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三章 絆




 曲がり角の向こうからでも聞こえるほどの乱暴な足音は、何かしらの異常事態を告げていた。
 魔物たちにとっての聖地を目の前にしたザールにおいて、魔物が出現する程度の異常は日常茶飯事だ。特にエイドルードが空から失われてからは、出現率も増している。また何か出たのかと、報告を受ける態勢を整えたルスターは、角を曲がって現れた者がザールの兵士や大神殿から派遣された聖騎士たちではなく、カイであった事に少々意表を突かれた。まさか彼を伝令に使う者は居ないだろう――彼自ら伝令を買って出る事はあるが。
「いかがなされました」
 声をかけると、カイはルスターに気付いたようだった。
 遠くから見ても明らかなほど動揺している。ただ魔物が出ただけではすまない、大きな問題でも起こったのかと、ルスターは気を引き締める。
「ルスターさん、アストを見ませんでしたか」
「いいえ。お部屋にいらっしゃらないのですか?」
「はい。大事に至らなかったとは言え、だいぶ痛そうにしていたので、今日くらいはよほどの事がない限りおとなしくしていると思ったんですが」
 どこに行っちまったんだ、と唸るように吐き捨てたカイは、落ち着かないのか、あたりを見回した。ふたりが居る通路には、いくつか人影が見えたが、アストのような幼い子供のものはない。
「城の者に探させましょうか」
「いえいえ、俺が気にしすぎているだけなのに、皆に迷惑をかけるわけには。城の中をふらついているくらいなら、何の問題もないわけですから」
 ここで「気になさる必要はございません」と返したところで、彼はやはり気に病むのだろう。十一年の付き合いで、半ば諦め混じりに理解しているルスターは、相手に気付かれないよう息を吐きながら微笑んだ。
「では、目撃した者が居るかどうかだけ確認しておきましょう。今のアスト様はお怪我を負われておりますし、もう夜ですから、万が一城を出ておりましたら危険かもしれません。放っておくには少々心配ですから」
「ありがとうございます。あと、もしかしたらナタリヤの所に行っているかもしれないので、また部屋を訪ねても良いですか?」
「私に許可を取らずとも、どうぞご自由に。この時間ならばまだ眠ってはいないでしょう。眠っていたとしても、叩き起こしてくださってかまいませんから」
「それはかまいましょうよ」
 多少は緊張が解れたのか、カイは僅かに強張った肩をほぐす。
 ナタリヤの部屋はすぐ近くであったので、ルスター自らカイを案内する事にした。カイが城で暮らすようになってから十年が経過しており、わざわざ案内をする必要はないと判っているのだが、娘の異変を常に気にかけていたルスターにとって、部屋を訪れる理由ができた事は都合がよかったのだ。
 扉を叩くと、さほど間を開けず、ナタリヤの声が返ってくる。どうやらナタリヤ以外の人物は部屋の中に居ないようで、カイは残念そうに息を吐きだした。
 扉を開ける。寝台に腰掛けるナタリヤがひとり居るだけで、やはりアストの姿はなかった。
「このような時間に、何のご用ですか?」
 ルスターは、未だ顔色が優れない娘に微笑みかけた。
「このような時間なのだが、アスト様がお部屋にいらっしゃらないようなのだ。もしかするとお前のところを訪ねているかと思ってな」
「アスト様、ですか。いいえ、こちらにはいらしておりませんが」
「そうか。ゆっくり休めと言っておきながら、邪魔をして悪かったな」
 カイは落胆を押し隠して納得し、部屋を出ようとしたが、ルスターはナタリヤの手元に視線を落としたまま動かなかった。
 組み合わされた両手には、力がこもっている。手の甲に爪が食い込まん勢いで――それは、ナタリヤが考え込んでいたり、悩んでいたり、戸惑っている時に見せる手癖だった。
 幼い頃のナタリヤの手の甲に爪の痕を見つけた時は、その手を包み込み、できる限り優しく、胸の内にあるものを問うたものだ。ナタリヤが成長するにつれ、ルスターの方から問いかける事はなくなっていたが、昼の出来事や交わしたばかりの会話の内容を思うと、放っておけないような気がした。
「お前の部屋には来ていなくとも、どこに行ったか、心あたりはないか?」
「いいえ、ございません」
「ならば、先ほど目覚めた後、アスト様に会ったか?」
 ナタリヤが一瞬戸惑いを見せる。すでに部屋を出ていたカイが、再びルスターの隣へと戻ってきた。
