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三章 絆




 月や星の光が明るい晩だ。ふと窓の外を眺めたユーシスは、数多くの星たちに囲まれて輝く中天の月の眩しさに目を細める。
 ユーシスは読みかけの本を挟んで閉じると、肩にかけているだけだった上着に腕を通し、寝台から出た。先日、強い雨が降っていた時に窓を開けたせいで体が冷え、軽く熱を出してしまい、使用人のモレナに怒られたばかりなのだが、言い付け通り上着を着ているし、今日は天気がいいようだから、窓際に寄るくらいならば許されるだろう。
 窓に近付いて見上げた夜空は、寝台から見たものよりも近く、明るいものに見えた。ユーシスは無意識に口元を緩め、飽きる事なく空を見上げ続けていた――母の眠る場所に、子供の影を見つけるまで。
 こんな所にひとりで現れる子供など、アスト以外には考えられないのだが、ユーシスは一瞬誰だか判らなかった。月明かりと同じ色の金髪を目にしてもだ。
 ユーシスにとってアストの背中とは、強い雨風の中でもけして揺らがず、魔物が現れても勇気を持って立ちはだかってくれる、強く頼もしいものでしかなかった。しかし今日の、ユーシスの母の墓の前で膝を抱えて座る少年の背中には、頼もしさも強さも見当たらない。無防備な赤ん坊よりも弱々しい生き物にさえ見えたのだ。
 大きさは変わっているはずもないのに小さく見える背中は、けして無視できないもので、ユーシスは窓を開けたくてたまらない衝動に駆られた。不注意で風邪をひいたばかりだと言うのに、冷える時刻に窓を開けた事が知れたら、後にくどく叱られるだろうとは考えたのだが、結局理性は欲望に勝てず、とうとう窓に手をかけた。
「何をしているんだい?」
 勇気を出して声をかけると、窓の向こうの少年は、僅かに反応を見せるだけで振り返るなどの行動を取ろうとはしなかった。
 声に反応した以上、聞こえていないわけではないだろうから、ならば自分と話をしたくないのだろう。せっかく勇気をひねり出したと言うのに、無駄であった事は悔しく、恥ずかしいとさえ思った。
 やはり窓を閉めようと思い至った頃、アストが振り返ると、ユーシスは窓に手をかける事も忘れ、少年に見入ってしまった。
 生気のない顔、とでも言えば良いのだろうか。なぜ生きているのか、ほんとうに生きているのか疑問に思うほど力の無い表情は、鏡や窓に映して見るユーシス自身のものよりも酷いものだった。
 アストの空ろな瞳は、残された僅かな力でユーシスを捉えると、少しだけ明るくなったように見えた。希望を見つけたと言っては大げさだが、何かしら、縋るものを見つけたような。
 立ち上がったアストの足取りは、はじめて立ち上がった赤子のように――ユーシスは人のそれを見た事がなかったが――たどたどしい。その割に、剣を抱く手に込められた力は強そうで、その不均衡さが見る者の不安をかきたてた。
 アストの手が窓枠にかかると、彼の右腕に巻かれた包帯に、ユーシスははじめて気が付いた。転んだりぶつけたりした傷にしては範囲が広いし、大げさな気がするそれが何なのか。気になったユーシスだが、質問を投げかけようとしたその時、力の無い目に貫かれ、何も言えなくなってしまう。
「何か、悲しい事でもあったの?」
 ユーシスが語りかけると、アストは僅かに目を見開いてから、目を反らすように俯いた。
 何も言わないアストに対し、ユーシスは僅かに苛立った。顔を見るだけで、アストにとって辛い事があっただろうと容易に予想できたが、辛そうな様子だけ見せられても、なぜ辛いのかを教えてくれなければ対処のしようがない。それに、母の死後、辛い日々をひとりで乗り越えてきたユーシスにとって、他者に苦痛を見せるアストの姿は、嫉妬の対象にもなりえた。
 苛立ちにまかせて追い返してもよかったのだろう。だが、ユーシスはそれをしなかった。結局のところユーシスに何を言う事もできず、ただひとりで震える少年の姿に、かつての自分を重ねてしまったからかもしれない。
「なんで、悲しくない、なんて、思えたんだろう」
