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三章 絆




 ふたり分の食事を広げるだけで余裕がなくなる食卓は、アストの感覚からすると小さすぎるものだった。
 おそらくは館が建ってから今日この日まで、来客などひとりもなかっただろう屋敷なのだ。この食卓の利用者は、一番多い時でも、母と幼子のふたりだけだったに違いない。ならば充分なのかもしれないと思いつつも、寂しさがより浮き彫りになった気がして、アストは軽く唇を噛む。用意された食事から立つ湯気の向こうで待つユーシスが、いっそう歪んだ。
「どうしたの? 座りなよ」
「あ、うん」
 妙な緊張を覚えながら席に着いたアストは、居心地の悪さをごまかすために周囲を見回した。
 食卓から数歩離れたところに台所が見える。やはりアストの感覚からするとありえない事だったが、今度は特に寂しいとは感じなかった。生前のレイシェルは使用人を雇う事なく、家事を全てひとりでこなしていたと聞いているので、むしろ良い事だと思ったほどだ。腹を空かせて食卓に着くユーシスが、ここから母の背中を見守っていた姿を想像すると、とても微笑ましい。
「アスト様?」
 ユーシスのものではない声に突然名を呼ばれ、アストは笑顔を凍らせる。一度深呼吸して、小さく跳ねた心臓の鼓動を落ち着けてから、声に振り返った。
 ユーシスの世話をしている使用人はザールの民なのだから、アストの顔、あるいは外見的特長を知っているのは当然と言えるだろう。故に、アストが知らない相手がアストに気付いたとしても、驚くべきではないのだが、それによってアストとユーシスの扱いにあからさまに差が付けられる事を、アストは望んでいなかった。せっかく近付いたユーシスとの距離が、また離れてしまうような気がして。
 だが、空色の瞳に見知った人物が映った時、アストの中に生まれていた心労は霧散した。不安になる必要がなくなったと言うよりは、純粋な驚きによって、思考能力を手放したからだった。
「女官長……?」
 隠しきれない強い動揺を見せる、背筋が伸びた老女の名を、アストは知らなかった。仕方なく、今は違うと知っていながら過去の役職名で呼ぶと、彼女は息を飲んでから深々と礼をする。
「失礼いたしました。ユーシス様のご友人がアスト様とは存じ上げず」
「いや、俺も……」
 アストとて、彼女がこの屋敷で働いているとは知らなかった。二年前、アストのせいで城を追い出されるはめになった彼女は、どこかで余生を送っているのだろうと、漠然と思っていたのだ。
「モレナを知っているの?」
 食事前の祈りを捧げようと手を組んでいたユーシスは、大きな目を更に大きく見開いてアストに問いかけた。
「うん。以前、城で女官長をしていた人なんだ」
 思いがけない再会は、アストの胸に温かな光を生み出した。年齢を忘れさせるほど毅然としたモレナが、舞台を変えても仕事を続けていた事が嬉しかったし、彼女にならば安心してユーシスを任せられると思ったからだった。
 アストは未だ戸惑うユーシスを引きずるように祈りの言葉を述べると、不安そうなモレナが見守る中で、目の前の食事に口を付けた。城の料理長の作るもののように洗練されてはいなかったが、人の温かみを感じる素朴な料理は、嘘偽りなく美味しいと言えるものだった。
 アストたちが順調に食を進めるのを確認したモレナは、黙って部屋を出て行く。
 残されたふたりは他愛ない会話を重ねながら、食事を口に運んだ。見た目からして細いユーシスは食も細いようで、アストが驚くほどに食べるのが遅かった。次第にアストが一方的にまくしたてるような会話の形になっても、アストの方が食べ終わるのが早かったほどだ。
 何やら不思議な感覚だったが、楽しい時間であった事に間違いはなかった。時折思い出したようにアストの中に影が差し込むのだが、それはユーシスと話をしているうちに徐々に薄まり、どこかへ消えていった。ずっとここにいれば完全に忘れられるのではないか、ここで暮らすのも悪くないのではないか、などと言った、現実逃避としか言えない思い付きがアストの頭の中を占領しはじめるまでに、さほど時間はかからなかった。
 ユーシスが食事を終えると、空になった食器を片付けはじめたので、アストもそれに倣う。誰かがやってくれる環境が当たり前になっているアストにとって、食器を下げるだけでも貴重な体験だった。毎日やるには面倒くさい事かもしれないが、何も知らないアストは、楽しいとさえ感じていた。
「モレナは今何しているんだろう」
「さあ? 僕らが部屋に居ない隙に、掃除でもしているんじゃないかな」
「なるほど――」
 頷きかけて、アストは固まる。
「ごめん」
 詳しい説明をする時間も惜しく、一言だけ残したアストは走り出した。
 大股で十数歩駆ければ辿り着く目的地は、昨晩から借りている部屋だ。部屋に繋がる通路に投入した時点で、開け放たれた扉が目に入り、一瞬にして血の気が引く。アストは慌てて飛び込んだ。やはり、部屋の中にはモレナが居た。
