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三章 絆




 気が付いた時には、窓の外から薄い明かりが差し込んできており、小鳥のさえずりが耳に届いていた。
 もう朝が来てしまったのか。ナタリヤは何度か瞬きを繰り返した後、頭を抱えて体を起こす。
 朝までの時間を短く感じたわけではない。それどころか、途方もなく長かった。結局一睡もできなかったこの一夜は、勉学や訓練に身をやつし、寝台に入って目を伏せればすぐに朝が来ていた日々と比べれば、永遠とも感じられる時の流れだったのだから。
 古い記憶や新しい記憶は、ない交ぜとなってナタリヤを責め続け、拷問のような強い痛みは、疲労を訴えるナタリヤの身体や精神をけして休ませてくれなかった。頭が重く、息が苦しい。ナタリヤはその場に止まったまま、幾度か深呼吸を繰り返したが、肺に広がる空気の、生暖かく絡み付いてくるような不快感に眉をひそめ、部屋を飛び出した。
 通路の空気は、部屋の中の空気よりは新鮮に感じられたが、まだ重々しかったので、ナタリヤは更なる新鮮な空気を求めた。乱暴な足取りで城内を着き抜ける途中、早朝から働く者たちと何回かすれ違ったが、全てを無視して庭に出た。
 水音がする。発生元は、庭の中心にある小さな噴水だった。
 歴史だけがとりえのザール城はどちらかと言えば無骨で、洗練されたものはあまり存在しない。噴水も例に漏れず、質素な装飾が施されただけのものだが、流れる水が朝の光を反射する様子は清然としており、ナタリヤの呼吸を随分楽にしてくれた。
 獲物に引かれる動物のごとく自然に、ナタリヤは噴水へ近付く。縁に腰を下ろし、しばらくは緩やかな水音に耳を澄ませていたが、やがて波打つ水面を覗き込んだ。
 一晩眠れなかったせいか疲れた顔に、陰気すぎる表情が浮かんでいる。歪んで映っていてもはっきり判るほどに醜い顔だった。いつもはきつく結い上げている髪を、櫛も通さずに背に下ろしたままにしているのも、拍車をかけているかもしれない。急に老けたようにも見え、年頃の娘として恥ずべきなのだろうと考えながらも、ナタリヤは現状から目を反らす事しかしなかった。
 膝を抱え、考える。ナタリヤは今の自分に、容姿に構うよりも先にやるべき事がいくつもあり、そのうちのひとつが考える事だと判っていた。
 一晩かけても何も進展しなかった行為を繰り返す事に意味があるのかどうかは、考えなかった。意味など考えてはいけない。やらなければならない事を、ただやるだけだ。人が生きるために呼吸をし、食事を摂り、排泄するのを考えないのと同じように、今のナタリヤに必要なのは、ただそれをする事なのだ。たとえ無為だとしても――いや、もしかすると、無為な行為自体が、ナタリヤに課せられた罰なのかもしれない。
「罰……」
 ナタリヤは自身の口内で小さく呟いた。
 この困惑、胸に湧く罪の意識が、昨日自分がした事への罰だと言う事は、漠然と理解していた。カイが言うのだ、アストは間違いなく大陸の救世主であり、そんな少年の心にも体にも切りかかったナタリヤが罪を負うのは、当然なのだろう。ならば甘んじて受けようと思うからこそ、ナタリヤはただじっと痛みを抱え込んでいた。
 だが、同時に思うのだ。世にも恐ろしい光景を見せられ、倒れ込み、何日もの間熱病にうなされたのは。挙句記憶を失った、寄る辺の無い不安は。家族を家族として受け入れるため、新たな絆を作るために必要とした時間は。久方ぶりに足を踏み入れた王都に何の感慨も湧かなかった空しさは。懐かしいはずの友人たちに、薄情者だとでも言いたげな視線を向けられた痛みは――この十年、あらゆる形で苦しんできた事実は、何の罰だったのだろうかと。
 カイとの約束を違えた事への罰が、そんなにも重いとは思えない。ならば今ナタリヤが負うべき罰は、今の万倍も心と体に苦痛を及ぼす、残酷で屈辱的なものであるべきであるから。
