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三章 絆




 窓から入り込んでくる明かりは、いつの間にか赤く染まっており、徐々に弱まっていく。
 寝台に横たわるアストは、半ば空ろな瞳で窓の外を眺めながら、ああもうすぐ夜なのだと、時間の流れを受け止めていた。単調な時の流れを見守るには、アストはまだ幼く、退屈に思うばかりだったが、どこかに出かけるどころか、寝台から這い出る気にすらならなかった。
 健康な左手を、そっと包帯の上にかざす。アストの傷を診た医者は「傷は浅く、骨などに異常はないでしょう」と言っていたが、大した事ないとは言え痛い切り傷である事に変わりはない。軽く指先が触れるだけ、温もりが伝わるだけで、痛みが強まってしまう。
 包帯に触れる直前に手を止めて、アストはゆっくりと息を吐いた。
 陽が完全に落ち、部屋の中が闇に包まれた。物音ひとつしない暗黒の中で、痛みよりも強くアストの脳を刺激するものは、記憶だった。
 冷静さどころか、理性そのものを欠いたとしか思えないナタリヤの形相は、忘れたくても忘れられない。彼女は、何もかもを忘れ去っているかのようだった。感情の表し方、言葉の紡ぎ方、落ち着いた呼吸の仕方までも。
 恐れ、怯え、本能のままに剣を振ったナタリヤの瞳が見ていたものが何であったのか、どれほど考えてもアストには判らなかった。血走った瞳に映していたものは、確かに自分自身であったが、ナタリヤを混乱させた相手が自分だとの自信がない。他に考えられないのだが、どうして自分が、と思ってしまう。ようは信じたくないのだ。
 アストは両手を顔の真正面まで持ち上げる。白いてのひらは震えていて、物悲しい気持ちになった。
 扉を叩く音が、静かな部屋に響き渡る。驚いたアストは無意識に身を捩り、扉の向こうの人物に応えた。
 おそらく父だろうと思っていた。ひとりにしてほしいとさんざん頼んでようやく部屋から追い出してから、さほど時間が過ぎていないように思えるが、ひどく心配していた父ならば、様子を見に来るのもありえると――しかし、開いた扉の隙間から灯りと共に表れた人物は、父でなく、アストの頭の中を占領していた女性だった。
「ナタリヤ……」
「アスト様、具合はいかがですか」
 ナタリヤ自身が手にする灯りが照らし出す、アストを労わる表情も、温かな眼差しも声も、アストが良く知るナタリヤのものとまったく同じだった。
 いつものナタリヤだ。昼間のナタリヤがちょっとおかしかっただけなのだ。
 強い安堵によって、生々しく残る恐怖が緩やかに融解しはじめると、アストは喜びのあまり、自覚なく笑みを作る。
「大丈夫だよ。なんともない。傷も大した事ないし」
 目を細めたナタリヤは、噛む事で唇の震えを止める――そう、彼女の唇は震えていた――と、寝台のそばまで歩み寄り、傍らに置いてあった丸椅子に腰を下ろした。
「ナタリヤこそ気分はどうなの? もう動き回っても大丈夫なの?」
「ええ……」
 ナタリヤはぶっきらぼうに答えると、口を噤んだ。
 無言で何かを伝えようとしているわけではないだろう。乾いた瞳は彼女自身の手元に向けられているだけであったし、その両手も、手を組んだり緩めたりを繰り返すばかりで、特に意味のある動作をしていない。
 この部屋に来た意味を果たすためには、無為な時間が必要なのだろうか。そう考えると、静かな空気が重苦しいものに感じられ、アストは緊張のあまり小さく喉を鳴らしたが、ナタリヤがアストの様子に気付く事はなかった。
 やがてナタリヤの両手は硬く組まれ、手を見下ろしていた両目がアストに向けられる。
 静かな、けれど強い眼差し。何かを強く訴えかけてくるかのようだ。
