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三章 絆




「申し訳ございませんでした」
 彼の事だ。倒れた娘の代わりに謝罪するため、即座に駆けつけてくるだろう。
 そう予想していたカイだったが、いざ当のルスターが駆けつけて来た途端、てのひらと膝を床に着けるほど低く頭を下げたのは、さすがに予想外だった。
「ちょっ……ルスターさん、頭を上げてください」
 謝罪の言葉は受け取ってもいいかと考えていた。ナタリヤは未だ気を失ったままだが、アストは掠れた声で、カイがアストと別れて城内に戻ってからの僅かな間に裏庭で何が起こったのかを、語ってくれたからだ。
 アストの証言は、アストにとって都合のいい、一方的なものだった。通常ならば鵜呑みにするべきではないだろう。しかし今回は素直に信じられたし、疑う気にもならなかった。ふたりの関係を考えれば、起こるべくして起こった事件だと言ってもいい。
 かと言って、土下座はいくら何でもやりすぎだろう。慌てたカイは何度か「顔を上げてください」と頼んだが、今日のルスターは頑固で、カイの言葉に従おうとしない。仕方なくカイの方が床に膝を着き、できる限りルスターと視線の高さを合わせる。
「ルスターさん、もういいですから」
「良いはずがありません。大人が子供に剣を向け傷を負わせた。それだけでも充分、罰せられるべき罪です。しかもアスト様は、エイドルードがこの大地のために残された唯一の希望。神そのものと言っても過言ではない、偉大なる存在ではありませんか。一歩間違えば、ナタリヤがこの大地を滅ぼす事になったかもしれないのですよ」
「アストが特別な子供である事は忘れましょう。いや、忘れても、ナタリヤが責めを負うべき事をしたのは間違いないんでしょうから、俺だって、謝るなとは言いませんよ。本音を言うならば、うちの息子に何て事してくれたんだ、ちゃんと謝れ、と思ってます。ただそれは、ルスターさんが俺に対してする事ではなく、ナタリヤがアストに対してするべき事と言うか……何より俺は、この件について、一概にナタリヤの責任だとは言えないと思っているんです。きっと彼女は、アストの存在か無意識の行動によって、思い出してしまったんでしょうから」
 カイの言葉の中に気になるものを見つけたのか、ルスターはゆっくりと顔を上げ、カイの目を見た。
 空色と緑が重なると、カイはとりあえず安堵し、ルスターの腕を引いて立ち上がる。ふたりの前にある寝台には、ナタリヤが横たわっていた。
 裏庭に倒れている姿を発見した直後よりはだいぶ良くなっているが、未だに顔は青白く、悪い汗をかき、時折辛そうに息を吐いている。痛ましい姿だった。きっとうなされ、苦しんでいるのだろう。恐ろしい悪夢――辛い記憶に。
 カイもルスターも、ナタリヤがこのように苦しむ様子を見るのは初めてではなかった。遠い記憶、遠ざけたかった記憶の中にある、幼い頃のナタリヤを蘇らせ、カイは眉間に皺を寄せる。見ると、ルスターもカイと同じように、苦痛に耐えるべく唇を引きつらせていた。
「まず謝るべきは俺です。十年前の俺は、あまりにも浅はかすぎました」
「いいえ、カイ様。十年前の件は、カイ様と交わした約束を忘れたナタリヤが」
「当時のナタリヤはまだ七歳だったんです。約束をするだけで終わらせていいわけがなかった。城の誰かに、部屋に閉じ込めてでもナタリヤを城から出さないようにしてくれと、頼んでおくべきだったんです」
 そして、今回も。
「浅はかなのは十年前だけじゃありません。俺は失われたものが永遠に戻ってこないと疑いもなく信じていた。そして、取り戻すための扉を開ける鍵を、ナタリヤの目の付くところに置いてしまったんです」
 避けられなかった事とは思わない。ナタリヤが受けた衝撃を和らげる方法はすぐに思い浮かばないが、考えれば何か見つけられたかもしれない。見つからなかったとしても、ふたりの間に起こった諍いを、自分の目の前で起こす事は可能だった。そうすれば、ふたりが傷を負う前に止める事ができたのではないだろうか。
 カイは拳を握り締めた。どこかに叩き付けたい気分だったが、叩き付けるに相応しい場所が手近には見当たらなかった。
「ナタリヤにとっては、途方もなく恐ろしい光景だったはずです。ナタリヤより九つも年上で、全てを知った上で覚悟を決めていた俺だって、現実を目の前にした時は、まるで心が途切れるかと思うほど――」
 カイは強く首を振った。
「すみません。ナタリヤは、本当に心を千切ってしまったのに」
 十年前、血まみれの家の中、自分自身も血まみれになりながら産まれたばかりのアストを抱いていたカイは、家の外に倒れていたナタリヤを見つけた瞬間、驚愕して息を飲んだ。外傷も何もない彼女が倒れた理由はひとつしか考えつかず、余計な人間には見せないと決めていた光景を、最も見せたくない人物が目の当たりにした事を知ったからだ。
 まだ八つにもなっていなかった彼女にとって、母体を引き裂いて産まれてくるアストの姿は、家中を赤く染めて死んでいったシェリアの躯は、明らかに異常な妻の最後と子はじまりを黙って受け止めるカイの存在は、どれほど恐ろしかっただろう。