 答えが導き出せずに悩むうちに、ナタリヤは知る。ナタリヤの運命に課せられたものの意味など、神の御子ですら判らないのだろうと。
 長いため息を吐く。乱れはじめた心を少しだけ落ち着けたナタリヤは、水音の中にひとの足音が混じるのに気が付いた。
 活動をはじめた庭師だろうかと考えたが、すぐに違う事を知った。力強い足音は戦いを知る男のもので、こもる力の割に音が小さく、辺りへの配慮が窺える。
 見回りの兵士や、朝の訓練を控えた聖騎士たちなど、選択肢はいくらでも広げられたはずだが、ナタリヤの直感は迷わずひとりを選び出していた。
 元より今の顔は誰にも見せたくなかったのだが、中でも一番見せたくない人物だ。ナタリヤは抱えた膝に顔を埋めた。
 足音が止まる。数歩離れたところに立ち止まっている人の気配を感じ、ナタリヤは目を伏せた。想像通りの人物ならば、深い憐憫を湛えた瞳をこちらに向けているに違いなく、それは吐き気がするほどの苦痛だった。
「ナタリヤ」
 やはり、そうだ。ナタリヤの名を呼ぶ掠れかけた声の中に、強い哀れみを感じ取ったナタリヤは、いっそう体を縮めた。抱えた膝に爪を立てるほど、強く。
「放っておいてください」
 見られたくない事と同じくらい、何も言いたくなかった。だが、何も言わなければ彼はずっと立ち尽くしたままだろうと、容易に予想できたので、ナタリヤは仕方なく口を開いた。膝の間から漏れるくぐもった声は、彼に届いているだろうか?
「君が放っておける態度を取ってくれれば、そうできるんだけどな」
「貴方には私よりも構うべき相手がいらっしゃるはずです」
 男――カイが、ナタリヤよりいくらか離れたところに腰を下ろす気配がした。静かに息を吐く音が、水音に混じりながら、しかしはっきりと聞き取れた。
「君が記憶を失うと共に、俺はザールで得た、たったひとりの友人を失ってしまったよ。八歳以降の君は、以前のように接してくれなくなったからな」
 古い話を突然ふられ、ナタリヤは羞恥に頬を染めた。七歳の頃とは言え、カイが寛大だったからとは言え、とんでもない事をしていたものだ。
「正直言って寂しかったが、それ以上に喜んだよ。君が全てを忘れていたから」
「昨日のように、私がアスト様を傷付ける事がなくなると思ったからですか」
「ああ」
 心のどこかで否定してくれる事を期待していたナタリヤは、即座に肯定されて息を詰まらせた。
「俺は、あの時点で一番傷付いていたはずの君よりも、アストの事ばかり考えてた」
「し、仕方のない事だと、思います。貴方はアスト様のお父上なのですし、そうでなくとも、大陸の未来を考える立場にある方なのですから、救世主であるアスト様を最優先すべき……」
「俺の事は恨まないのか」
 ナタリヤは両目を見開く。目に映るのは、濃い影のかかった自身の膝だけだった。
「君はアストの事を恨んでいるだろう?」
 返す言葉は、自分の中をどれほど探しても見つからなかった。カイの指摘はこれ以上無いほど的を射ており、ナタリヤが必死になって隠そうとしていた本音を掘り起こしたのだ。
 カイの言う通りだった。一晩中考える中で、ナタリヤは自覚していた。自分はアストを恨んでいる。自身の身に降りかかった、不幸との言葉であっさりと片付けたくない数々の出来事の根源が、彼の誕生にあるがために。だからこそアストに対して酷い言葉を投げ付けたのだ。化け物だの魔物だのと言った認識は、小さな子を苛める自分を正当化するための思い込みだったのだろうと、一晩中考えた今では判っている。
 それらを知ると同時に、理解した事もある。ナタリヤが苦しんできたのはアストのせいではなく、単なる逆恨みなのだと言う事だ。だからこそ今のナタリヤの中には罪悪感と、反省する心が生まれているのではないか。
「私は、貴方を恐れた事があります」
 シェリアの死の瞬間に感じたものを、ナタリヤは正直に吐き出した。礼儀を欠いているとは判っていたが、彼ならば受け入れてくれるだろうとの信頼があったのだ。