「父上は何がおっしゃりたいのです?」
「深い意味はない。お前ならば、アスト様の現在のご様子を知っているかもしれない、と思っただけだ。ないならないと答えればいい」
 答えは沈黙だった。それは肯定と同意で、カイはルスターを押しのけるように一歩前に出た。
「なぜアストに会った」
「朝の件の謝罪をしようと思いました。カイ様は今日はいいとおっしゃいましたが、やはり、早い方が良いと考えましたので」
 ナタリヤの爪が、いっそう強く皮膚に食い込んだのを、ルスターは見逃さなかった。
「それで? アストに謝ったのか?」
 答えは沈黙。だが今回は、肯定の意味を込めた無言ではなかった。
 ルスターはカイの横顔を見つめる。鬼気迫る、けれど何かを恐れている眼差しは、ルスターに振り返る事なく、ナタリヤだけを見ていた。
 続く沈黙に言葉で割って入る事ができず、けれど外から見ているだけでは耐え切れなくなったルスターは、娘の前に膝を着くと、固く結ばれた両手を包み、絡み合う指を解いた。
 ナタリヤの体から、僅かに力が抜けた気がした。
「久しぶりですね」
「何がだ?」
「父上がこうして、私の手を労わってくださる事がです」
 ルスターは僅かな間、両目を固く伏せた。
 心から、娘のためを思って行動したつもりだった。だが結局自分がした事は、娘から言質を取る事でしかなかったと気付くと、やりきれない気持ちになったのだ。
「ナタリヤ、私はお前にとって、あまり良い父親ではなかっただろう。突然ザールの領主になる事となり、慣れない仕事で忙しいと言い訳ばかりして、お前の事は妻や城の者に任せてばかりだった」
「突然何をおっしゃって……」
「全て、思い出しているのだな」
 ナタリヤの手がルスターの手を強く払いのけた。自分が何を言ってしまったのか、気付いたのだろう。
 自分がナタリヤの父として、父親らしく触れ合う事ができたのは、セルナーンに居た頃までだとルスターは思っている。手の甲に刻まれた小さな痕に気付き、労り、悩みを真摯に聞いてやれた日々は、十年以上も前――ナタリヤが、衝撃的な記憶と共に失った昔にしか存在しないはずなのだ。
「アスト様に、何を言った?」
 見開かれたナタリヤの瞳は、ルスターを通り抜け、カイに向けられた。
「お前が記憶を失った日の事を?」
 カイが床を強く蹴り出す気配がした。
 ルスターは立ち上がり、カイとナタリヤの間に自らの身を滑り込ませる。背後で足を止めたカイが、何かを言いだす前に、手を上げて娘の頬を叩く。
 ナタリヤの体が揺れ、背後のカイは息を飲んだ。ルスターは目を細めて娘を見下ろすと、静かに息を吸い込んだ。
「幼いお前にとって、全ての思い出を巻き添えにしてでも捨てなければならなかったほど、そうしなければ生きていけないほどの、恐ろしい記憶だったのだろう? それだけの痛みを知っているお前が、なぜ、他人に同じ痛みを強いた」
 ナタリヤは熱を持った頬を押さえ、俯いた。
「いいや、同じではない。アスト様が負われた痛みは、お前が負ったものよりもなお強いはずだ。自らの生が、母の死を呼んだと知れば」
「あれは本当に、神の子なのですか?」
 ナタリヤは立ち上がる。目に再び光を宿し、近い位置からルスターをきつく睨み上げた。
「父上はご存知無いのでしょう? あれがどれほどおぞましい形で誕生したか。父上だけではなく、皆、知らないからこそ疑わないのです。見方を変えれば、あれは地上から、カイ様から、シェリア様と言う光を奪い去った生き物でしかない。人々の信仰を隠れ蓑に利用した、魔獣が放った刺客でないとどうして言えます」
「落ち着け、ナタリヤ」
「私は落ち着いております。その上で、違った視点からの意見を」
「ごめんな、ナタリヤ」
 カイの声が静かに浸透し、ナタリヤは口を噤む。
 ルスターも同様だった。声を失い、カイに振り返った。
 不思議な事に、カイの表情にも、眼差しにも、拳にも、先ほど床を蹴った時には確かに存在していたはずの怒りが、僅かにも宿っていなかった。短時間で感情に整理をつけた彼は、生前のシェリアを思わせるほどに静かな空気を纏いながら、悲哀を秘めた目でナタリヤを見下ろす。
「俺ははじめから知っていた。アストが俺とシェリアの子で、間違いなく、救世主なんだって。でも君は違うんだよな」
 囁くようにこぼれた言葉の痛々しさから、目を反らす事ができればどれほど楽だろうと思いながら、ルスターは微動だにせずにカイを見守った。