 ナタリヤが、地中奥深くに眠る魔獣よりも、神の一族の方を恐ろしいと感じたとしても、仕方のない事かもしれない。そこまで覚悟していたカイは、何日も眠り続け、悪夢にうなされ続けたナタリヤが、目覚めた時には全ての記憶を失っていたと知った時、心から安堵した。ルスターたち夫妻の痛みや、記憶を失くしたナタリヤの不安を、労わる事も忘れて。
 ナタリヤはもう、おぞましい記憶に苦しむ事はないだろう。
 そして、カイたち大人が口を噤む限り、アストは自身が産まれた状況を知らずにすむだろう――
「ナタリヤは全てを思い出したのでしょうか」
「判りません」
 カイもルスターも、失った記憶が一時的に刺激されただけである事を祈っている。たが真実は、ナタリヤが目覚めるその瞬間まで、判るはずもなかった。
「まだ思い出していないならば、これ以上ナタリヤの記憶を刺激しないよう、アストがナタリヤの前で何をしたのか、確認する必要がありますね。光の剣を抜いて見せびらかしたとかなら、この先アストが彼女の前で光の剣を抜かないよう注意し、アストが魔物と対峙する際にナタリヤを同行させない、ですむのですが」
「もしすでに、全てを思い出しているのだとすれば」
 ルスターは横たわる娘の傍に歩み寄ると、優しい手を伸ばし、額にいくつも浮かぶ汗を拭った。
「同じ光景を見ていない私には、ナタリヤの苦しみを知る事はできませんが……この子はもう、子供ではありません。たとえ全てが恐怖でしかない記憶なのだとしても、乗り越えさせましょう。カイ様が乗り越えたものなのですから」
 カイは様々な感情を逡巡させた後、導き出した結論がルスターと同じである事に絶望し、苦悩を眉間に刻みながら息を吐いた。
「そうしてください、としか言えない自分が腹立たしいです」
 ルスターは目を細めて笑った。
「『救世主誕生の瞬間に立ち合えた事を光栄に思え』とおっしゃってくださればいいのです。カイ様がお心を痛める必要はございません」
 次はカイが笑う番だった。
「それでナタリヤが救われるなら、何度でも言いますけどね。とてもじゃないですが言えませんよ……」
 カイが唇を引き締めるのと、ルスターが素早く視線を動かして娘を見下ろしたのは、ほぼ同時だった。
 唸り声が止んだのだ。寝台に横たわるナタリヤが、ゆっくりと息を吐きながら、緑色の瞳を覗かせると共に。
 空ろに天上を見上げるナタリヤの端整な顔を覗き込みながら、カイは言葉を模索した。まず何と声をかけるべきなのか。何を、確かめるべきなのか。
「気分はどうだ?」
 ルスターが柔らかな声音で娘に語りかけると、ナタリヤは首を動かし、ルスターとカイを見つけたようだった。
「私は――」
 痛むのか、頭を抱えながら起き上がるナタリヤの動きは、壊れた機械のように緩慢だった。
 黙って見ているには痛々しく、彼女の体を支えようと手を伸ばしたカイは、流した汗によるものか、触れた背中の恐ろしいほどの冷たさに、小さく息を飲む。
「頭の中に靄がかかったような気持ち悪さがありますが、大した事はありません」
「では、眠りにつく前に何をしていたかは思い出せるか?」
 ナタリヤは頭を抑えたまま、考え込むそぶりを見せる。
「城に帰還し、洞穴の封印に関する簡単な報告を受け、カイ様とアスト様が稽古をしているとの情報を聞き、裏庭に、行って――」
 緑の瞳が大きく見開かれた。
 先ほどまでの動きが嘘のように、素早くカイに振り返ったナタリヤは、困惑に震える唇を自身の意志に従わせるためにいくらか時間を費やした後、掴みかからん勢いでカイに迫る。
「アスト様は、どうされておられますか」
「落ち着け、アストなら大丈夫だから」
「ですが私の手は覚えております。確かに手ごたえが」
「ちょっとした切り傷を作ったが、それだけだ。今は自分の部屋で静養している」
「それだけって……」
 カイはナタリヤの額に手を置くと、軽く力を込めて押した。
 弱った体は加えられた力に耐えられなかったのだろう。ナタリヤの体は驚くほどあっさりと、再び寝台に横たわった。
「今日はとにかく休め」
「ですが!」
 再度起き上がろうとするナタリヤを、カイは無言で制止してから続けた。
「言いたい事があるなら明日聞く。今日はルスターさんに沢山謝ってもらって、うんざりしているから、君の謝罪を聞く精神的な余裕がない」
「うんざりですか」
「うんざりです」
 カイは返事と共にルスターに笑いかけると、ナタリヤに向き直った。
「ただ、休む前に、ひとつだけ訊かせてほしい。なぜ、アストに剣を向けたのかを」
「なぜ……?」
 力のない言葉で呟いたナタリヤは、伏せた目をカイから反らした。
 何かを思い出そうと考え込んでいる様子は、見守るカイたちの不安を煽るばかりだ。カイはすかさず手を伸ばし、思考に耽るナタリヤの肩を軽く叩いた。
「無理に思い出さなくていい。理由が聞きたかったわけじゃないんだ」
 言葉と、触れた部分から、温もりが伝わったのだろうか。ナタリヤはゆっくりと開いた目や小さく動かす唇で、謝罪の意志を示す。
 カイは可能な限り優しく微笑みかけながら、強く肯く事で、彼女の意志を受け取った。


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