの手が背中に触れた。左手だ。奇妙なほど冷たいそれは、力がこもっているのか、少し固い気がした。
「本当なんだ」
「何が」
「本当に、僕のせいなんだよ」
 か細い、だがどこか力強いユーシスの声。
 少し苛立ったアストは、「だから違うって言っているだろ」と言い返すために、振り返ろうとした。
 その瞬間、アストの脇腹に生まれたものは、熱だ。


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