 窓枠と剣を掴む手に更なる力がこもり、指先が赤く染まりはじめた。
「俺の、せいで――俺のせい、なのに。どうして……」
 短く区切られて吐き出される言葉は聞きとれないほどではなかったが、事情を知らないユーシスに理解できるほどには意味が通じていなかった。しかしユーシスは、急かす事をせず、時に相槌を打ちながら、アストが語り終えるの静かに待つ。
 アストは元々説明が上手いほうでは無いのだろう。加えて、頭がまともに働かなくなるほど衝撃を受けた状態のようだ。幾度も区切りながら語られる言葉全てに耳を傾けても、詳しい事は判らなかった。
 だが、いくつかの重要な事は理解できた。生まれてくるために母を殺してしまった事。その様子があまりに凄惨であったために、目撃した人の記憶を奪うほどに心を傷付けた事。仲が良いと思っていた相手に、化け物と罵られた事。
 アストが語る痛みは、ユーシスには理解しやすいものだった。神の子として人々に崇められる彼と、魔物の子として人々に忌み嫌われている自分は、ほとんど全てが違っているようでいて、結局の所同じなのではないか、と錯覚してしまいそうだ。
 悲しむ原因が判ったからと言って、対応策が浮かぶわけではない。むしろ、ますますかける言葉を見失った。傷付いた心を癒す言葉など、今までほとんど受け取った事がない。あったとすれば、それはアストから貰ったもので、そのまま彼に返すのはおかしい気がした。
 自分ならどうして欲しいだろう。考えてみても、思いつかなかった。自分ならば、はじめから誰かに頼ろうとせず、暗い部屋の中でひとりきり、時が過ぎるのを待つだろうから。
 助けを求めて辺りを見回したユーシスは、亡き母の墓標を見つけた。一瞬にして蘇る、今よりも更に幼き日の思い出は、良い事ばかりではなかったが、抱きしめてくれる母の柔らかな体や、頭を撫でてくれる柔らかな手の心地良い思い出は、今のユーシスに投げかけられた難問の、ひとつの答えに思えた。
 恐る恐る手を伸ばす。俯いたアストが無防備にさらけ出す頭に触れ、ぎこちない手付きで撫でてみると、アストは驚いて顔を上げ、ユーシスを見つめた。大きく見開かれた空色の瞳は、数瞬呆けていたが、やがて細められ、大粒の涙をとめどなく溢れさせた。
 自分が泣かせてしまったのかと、ユーシスは慌てて手を背中の後ろに隠し、声を上げて泣きはじめたアストの様子を見守った。謝るのも何かおかしい気がするし、何より今の彼にユーシスの声が届くとは思えない。ではどうするべきだと、こんな事になるなら何もしなければ良かったと、ユーシスはいっそう困惑した。
 一緒に泣いてしまいたい気分だった。ユーシスとて、母を殺した罪悪感を忘れたわけではない。今真実を知ったばかりの少年に比べれば、上手く気持ちの整理を付けられるが、音もなく訪れる深い闇の中で、悲しみに押し潰されそうになる日は、けして少なくないのだ。
「アスト!」
 呼ばれた名は自分のものではなかったが、ユーシスは声に振り返る。同時に、アストは身を強張らせた。
「やっぱりここか」
 闇の中に見つけた青年の顔を、ユーシスは知らなかったが、アストによく似ていると思った。おそらくは彼も神の一族で、だとすれば、ユーシスには青年が何者であるか心当たりがあった。きっと、いや、間違いなく、『神の御子』と呼ばれる男、アストの父親であるカイだ。
 カイの存在に気付くと、アストは泣き声を飲み込み、目元や頬を乱暴に擦って涙の跡を消す。隠しきれるわけが無いと判ると、逃げ出そうとしたが、その前にカイがアストの体を捕らえた。
 カイは何も言わずにアストを抱き寄せた。逃げられないようにとの意図も含んでいたのだろうが、一番は、泣き顔を見せたくないと思っているアストの意志を尊重しての事なのだろう。
「こんな時間に、邪魔をしたな」
 カイの腕の中で嗚咽を堪えるアストを見下ろしていたユーシスは、自身にかけられた声に振り返った。
「いえ。気にしないでください」
 ユーシスが返すと、カイは一瞬だけ驚いたそぶりを見せる。
「立派と言うか、しっかりしているな。さすがだ、ユーシス……っと」