 掃除用具を手にしたモレナは、寝台の傍らで、腰を屈めていた。掃除の障害となるものを片付けようとしていたのだろう、しわがれた指の先に、昨晩アストが立てかけておいた剣が倒れているのを見つけると、アストは思わず叫び、モレナの動きを静止させた。
 アストはすかさずモレナのそばまで駆け寄り、拾い上げた剣を固く胸に抱き寄せる。背中が壁にぶつかるところまで後退し、モレナとの距離を開けた。
 間に合って良かった。アストは焦りが乱した呼吸を整えながら、必要以上に力が入った肩を落として体を解す。
「触れてはならないほど大切なものだったのですね。失礼いたしました」
 姿勢を正して謝罪するモレナに、アストは慌てて首を振った。
「そう言う訳じゃないんだ。いや、大切なものなのは間違いないんだけど、大切だから触らせないんじゃなくて、モレナがこれに触ったら、大変な事になるんだ。怪我をしたり、死んでしまうかもしれない」
 たどたどしい説明だったが、モレナは理解してくれたようで、深い皺を刻んだ優しい笑みを浮かべる。
 間に合って良かった。ナタリヤのように酷い目にあわせずにすんで。懐かしい笑顔を前に、アストは強く思った。
「良かった。今度は守れた」
「今度は?」
 呟きに問い返されて、アストは僅かに困惑を見せた。
「えっと、その……二年前は、辞めさせられるの、止められなかったから」
 一瞬間を空けてから、モレナは細めていた目を開く。
「私の事を気にかけて下さっていたのですか」
「え? あ、うん。いや、思い出した時にで、ずっとって訳じゃないんだけど」
 モレナは再び目を細めて笑い、アストに礼をした。
「ありがとう存じます。この上なき光栄です」
「お礼を言ってもらえるような事じゃないよ。忘れてた時の方が長いし、元々俺のせいだし」
「とんでもない。アスト様の責任ではございませんよ。誤解があるようですが、私は自ら女官長を辞したのです」
「そうなの?」と問いかける代わりに凝視すると、モレナは頷く。部屋の中に満ち溢れた、静かながら力強い空気が、彼女は嘘を吐いていないのだとアストに教えてくれた。
「隠した所で判ってしまうでしょうから、きっかけであった事は否定いたしませんが――かつての私ならばけして犯さなかった失態を犯してしまった時、急に老いを感じたのです。そして、後進に譲る事を決意いたしました。ありがたくも、多くの方々が引き止めてくださったのですが、私はどうしても自分を許せず、息子夫婦に頼って静かに暮らそうと決意したのです」
 モレナの告白は、二年間信じ続けていた事を完全に否定するものであったが、アストはすんなりと受け入れられた。いくらアストが大事とは言え、長年ザールに仕えてきた彼女を、たかが窓を閉め忘れた程度で切り捨てるなどと、不自然だと思っていたからだ。そんな不自然な事をさせてしまったのは自分なのだと言う事も含めて、アストは思い悩んでいたのだが。
「ですが、私が未練を残していた事を、領主様はお気付だったようで、こうして新たなお仕事をお与えくださりました。形は変われど、領主様のご一族にお仕えする機会を得られ、幸福な事だと思っております」
「怖くはなかったの?」
 ザールの民の目から見たユーシスを知っているアストが間髪入れずに訊くと、モレナは唇を引き結び、僅かな間を空けた。
「私はユーシス様のお父上が何をなさったか知っております。魔物たちは大挙し、ザール城を襲いました。仲間の命や骸は、乱暴に使い捨てられてました」
 重く垂れ込める不安を隠そうと目線を下げるアストの表情を覗き込むモレナの瞳は、先程までと変わらない温もりに溢れていた。
「ですが……アスト様、私は、それはもう長い事、ザールのお城に勤めていたのですよ。ちょうど、レイシェル様がお産まれになった頃からでしたか。幼き日の、ルスター様のお背に隠れて、恥ずかしそうにお顔を覗かせていたレイシェル様の可愛らしい事と言ったら――ええ、アスト様。私はユーシス様のお父上より、お母上がどのような方であったのかを、より存じていたのです。そんな当たり前の事を、こちらの屋敷でユーシス様にお会いするまで、忘れていたのですよ。そして、お世話係を務める中で知ったのです。ユーシス様の孤独を」
 なんだ。安心してユーシスを任せられる人物は、こんなにも近く居たのか。
 その幸運に、アストは感謝した。神に、では少しおかしい気がしたので――天上の神がもう居ない事を知っていたし、自分や父やリタは関係がないのだから――モレナ自身に。
「俺が言う事じゃないかもしれないけど」
 先程とは別の意味で目線を上げられなくなったアストは、モレナから目を反らしたまま言った。
「はい?」
「これからもユーシスをお願いします」
 モレナは小さく、しかし頼もしく頷いた。
「はい、誠心誠意お世話させていただきます。ユーシス様が在るべき場所に帰られるその日まで」
 今度はアストが頷き返す番だった。
 深みのある輝きを秘めた老女の目と向かい合い、手を伸ばす。年輪を刻んだ手を取ると、固く握り合った。


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