「けれどそれ以上に、私は貴方が大好きでした。幼い私にとっての貴方は、ザールで見つけた、唯一の、友でしたから。貴方は幼く我がままな私を疎まず、毎日構ってくれた。私を守ろうとしてくれた。記憶を失った後も、貴方は私に優しかった。両親の子として、次代のザールを背負うものとして、立派になりたいと願う私の想いを汲み取り、剣を教えてくれたのは貴方です。そんな貴方を、どうして――」
 途中で言葉を飲み込んだナタリヤは顔を上げる。膝を抱えていた手をゆっくりと動かし、唇の上で重ねた。強く、強く、息もできないほど押し付けると、感情は代わりに両目から溢れ出した。
「どうして恨めると言うのです」と叫ぼうとして、ナタリヤは戸惑った。
 ああそうだ、私はけしてカイ様を恨めまい。
 ならば、どうしてアスト様は恨めるのだ。あの子とて、優しかったではないか。寂しさのあまり他人の中に自分の居場所を見つけようと一生懸命で、私のそばに僅かながらもそれを見つけ、必死にしがみついていたではないか。照れ臭そうに愛らしく笑う彼を、愛しいと思った心に嘘はない。そうだ、私は。
 アスト様の事も、大好きだった――
 息が詰まったナタリヤが震えていると、数歩分の足音が響いた。無言で腰を上げたカイが、ナタリヤの隣に座り直したのだ。
 カイは少し戸惑い気味に手を伸ばす。無骨な指は、蜂蜜色の髪に絡んだかと思うと、ナタリヤの頭をやや乱暴に引き寄せた。
 ナタリヤの目の前にカイの胸が迫った。温もりを感じてしまえば、もう止められない。ナタリヤの精神は一瞬にして逆行し、今この瞬間、七歳の子供になっていた。少年時代のカイにじゃれついていた時のように、ためらいもなくカイにしがみつき、大声を上げて泣いた。泣き続ける間、じっと待っていてくれたカイの腕は、両親のものに勝るとも劣らない頼もしさで、思う存分甘えられるものだった。
 早朝で良かった。滅多に人が通らないから。噴水のそばで良かった。多少は泣き声を隠してくれるから。
 長い時間をかけて感情を吐き出しきった時には、涙も声も涸れかけていた。ナタリヤは目尻に残った涙を指で拭うと、カイから離れる。水面に映して見なくとも、醜い顔がいっそう酷くなっているだろう事は判っていたので、俯いたままカイの顔を見ようとはしなかった。
「今からアストを迎えに行こうかと考えているんだが、一緒に来るか?」
 頭上から届くカイの声が胸に染み入る。ナタリヤは無言でしばし考えてから、首を振った。
「私はまだ、私自身を信用できません。感情が理性の指揮下を外れた時に、何をするか……また、アスト様を傷付けてしまうかもしれません」
「だから、君に任せるんじゃなく、一緒に行こうと言ったんだけどな。君が傷付く前に、アストが傷付く前に、止める事ができるように」
 再度涙が滲み出しそうになり、ナタリヤは必死に堪えた。これ以上泣いてしまったら、今度こそ確実に涙が枯渇してしまうだろう。
 声を出しては涙が抑えきれないと本能で察したナタリヤは、再び無言で首を振ると、僅かな沈黙の後、優しいため息が頭上から届いた。
「まあ、無理強いはしないよ」
 声色に残念そうな響きが篭っているのを知ると、ナタリヤはまたも首を振る。
 違う。カイ様が受け取ったものは、私が意図したものではない。
「この格好じゃ、こんな顔じゃ、行けません」
「へ?」
「身支度を整える時間を下さい」
 勇気を出して伝えると、カイが頷く気配がする。直後、「判った。ここで待ってる」と、改めて言葉での返事が届く。
 ナタリヤはすぐさま立ち上がり、カイの横を通り過ぎた。
 あまり待たせてはいけないと、全力で走りながら、ナタリヤは一瞬だけ振り返る。覗き見たカイの破顔した様子は、地面を蹴る足に強い力をくれた。


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