INDEX BACK NEXT


四章 芽生えたもの




 何かに呼ばれたような気がして、アストは顔を上げた。
 とても聞き取れる声量ではなく、誰の声かも判別できなかったが、妙に気がかりだった。扉の向こうを歩く人の足音がうるさかったせいで聞こえなかったのだと、やつあたりしかけたアストだったが、すぐに思いとどめた。微かな音にかき消される程度の声など、はじめから無いも同然だ。きっと気のせいだったに違いない、と。
 しかし、胸の中でざわめく何かは、とても抑えきるものではなかった。気のせいだと片付けてしまえばいつか後悔する予感がして、アストは見上げた壁の向こうを想像する。
 アストが見た方向にあるのは、ユーシスの屋敷だった。
 現在のアストたちが居る城の中から屋敷までの間には、何枚もの壁や、道や、家や、木々があり、おそらく人も何人か居るはずだが、アストは感覚で理解する。自分が目をやったのは、他のものではなく、森の入り口にひっそりと建つ屋敷なのだと。
 ならば、自分を呼んだ声の主は、屋敷の中で生活する人物――ユーシスなのだろう。
 アストは腰に下げた光の剣の柄を握り締めると、部屋を飛び出した。駆け出そうとして、進むべき通路の途中にハリスの姿を見つけると、一度は戸惑いつつも、すぐにハリスに駆け寄った。
「ちょうどよかった」
「いかがなされました」
「今から、ユーシスの屋敷に行こうと思ってる。悪いけど、一緒に来てくれないか?」
 ハリスは心底意外そうな顔をした。自由と安寧を求めてユーシスの屋敷を訊ねる際のアストが、父以外の誰かに同行を求める事など、過去に一度としてなかったからだろう。
「私が……ですか?」
 意外だからこそハリスは、不吉なものを感じ取ったに違いない。やや呑気にも聞こえる口調とは裏腹に、厳しい顔を見せ、すぐに行動を開始した。近くの聖騎士を呼び止めると、短く何かを指示する。聖騎士が走り出したのを確認してから、居ても立ってもいられず先に走り出していたアストを追いかけてきた。
「人を集めたのか? 何もないかもしれないのに?」
「念のためです。無駄足ならばそれで構いません」
「うん、俺もそれを願ってるよ」
 会話はそれきりで、ふたりは走る事に専念した。
 全力で駆けながら、アストはユーシスの名を心の中で呼ぶ。当然返事はない。呼ぶ事自体、意味はないのかもしれない。だが、心の叫びを止める事はできなかった。
 アストの左右を、ザールの長閑な町並みが流れ去っていく。いつもならば心温まる光景だと思えただろうに、今のアストには、一刻も早く消え去ってほしいものとしか思えなかった。それほどまでにアストは、背の高い木々に包まれる事を熱望していた。
 念願の森が目前に現れると、アストは口元を綻ばせたが、一瞬の事だった。強い風が拭き抜け、擦れ合う木々がざわめくと、空気が重みを増し、纏わりついてくるように感じたからだ。
 今度はハリスも感じるものがあったようで、アストを守る人間として当然の行動を取ろうとした。アストをこの場に押し留めようとしたのだ。しかしアストの方が一足早く動き出しており、ハリスの手を振り切る事に成功した。
「アスト様!」
 ハリスの声に振り返る事なく屋敷に近付くと、開け放たれたままの扉が目に付く。普段のユーシスやモレナがする事ではなかったので、悪しき侵入者の存在を予想したアストは、迷わず屋敷の中へ踏み込んだ。
 引きずるような足跡が食堂へと続いていたので、アストはそれを辿った。やはり開かれたままの扉の向こうに、僅かなためらいもなく踏み込む。
 ユーシスが倒れていた。それから、彼の上にのしかかる、得体のしれない、人の形をしたものも。
 人の形をしたものは、背格好や服装はモレナを思わせたが、髪は黒々としてあたかも金属のように輝いていたし、土気色をした皮膚は皺ひとつなく固そうだ。そして、ユーシスの体を押さえつける手は、毅然とした老女の優しい手とはおよそ似付かず、暴力的なものだった。
 魔物だ、とアストは即座に悟った。今まで見た事の無い、元々は人――おそらくはモレナ――であった魔物だろうと。
「ユーシス!」
「アス……」
 アストの存在に気付いたユーシスが声を出そうとすると、魔物はユーシスの胸元を強く圧迫する。ユーシスは顔をしかめ、声を失い、激しく咳き込んだ。
 ユーシスの、おそらく武器のつもりだろう包丁を握り締める手から力が抜ける様子を目の当たりにしたアストは、咄嗟に腰から剣を引き抜く。
「ユーシスを放せ!」
 剣を構えたアストに、しかし魔物は怯む様子を見せず、引きつった笑みを浮かべる。大きく広げた小さな手を、ユーシスの胸の上に置いたまま。
 従わないなら力ずくで従わせるまでだ。アストは光の剣を構え魔物に向けて振り翳した。
 同時に、別方向から床を蹴る音がする。一見大きな犬にしか見えない魔物が、勝手口近くに待機していた事に、アストはその時はじめて気が付いた。
 犬の魔物は涎が滴る鋭い牙を剥き出しにして飛びかかってくる。避けられない。妙に冷静な脳が、素早くそう結論を出したので、アストは身構えた。迫りくる激痛に耐えるために。
 しかし、いくら時間が過ぎても、アストの体のどこにも痛みは走らなかった。魔物が噛みついたものはアストの体ではなく、犬とアストの間に飛び込んできたハリスが構えた、鋼の刃だったのだ。
 アストを守るために配慮するだけの余裕はなかったようで、ハリスの背は乱暴にアストの体を押した。よろけて膝を着いたアストは、慌てて体勢を立て直す。顔を上げた時にはすでに、犬の魔物は血を噴きながら床の上に崩れ落ちていた。
