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三章 絆




 美味しそうな匂いがする。
 焼きたてのパンや、沢山の具が煮込まれたスープの香りが、緩やかにアストの鼻に届き、空腹を訴える腹を刺激しはじめた。しかしアストの中ではまだ僅かに、眠気の方が勝っている。睡眠の邪魔をするものを遮ろうと、肩までかかっていた毛布を引き上げようとしたアストは、追い討ちをかけるように何かを焼く音がすると、諦めて薄目を開けた。
 アストの部屋は全体的に白か、白に近い灰色で統一されているはずなのだが、目の前に広がる色は、なぜか濃い目の茶だった。不審に思ったアストはもう少しだけ目を開け、色の正体を確かめる。
 どうやら木目の壁のようだ。ますます怪しいので、今度は精一杯目を開いた。もしかすると寝ぼけて夢と現実が混じっているのかもしれないと疑っていたのだが、はっきりと目を覚ましても、やはり壁は茶色かった。
 ひとつ疑いを持つと、他にもおかしいところに気が付く。まず寝台が固いし、かかっている毛布が若干重く、肌触りも劣っている。だいたい、アストの部屋まで調理場の匂いが届いた事など、過去に一度としてなかったはずだ。
 アストは上体を起こし、部屋の中を見回して、更なる違いを探した。住み慣れた自室に比べて明らかに狭いし、外からの陽の光の入り方も違っていた。
「起きたの?」
 突然声がかかり、アストは大げさに反応した後、身を強張らせる。
 声の主はユーシスだった。部屋の扉が開けっぱなしになっているので、入ってきたばかりなのだろうか。アストが驚いた事に驚いた様子で、一瞬拍子抜けした顔を見せた後、すぐに小さく笑いはじめた。
 ああ、そうか。
 アストはようやく現状をはっきりと理解した。
 昨日の晩のアストは、城の中に居場所を見つけられず、無意識のうちにユーシスの屋敷まで来てしまったのだ。そして父の提案で、一晩泊めてもらう事となり、今朝に至るのである。
「朝食がもうすぐできるみたいだけど、食べる?」
 言葉で答えるよりも早く、アストの腹が鳴った。そう言えば、昨晩夕食前に城を飛び出してから、何も口にしていない。
 ユーシスは派手な音をひとしきり笑ってから、「食べるみたいだね」と言った。
「誰が作ってるんだ?」
「伯父さんが手配してくれてるらしい使用人の人。毎日通いで来てるんだ。朝早く来て、一日分の食事作りとか、掃除とか洗濯とかして、昼前には帰る。僕が寝込んだ時とかは、少し変わるみたいだけどね」
「じゃあお前、朝以外は温かいもの食べられないのか?」
「うん。でも別にこだわりはないから、困ってないよ。どうしても温かいものが食べたかったら、自分で温められるし。やった事はないけど、できないわけじゃないから」
 そうなのか、と相槌を打ちながらアストは寝台から這い出した。
「ところで、俺の分ってあるのか? 普通、お前の分しか作らないだろ?」
「寝る前に朝食はふたり分お願いしますって手紙書いて台所に置いておいたから、多分大丈夫だと思うけど、もし駄目でも、どっちかが昼食分を食べればすむ話だよ」
「そしたらお前の昼飯がなくなるじゃないか」
「何かしら食材は備蓄されてるから、いざとなればそこから何か食べるよ」
「お前、料理できるのか!」
 生まれてから今日まで、身の回りの事を何もしてこなかったアストにとって、同い年のユーシスができると言う事実は驚くべき事だった。思わず尊敬の眼差しを注ぐと、ユーシスは歪んだ口元に困惑を浮かべた後、小さく首を振って否定する。
「料理と言うほどのものはできないよ。けど、生で食べられる野菜とかがいくらかあるだろうし。それがなくても、大抵のものは煮るか焼くかして火を通せば食べられるものに変わるから。美味しいかどうかは別にしてね」
 繊細な容姿に似合わない台詞を堂々と言われると、アストはどう反応するべきなのだろうとひとしきり悩んだ後、ごまかすような笑みを浮かべながら、正直な感想を口にした。
「お前、見た目と違って、結構大雑把なんだな」
 ユーシスは眉間に皺を寄せ、深いため息を吐く。何か言おうとして口を開き、押しとどめようと唇を引き締める、との行為を数回繰り返すと、一文だけ言葉を落とした。
「そんなのしか食べられない日があったから、仕方なくね」
 重苦しい言葉だった。笑みが急激に引きつると同時に、ユーシスが魔物の子として忌み嫌われていた事実を思い出したアストは、胸と声を詰まらせる。
 アストの緊張を解すように、ユーシスは静かに微笑んだ。
「そんな顔しなくてもいいよ。昔の事だし。今の人は二年くらい前から来てくれてるんだけど、ちゃんとした人で、今のところ一日も仕事をさぼってない。食欲がある時は、毎日ちゃんと食べてるよ」
「でも」
