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四章 芽生えたもの




 ユーシスは咄嗟に走り出していた。
 どうして走るのか、走ってどこに向かうのかは、まだ考えていない。考えなければ、と言うところまで、考えが至らなかった。とにかく今はこの場――モレナのそば――を離れたいとの願望に、従う事が先決だった。ただ逃げたかったのだ。本能的に察した危険がつき動かすままに。
 モレナの手を振り払って窓際から離れたユーシスは、モレナに背を向ける。駆け出した先にある扉を、乱暴に開いた。
 廊下に飛び出すと、左右に続く通路と、いくつかの扉が目に付く。それが自分の世界の全てだと気付いた時、ユーシスは愕然とした。
 一体どこに逃げられると言うのだろう。屋敷の外に出る事すら恐れている自分が。
 ユーシスは廊下の中心に立ち尽くし、呼吸をいくつか繰り返す間、こみ上げる絶望に震えた。しかし、その間にも恐怖は少しずつ近付いてきているのだと思い出すと、震える拳で震える膝を叩き付け、何とか勇気を奮い起こし、再度走り出した。
 表の入り口はモレナの方が近い。ならば、勝手口か、どこかの部屋の窓から出るしかないだろう――いくつかの選択肢を並べたユーシスは、一瞬だけ思考し、勝手口を選んだ。床を蹴り、食堂に入ると、長い事モレナの場所となっていた台所に駆け寄り、その向こうにある扉に飛びつく。
 開こうとした瞬間、扉は外側から突き破られた。突然の事に悲鳴を上げる事もできないまま、ユーシスは身を引いた。勢い余って戸棚の角に背をぶつけ、咳き込む。
 扉を蹴破って現れたものは、黒光りする長い毛並みを持つ魔物だった。低く唸る様子や、鋭い歯の隙間から滴る涎は、獰猛に見えたが、体はユーシスよりもいくらか小さいかった。
 大抵の魔物は人を軽く凌駕するほど大きいのだと、いつだったかアストが言っていた事を思いだす。それから、ただの動物に魔獣が放つ魔の気が宿り、魔物になる事もあるのだと。ならば、今ユーシスの目の前に居る魔物は、野犬の類が最近になって魔物化したものと考えるべきなのだろう。
 何にせよ、この出口が使えないのは明らかだった。魔物は大小に係わらず、ユーシスのようなひ弱な子供が太刀打ちできる相手ではない。早急に別の逃げ道を探さなければ――新たな危機が迫り、恐怖に恐怖が重なる事で、ユーシスの思考は不思議と落ち着きはじめていた。
 魔物を警戒しながら、魔物とは反対側にある脱出口である、食堂の入り口に目を配る。走り出そうとした瞬間、入り口に人影が現れた。
 もちろんモレナだった。ユーシスは落胆しながらも、魔物とモレナ、どちらの方が突破しやすいか、考えなければならなかった。見た目の印象から心は勝手にモレナを選んだが、モレナの言が正しいならば、今の彼女は魔獣の力を得て魔物と化しているはずである。ただの老女だと侮っては、痛い目を見るだけだろう。
 どちらにしても、素手でどうにかできる相手ではない。ユーシスは身近にあるものから、自身の身を守れるものを、素早く探りあてなければならなかった。
 この点においてのみ言えば、台所に逃げ込んだ事は正しかったのだろう。一応は刃物である包丁を容易に見つけたユーシスは、刃を構えて魔物へ向ける。
「近寄るな」
 ユーシスは精一杯睨み付け、精一杯の低い声で、魔物に対して言い捨てる。すると、魔物の唸り声が静まった。
 少しだけ緊張が解れると、ユーシスは肩を上下させながら、ゆっくりと呼吸をする。短い距離だが全力疾走したために、息は激しく乱れていた。
「さすがです。ユーシス様」
 乾いた拍手が小さな食堂内に響き渡ると、ユーシスはモレナをきつく睨む。
 入り口近くの壁にもたれかかり、唇の端を吊り上げて笑う彼女の姿は、妖艶な悪女にも見え、どこからどう見ても気のいい、気品に満ちた老婆であったいつもの彼女とは、明らかに違っていた。
「小さきものとは言え、魔物を従える事が可能とは。現状でこれならば、真に目覚めた時には、どれほどの力を」
「なっ……何を言ってるんだ。こいつは、刃物に怯えているだけだろう」
 乾いた声で怒鳴り付けると、モレナはまず無言で笑い、静かに否定した。
「まさか。いかに弱き魔物でも、貴方のように戦いを知らない少年を恐れる事はありません。たとえ貴方が、そうして武器を手にしていたとしてもです。本気で貴方を喰らうつもりがあるならば、今すぐにでも飛びかかり、貴方の腕を、足を、喉笛を、食い千切る事ができるのですから」