「違います、カイ様、私は」
 ナタリヤは小さく、しかし何度も首を振った。
「せめて俺が、君と同じ不安や痛みを背負う事ができれば、今の君をひとりにしないですんだのに」
「私は、カイ様にそのような顔をして欲しかったわけではありません……!」
 カイはしばらくの間、無言で続ける言葉を探したが、見つからなかったようだ。ナタリヤに対して深く頭を下げた後、部屋を飛び出していく。
 今の彼にできる精一杯の謝罪だったのかもしれない。ルスターは歯を食いしばり、視線の行き先をナタリヤへと移行する。力を失ったナタリヤは、崩れ落ちるように、元通り寝台に座った。
「違います」と、届けたい相手に届かない言葉を、ナタリヤは繰り返し産み出し続けた。やがて祈るように固く目を伏せ、きつく唇を噛みしめるまで。
「嘘では、なかったのです」
 カイの姿が消えてからしばらく過ぎた後、色を失った唇がゆっくりと動きはじめた。
「アスト様の部屋を訪ねた時は、心から謝罪しようと思っていたのです。許されようと、許されまいと、『動揺のあまりに剣を抜いて申し訳ありませんでした』とだけは伝えようと、そう思って――けれど私は、いざアスト様を目の前にすると、謝罪するどころか、化け物と言い放つ事しかできず」
 両の手を傷付けあうために、ナタリヤの両手は再び組み合わされた。小さな自傷に悔恨と贖罪の意志を感じ取ったルスターは、今度は何もしなかった。
「お叱りはもっともです、父上。私は、あまりに情けなく、弱く、無様な人間です。子供相手に、本心を隠しきれないほどに。私は、ただ、恐ろしくて――」
 ルスターは空ろな目で何もない空間を見つめるナタリヤの隣に腰を下ろすと、娘がしていたように両手を組み合わせ、皮膚を食い破るほどに爪を立てる。痛みが走った。だが当然、ナタリヤやアストが感じた痛みには及ぶものではなかった。
「私は、カイ様やアスト様のおそばに生き、仕える事が、この時代に産まれた我が一族の使命だと思っている。エイドルードより授かった、尊い運命なのだと」
 大神殿でカイと出会ってから今日この日まで、カイやアストと共に築いた記憶は、容易く思い返す事ができる。優しい日々だった。楽しい日々でもあった。血を分けた家族とは別に、もうひとつの家族を得たような――恐れ多いあまりに、誰にも言えない想いであったけれど。
「私はこの運命に感謝し、幸福に思っている。レイシェルも、はじめは違っていたかもしれないが、最期の瞬間は幸福に思っていただろう。しかし、この大地に生きる者の中には、自身に課せられた運命が重く、恐ろしいと考える者も居る。逃げ出したいと思う者、実際に逃げ出す者も居る。不快だと投げ捨てる者も居る。お前がそちらがわの人間だったとしても、私はけしてお前を責められまい」
 ルスターは一呼吸おいてから続けた。
「だが、覚えておきなさい。私たちが仕える方々は、お前よりもよほど重い運命を、エイドルードに与えられているのだと。そしてどれほど望んでも、逃げる事など叶わないのだと」
 眠りについた赤子の横で、かつて妻であった鞘を抱きしめながら、「ごめん」と繰り返し言い続けた少年の小さな背中を、ルスターは生涯忘れないだろう。偉大なる存在に惨い選択を強いられた少年の、声にできなかった悲痛な叫びを、忘れられるはずもなかったし、忘れたいとも思わなかった。
 だから心の内で輝くのだ。痛みを伴う運命を受け止めて生きる神の子のそばで、彼らのために生きる事を許された幸福が。
「それからもうひとつだけ。カイ様は、全てを事前にご存知だった。アスト様ご生誕の際、シェリア様が辿る運命……どのような形で命を落とされるかもだ。だからこそカイ様はお前と約束をした。ご自分は運命の元、悲劇を受け止める覚悟を決めながら、無関係であるお前だけは守ろうとしてくださったのだ。結果的に叶わなかった時からは、お前を巻き込んで申し訳ないと、常に悔やみ続けておられた」
 立ち上がったルスターは、部屋を出る前に一度だけ、娘に振り返った。
「いつか、お前も誇りに思ってほしい。あの方々の一番近くで生きる自分自身を」
 ナタリヤは傷付いた両手で自身の顔を覆う。
 その奥でどのような表情を浮かべているのか、ルスターには判るべくもない。少しでも心が軽くなる事を、ただ祈るしかできなかった。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.