「アスト様のお誕生日の朝、こちらでお話した内容を、覚えておられますか?」
 アストは口内の空気を飲み込んでから答えた。
「ナタリヤが王都から帰ってきたのが早すぎるとかって話?」
「いえ、そちらではなく、アスト様のお母上――シェリア様のお話です。『もし知っているなら話を聞きたい』と、私にそうおっしゃいましたよね?」
「うん、言ったけど」
 確かに言ったが、「会った事がない」とナタリヤが答えた事で、片付いたはずだった。元よりアストは母親に対してさほど強い執着がない。情報がないならないで、終わらせられる話だった。
「何を今更」と返そうとして、ナタリヤの眼差しが思いの他鋭い事に気付いたアストは、吐き出しかけた言葉を飲み込む。
「もしかして、会った事があるの?」
 恐る恐る訊ねると、ナタリヤは視線を泳がせた後、僅かに肯いた。
 組まれたナタリヤの手に、更なる力が込められる。短く整えた爪が食い込みそうな勢いで、互いの手を傷付けあっていた。
「思い出したのです。私はシェリア様と、毎日のようにお会いしておりました。ですが、話した事はほとんどありません。シェリア様は冷たささえ感じるほどに高貴で美しく、同時に近寄りがたい方でしたから、子供であった私の目には怖いくらいに映ったのです。カイ様は昔から気さくな方でしたので、まったくと言って良いほど生反対なおふたりがなぜご結婚されたのか判らず――正直なところ、不釣合いだとと思っておりました」
「へぇ」
「けれど、おふたりはいつも一緒でした。とても判りにくい形でしたが、シェリア様はカイ様を心から信頼されておられるのだと、何ヶ月も共に過ごすうちに理解できるようになりました。カイ様は、どうしてそこまで尽くされるのかと不思議に思うほどシェリア様を大切にされており、理想的とは言いがたかったかもしれませんが、それもひとつの夫婦の形なのだろうと納得できるものでした。アスト様、貴方のご生誕の瞬間まで」
 小さな灯りに照らし出された、アストの両親の肖像画を見上げたナタリヤは、一度固く目を伏せる。再度開いた目を、今度はアストに向けた。
「アスト様。私は、貴方が産まれた日を知っています」
 空気が鳴った気がした。
 同時に、ナタリヤの手が軋み、小刻みに震えだす。薄暗い部屋の中で最も明るく輝いていた蜂蜜色の髪が、呼応して震えはじめると、アストは言葉にできない、剣を向けられた時に感じたものとはまた違う、恐怖に似たものが湧きあがる感覚に襲われた。
 小さな手で耳を塞ぐ。咄嗟の行動だった。判断すらしていない。ただ、そうしなければいけないと言う本能が、アストの体を勝手に動かしたのだ。
「逃げないでください」
 ナタリヤの手がアストの手を柔らかく包み込み、耳からはがし取る。代わりに耳もとに寄せられたナタリヤの唇が静かに囁くと、アストの中に産まれたものが勢いを増した。
 腹の奥から飛び出そうとする悲鳴が、喉の途中でつかえる。声が出ない。息が吸えない。
「八歳の誕生日に目覚めた私には、何もありませんでした。それ以前の記憶を失っていたためです。全てが空白と言う不安の中で、私は周りにあるものに縋るしかなく、私を労わる夫婦が両親なのだと信じるしかありませんでした。母は言いました。目覚めるまでの数日間、重い熱病に苦しみ、何日も何日も、寝ても覚めてもうなされていたのだと。父は言いました。それほどの苦しみを忘れ去る事ができた事は、むしろ幸福なのかもしれないと。私はふたりの言葉を受け入れるしかなかった。信用し、思い込み、今日まで生きてきた――」
 ナタリヤの唇がアストの耳を解放する。代わりに彼女の瞳は、アストの瞳を見下ろした。