 カイは咳払いを挟み、アストを抱えた状態の中でできうる限り姿勢を正してから続ける。
「一方的に名前を知っているのはずるいよな。俺は」
「カイ様、ですね」
「俺を知っているのか? アストに聞いたとか?」
 咄嗟に訊ね返すカイに、ユーシスは肯いて答えた。
「それもありますが、お母さんが生きてた頃、よく話してくれましたから」
 神の子カイ。ザールに住む全ての神官たちが拒む中で、ユーシスに生誕の祝福を与えた男。
 彼が祝福を与えてくれなければ、ユーシスは今以上に、人として扱われなかったかもしれない。魔物の子として始末されていたかもしれない――生きている事すら疎ましく思う日々の中で、ユーシスは彼に対して恨みに似た感情を抱き続けてきた。
 だから、もし本人と会う時が来たら、ぶつけてやろうと思っていた言葉がいくつかあるはずだった。しかしそれらは、なぜかユーシスの口から飛び出してこなかった。
 探しても見つからないのだ。以前アストに向けて全て吐き出したからだろうか。あるいは――
「ずっと秘密にしておけるわけがないのに、無駄な嘘を吐くから、アストは余計に傷付いたんですよ」
 待っていても浮かんでこない恨み言の代わりに、今沸きあがったばかりの小さな怒りを冷たく言い放つと、カイは苦笑した。
「手厳しいな」
「子供の言葉は素直だから、的確に痛いところを突くんだと、この間読んだ本に書いてありました」
「子供が読む本じゃないな、それは」
 続いてカイは、静かな微笑みを浮かべた。
 神の子としての慈愛の眼差しだろうと思ったユーシスだが、よく見ると、彼自身の息子であるアストに注がれているものと全く同じで、単なる人としての情なのだと理解せざるをえなかった。
 理解してしまったからこそ、ユーシスは余計に混乱する。なぜ、そのような優しい笑みを、自分に向けるのか。
「以前俺はアストに言った。レイシェルさんは、子供を産んだ事とは関係なく病にかかって亡くなったんだってな。それからシェリアが――こいつの母親なんだが、彼女が亡くなったのも、アストを産んだ事には関係ないって」
「以前、彼の口から聞きました。結局は丸ごと嘘だったんですね」
「真実を知らない人にとっては、そうかもしれない」
 カイの腕の中に居るアストの体が硬直する。自分も同様だとユーシスが気付いた頃、カイは続けた。
「俺は本当の事を知っている。シェリアを殺したのは、こいつに光の剣を与えた存在だと」
 他の者が口にしようものなら直ちに首を刎ねられかねない危険な台詞を、カイは平然と口にした。
「シェリアを殺したのはエイドルードだ。アストに罪はない。アストが傷付く必要なんて、どこにもないんだよ」
 神の残酷さを告げる声は、光に溢れていた。無関係のユーシスがそう感じたのだから、アストにとってはもっと力のある言葉なのだろうか? 答えは、父親にしがみつく手により強く込めらた力に、現れているような気がした。
「とは言え、傷付いてしまった今現在にとって、嘘か本当かなんて、あまり関係無いのかもしれないな」
「そうですか?」
「そうじゃなけりゃ、アストも君も、今頃けろっと笑ってるんじゃないか?」
 自分はともかく、アストに関してはその通りかもしれないと納得し、ユーシスは肯いた。
「まあ、真実もアストにとってはけして優しい事じゃないし、他にも色々とあるだろうからな」
 未だ泣き続けるアストを抱え上げたカイの大きな手が、アストの頭を、肩を、背中を撫でる。触れられないユーシスには判らない事だが、きっと温かいに違いない。手から伝わる体温だけでなく、心が――今はもう亡くしてしまった、母の優しい手のように。
 母に抱かれていた自分も、こうだったのだろうか。心から頼り、全てを任せてしがみついていたのだろうか。くすぐったい想いと、今もまた抱き付ける相手が居るアストへの軽い嫉妬が混じりあい、ユーシスは俯きがちになる。
「ところでユーシス」
 カイに名を呼ばれ、ユーシスは再び顔を上げた。
「はい?」
「実は君に、頼みがあるんだが」


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