「前の人だって、別に僕を飢え死にさせようとしたわけじゃないと思う。食材は屋敷に残しっぱなしだったし、一度に放置されたのは長くても二日くらいの事だから、何も食べられなかったとしても死ねなかったよ。そもそも僕を殺したいなら、毒を盛るとか、もっと簡単な方法がいくらでもあるじゃないか。僕が怖いせいでここに来るのが嫌で休みがちになったとか、本当は僕を殺したいくらいだったけど、僕よりもカイ様や伯父さんの方が怖くって、嫌がらせするのがせいぜいだったとか、そんな所じゃないかな」
 ユーシスにしては軽妙な語り口で紡がれる言葉の数々は、軽妙だからこそ余計に痛々しく、アストの心に突き刺さる。
 痛みは、アストの記憶の中から昨日のナタリヤを引きずり出した。向けられた冷たい目や、吐き捨てられた冷たい言葉は、今でもアストの胸を握りつぶす。たった一日の出来事でも、アストにとっては耐えがたい苦痛だった。
 だがそれは、ユーシスにとっては日常だったのだ。しかも彼には、アストのように逃げ場はなかった。ただ耐えて、大した事じゃないと言いたげに語れるようになるまで耐えて、今日まで生きてきたのだろう。
「今更だけど、不思議だね」
 情けないような、恥じ入るような気持ちで俯いていたアストは、心ここにあらずと言った様子のユーシスが発した突然の呟きに顔を上げる。
「な、何が?」
「僕さ、君に言っただろう? 守って欲しくなんかなかったって。それって、死んだ方が良かったって言ってるのと同じで、実際僕は、死んだ方が良かったって思ってた。それなのに、いざ死を目の前にした時の僕は、わざわざおいしくないもの作って食べて、生きようとしてたんだなって、今更気付いたんだよ。嘘を言ったつもりはないし、やりたくない事をしたつもりもない。凄い矛盾しているのに、僕の中に当たり前のようにあって、それが不思議だなって思ったんだ」
 言葉で説明されると不思議な事に思えたアストだが、意味が心まで浸透すると、それは不思議な事でもなんでもなく、単純な、当たり前な事にしか思えなかった。
 少なくとも、アストにとっては当たり前なのだ。自分の出生の瞬間を知り、全身が引き裂かれそうな痛みを心に感じ、いっそ楽になるために引き裂かれてしまいたいと考えながら、無意識に救いを求めたアストにとっては。普段の生活環境から切り離されたユーシスの館に逃げ込んだのも、無茶苦茶としか言いようのない、無条件でアストを許す父の言葉を受け入れたのも、崩壊から自分を守るためだ。可哀想な母の死を悼み、苦しむナタリヤに心を裂きながらも、あたりまえのように最優先にしているのは自分が生きる事で、その事実に罪悪感を抱く事があっても、究極の逃亡や償いのために死を選ぶなどと、考えられない事だった。
 思い出の強さか、元来の性格か、自分ほど薄情ではないだろうユーシスは、違うのかもしれない。アストの何倍も、何十倍も苦しみんでいるのかもしれない。けれど――
「不思議か不思議じゃないかはどうでもいいけど」
「よくないよ」
「良い事なのは間違いないよ」
「そうかな」
「そうなんだ」
 アストを見下ろすユーシスの瞳が、僅かに見開いた後、優しく細められた。
「俺は、お前が今も生きていて、あの雨の日に会って、今こうして目の前に居てくれて、凄く助かってるから」
 音にしてから、あまりに自分勝手な発言だと自覚したアストは、羞恥のあまり固く目を伏せた。
「それじゃあ、僕は君のために今日まで生きてきたみたいじゃないか」
「うん、ごめん、勝手な事言った」
「自覚してるんだ」
「うん。その、俺、今、すごく弱ってるから、許してくれると助かる」
 言い訳にもならない無様な逃げ口上を述べて、アストは頭を下げる。謝罪のためと言うよりは、ユーシスの視線から少しでも逃れるためだったが、その程度で逃げきれるわけもなかった。
 苦い沈黙は、ユーシスの笑い声によって破られた。結局ユーシスは「許す」と言った類の言葉を一度も口にしなかったが、アストにはその優しい笑い声が、全てを受け止めてくれているように感じた。
「そうだね。どうでもいいって言うのは、意外と当たっているかもしれない」
 ユーシスは笑いながら言った。
「気付かなかったり、気付いていても考えないでいた矛盾が、僕の中には他にもあったんだ。でもそれって、考える必要がないからなんだろうね。やっぱり、どうでもいいのかな」
 アストは勇気を出して目を開き、ユーシスの表情を覗き見た。
「アスト、僕はね、五年ぶりに誰かと一緒にご飯を食べる事を、とても楽しみにしているみたいなんだ。昨日君がひどい顔で現れた時どうしていいか判らなくて、なんで来たんだろうって少し思っていたし、僕にできない事を素直にしてみせる君に、ちょっと腹を立てていたのにね」
「うん?」
「でも、どうでもいい事みたいだから、考えるのやめた。さ、君も早くおいで。せっかくの温かいご飯が冷めないうちにね」
 ユーシスは彼にしては素早い動きでアストに背を向けると、やや小走りで部屋を出て行く。
 ユーシスの言葉の真意を測りかね、落ち込むべきか喜ぶべきか判断つかなかったアストは、ユーシスの足音が聞こえなくなるまで、呆然としたまま部屋の中で立ち尽くしていた。


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