「全てを取り戻した今なら判ります。失くしていい記憶など、ひとつもないのだと」
「ナ……」
「シェリア様が亡くなったのは貴方のせいです、アスト様。貴方が、シェリア様を殺したのですよ」
 冷たい告白に、アストの小さな心臓が大きく跳ねた。直後、握りつぶされるような痛みが生まれ、追い立てられるかのように鼓動が走りだす。
 貴方――俺――が、シェリア様――母さん――を殺したのですよ。
「何、言って……」
 掠れて消えかけた声を絞り出したものは、軸を失い崩れかけたものを支えようとする意志の力だった。
「突然、おかしな事、言わないで」
「おかしな事ではありません。ただの事実です。この先、誰ひとりとして貴方に伝える事なき真実です」
「違う。嘘だ。だって父さんは違うって」
「嘘ではありません。私はこの目で見ました。貴方が、生まれながらに持っていた剣、そう、あの光の剣で、内側からシェリア様の腹を引き裂く様を。氷像のように凍りついていたシェリア様の美しい顔が歪んだのは、あの日が最初で最後だったでしょう。叫ぶ事を知らなかった唇は大きく開かれ、可憐な声は空気を切り裂きました。あっと言う間に悲鳴は途切れ、惨い、悲惨な死体だけが残りました。貴方が産まれてきたから。シェリア様を殺すために、産まれてきたから」
「違う」
「よく言えたものです。自らの手で己の母の命を奪っておきながら、『母の死が悲しくない』などと――」
 否定するために強く振ろうとした頭を、ナタリヤの手がしっかりと抑えつける。
 身動きが取れなくなったアストは、滲みはじめた視界の中に、歪んだ輝きを秘めた瞳を見つけた。優しかったはずの春色の瞳は、今はただ冷たい。
「アスト様。貴方は本当に、神の後継者なのですか?」
「そうだよ! だって、皆がそう言って」
「皆が気付いていないだけかもしれません。信じたいだけなのかも。貴方が神の後継者でなければ滅びを待つしかないために、藁にも縋る思いで。けれど本当は、違うかもしれない――何にせよ、はっきりと言える事がただひとつあります」
 ナタリヤの手から力が抜け、解放されたアストは、腕の痛みも忘れ、ナタリヤに掴みかからん勢いで身を乗り出した。ナタリヤの突然の言葉に、幼い心は動揺し、深く傷付いていたが、全てを否定すれば守れる事を本能的に察していたため、言い返そうと口を開く。
「ナタリヤ、俺は」
「貴方は人から遠く離れた、化け物です」
 短く吐き出された言葉は鋭く強く、刃向かおうとする意志が、一瞬にして霧散した。ナタリヤに向けて伸ばした手は力を失い、膝の上に崩れ落ちる。
 後を追うように、アストの体そのものが崩れはじめ、意識の崩壊がはじまった。頭の中で糸が切れるような音がしたかと思うと、混乱を諌めるかのように黒一色に染まりだす。
 痛みだけがアストを支えていた。腕に刻まれた小さな傷の――いや、それとも、心の方だろうか。アストはすでに、自分の体を責めるものの正体を判別できなくなっていた。
「両親も、カイ様も、私が思い出さない事を望んでいたのでしょう。けれど私は、思い出せた事を嬉しく思います。幼い頃の私は恐ろしいからこそ忘れたのでしょう。けれど今の私は、忘れていた事を恐ろしいと思うのです」
 微かな音が聞こえる。遠ざかる足音と、扉が開く鈍い音。
 ナタリヤが立ち去ったのだと理解するだけの余裕もなかった。仮に理解できたとしても、どうでもいい事だったかもしれない。
 寝台の上で、アストは縮こまる。淀んだ意識と涙が歪めた視界に、放り投げた自身の手が映った。
 変わらぬ、いつもの自分の手だ。しかし今は、赤く染まっているように見えた。


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