「アスト様、お下がりください!」
 魔物の遺骸を尻目に振り向いたハリスは、左手でアストを押し下げながら、魔物の血を滴らせたままの剣を振り上げる。すると、金属が打ち合うような音がした。ハリスの剣が、人の形をした魔物が突き出した鋭い爪を、なぎ払った音だった。
 一歩下がり、目の前で繰り広げられるハリスと魔物の争いから距離を置いたアストは、魔物から解放されたはずのユーシスの姿を探す。
「ユーシス……!」
 ユーシスは床の上に倒れたままだった。
 伏せられた目に光を探す事も、放り投げられた手に力を見つける事もできない。最悪の想像をして青褪めたアストは、ユーシスの薄い胸が僅かに上下する事に希望を見出した。
 アストは激しい打ち合いを繰り返すふたり――ひとりと一体と言うべきか――を避けずに進む事は不可能と判断し、食堂を壁伝いに進んだ。多少遠回りでも、それがユーシスへの一番の近道だった。
 アストの動きに気付いた魔物の咆哮が、部屋中に響き渡る。壁を越え、周囲にも響き渡っているだろうそれは、アストの耳を奥から痺れさせた。
 ハリスはすかさず、大きく開かれた魔物の口に刃を埋め込んだ。人と変わらぬ太さの喉は、刃を飲み込むには細すぎたようで、魔物は口の端からだけでなく、引き裂かれた喉からも血を溢れさせた。
 魔物の動きが止まる。ハリスが剣を引き抜くと、支えを失って倒れ込み、先に倒れた犬の魔物と共に、大きな血だまりを作りだした。
 アストは肺の奥から息を吐き出しながら、一目散に、縋るように、ユーシスへと近付く。自分を守ってくれたハリスを労うだけの余裕が、今のアストにはなかった。
 自ら動こうとしないユーシスの体を抱き起こし、軽く揺さぶりながら何度か呼びかける。答えはない。それでも、触れた場所から伝わる温もりと、静かに繰り返される呼吸が伝わってきたので、いくらか安心できた。
「ご無事ですか?」
「うん。気絶はしてるけど、怪我とかはないみたいだ」
 ハリスは僅かに戸惑いを見せてから、納得して肯いた。
 彼がアストに背を向け、魔物の様子を確認するためにしゃがみ込んだ時、アストはようやく質問の意図を察し、見当違いの答えを返した事に気が付いた。ハリスはアストが無事かどうかを訊いたのだ。彼にとっては、ユーシスの生死など、どうでもいい事に違いない。
「そいつら、死んでる?」
「はい」
「じゃあ、すぐにでもここを出よう。ユーシスを連れて」
「よろしいのですか?」
 今度はアストが戸惑う番だった。戸惑ったのは一瞬で、すぐに頷いたが。
「ユーシスが自分の意志で決めてくれるのを待ちたかったけど、次の魔物がいつ来るか判らない状況なんだ、仕方ない。気を失っているうちに勝手にってのは、罪悪感があるけど……目が覚めた時に必死に謝るよ。きっと許してくれると思う」
 アストはユーシスを背負うと立ち上がった。アストより背が低く、病的な細さである彼だが、背負ってみれば重く感じる。見かねたハリスは「私が運びましょう」と言ってくれたが、この役目を他の誰かに託す気などないアストは、静かに首を振った。
 戦闘の跡をそのままに、アストとハリスは屋敷を出る。ユーシスを運んでいたアストは、ハリスの背中に着いてく事で精一杯で、ハリスが急に足を止めた時に上手く反応できず、彼の背中に思いきり鼻をぶつける事となった。
「どうしたんだ?」
 ハリスの鋭い視線は、ザールの町がある方向とは真逆、森の奥深くに向いていた。
 アストはハリスの視線を追おうとしたが、ハリスはアストの視線を遮るような位置に移動する。そして優雅に伸ばされた手が、言葉の代わりに「町へ戻れ」と語っていた。
「魔物が来ているのか」
「先ほどのようにお気付きにはなられませんでしたか?」
「ここは今、空気が淀みすぎているから、魔物が増えても気付けそうにない」
「そうですか。ならば尚更、早くお帰りください」
「俺も戦える」
「ご冗談を。敵が少数との保証はないのですよ。大軍に囲まれた中で放置すれば、その少年はどうなると思います」
 アストは歯を食いしばりながら振り返り、肩の向こうに見えるユーシスの顔を覗き込んだ。
「俺が残って戦うから、ハリスがユーシスを連れて逃げてくれ、なんてのは、無いんだよな」
 ハリスは間髪入れず、力強い肯きで応えた。
「もちろんです。アスト様がこの場に残るにしろ残らないにしろ、私はこの場に残り、先ほど手配した援軍が来るまでの間、時間を稼ぐつもりです。その少年を守りたいと思うのでしたら、アスト様は早急にこの場から立ち去ってください」
 迷いながら肯いたアストは、小さく笑う。笑えるような状況ではないはずなのだが、自然とこぼれ出ていた。
「ハリスの言葉は鋭い。守られているはずなのに、脅されてるように感じる」
「まさに脅しております。貴方が大切に思うものを質に取って――それは私が得意とする事です」
「脅迫が?」
「はい」
 それきりハリスは何も言わず、アストの肩を軽く押した。
 アストはハリスに背を向ける。ユーシスと言う重い荷物を背負い、ハリスと逆方向に駆け出すために。
 だが、すぐに地面を蹴ったハリスとは裏腹に、アストはその場に立ち尽くしたまま、伸びた木々の向こうに広がる青い空を見つめていた。
 そこに輝く光に、目を奪われたがために。


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.