 モレナの言う通りだった。ユーシスはただでさえひ弱な上、今日は少し熱があって動きが鈍い。戦いになれば、包丁を振るう間もなく、簡単に負けてしまうだろう。たとえ相手の魔物が、ただの凶暴な犬程度の力しか持ってなかったとしても。
 しかしユーシスは、どうしても、モレナの言葉を認めるわけにはいかなかった。
「妙な事を言うな」
「何が妙なのです? 貴方がユベール様とレイシェル様の間に産まれた子である事は、誰もが認める真実。それ自体は、貴方自身も受け入れているのでしょう?」
「そうだ。僕は母上の子だ。そして父上の子でもある。けれど、ただの人間だ。エイドルードの、神の、誕生の祝福を受けた――」
「忌々しい」
 モレナは吐き捨てるように言った。いつもの彼女が見せる、目じりに深い皺をいくつも刻んだ穏やかな眼差しはどこにもなく、強い眼差しには憎悪が秘められていた。
「エイドルードの子めが。やつが余計な事をしなければ、ユーシス様も私も、もっと早く目覚める事ができただろうに」
 心臓に走る冷たい痛み。
 呼吸するたび、氷でできた鋭い針に刺されるような気がして、ユーシスは息を止めてみたが、何も変わらなかった。ならばこの痛みに耐えるしかないのだと、胸元を押さえてみたが、痛みは緩和されない。
 もどかしさのあまり、自身の胸倉を掴むユーシスの瞳に、迷いが浮かぶ。
 知っていたのだろうか。神の御子と呼ばれる男は。知っていて、魔物の子の誕生を祝福したのだろうか。ユーシスはただの人だと世間に嘘を吐いて。魔物として目覚める日が来ないように願いながら。
 もし、もしも、本当に、そうなのだとすれば。
「馬鹿な人だな……」
 ユーシスは素直な感想を口にしていた。ごく稀にアストと共に現れる、アストの父親を思い出しながら。
「ええ、本当に、愚かな者たち。ユーシス様の中に眠る魔物の因子に気付かぬまま、今日まで守り続けていたなんて。気付いていたとすればもっと愚か。エイドルードの後継者や、人が生きるための大地を守りたければ、早急に始末するべきだったでしょうに」
 概ね言う通りだと思ったので、ユーシスは肯き、モレナの言葉を受け入れた。
 だが、受け入れられない点がひとつだけある。愚かだと言い捨てたモレナの心だ。馬鹿だと呟いた自分の心とは、対極にあるとユーシスは思う。
 かつてのユーシスならば違っただろう。モレナと同じ意味で馬鹿だと言い、早く殺しておけば良かったのにと、虚しい言葉を吐いただろう。
 だが、今は。
 ユーシスは包丁を握りしめる両手に力を込める。律儀にユーシスの意志に従い、近寄る様子を見せない魔物を無視すると、手にした刃をモレナに向けた。
 窓の向こうで素振りをしていたアストの姿を思い出す。彼が振るっていたものは、ユーシスが今手にしているものとは用途からして違うものだったが、他に見習うべき者を思い出せなかった。
「お願いだ。僕に……」
 掠れた、しかし力強い声で、ユーシスは語りかける。この場には居ないが、記憶の糸を手繰るだけで充分に頼もしい、友に向けて。
「戦う勇気を」
 以前の自分が何を考え、どう生きていたか、ユーシスははっきりと覚えている。自分はただのひ弱な人間だと信じ、同時に魔物の子として処分された方が楽だとも信じていた。
 だが、ユーシスは変わっていた。モレナの言う通り、自分の中に魔物の部分があるのだとしても、その部分を今までのように眠らせ続けたいと願っていた。たとえ、この脆弱な体で戦う事になっても。
 自分が魔物になる事によって、いくらかの優しい人たちと、多くの者たちを傷付けると言うのも、理由の一部だった。だがユーシスを突き動かす大部分は、自身の願望だった。ただの人のふりをして生きていきたいと言う、浅ましい望み。
 いつの間にか、滑稽なほど貪欲になっているた自分自身に、ユーシスは驚かなかった。原因は判りきっていて、驚く必要などなかったのだ。
「力を貸して」
 たったひとりの世界に、乱暴に踏み込んできた人が居る。真っ暗な世界に、光を差し込んできた人が。
 当時の彼はそれを意図してやったわけではなかっただろうし、当時のユーシスにとっては全てが望ましい事ではなかったけれど――今なら胸を張って、陳腐な言葉を口にできる。「あの出会いは、僕にとって最も幸福な運命だ」と。
 そうだよ、アスト。
 僕は、君に出会ったから、変わる事ができたんだ。
「アスト――」
 友の名を呼び、ユーシスは床を強く蹴る。両手で握りしめた包丁を振り上げ、ユーシスにできる限りの素早い足取りで、モレナの元へ駆け寄った。
 よく砥がれた刃が、橙色の光を反射して輝く。


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