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三章 絆




 ザール城の裏庭に、金属音が幾度も響き渡る。音の中心で剣を構えるアストは、肩で激しく息をしながら、自身の正面に立つ父を見上げた。
 先ほどから何度も切りかかっているが、全て涼しい顔で受け流されしまい、今のところ一撃も加えられていない。父が大人でアストが子供である以上、体格差や力の差はどうしようもないものであるし、何より父には長年戦い続けた経験がある。元より勝てるとは思っていなかったが、やはり圧倒的な差は悔しいものだった。
 いくらか呼吸が落ち着き、周囲に注意を払う余裕が出てくる。アストはそうなってはじめて、父の足元の異常に気付く事ができた。
 この場にやって来た時につけたもの以外、足跡がない。
 どうやら父は、ただアストの攻撃を受け流しているだけでなく、稽古をはじめた瞬間に立った場所から一歩も動いていないらしい。一撃が無理ならば、せめて表情くらいは崩したかったが、無理なのだろうとアストは悟った。そして、洞穴絡みの騒動のせいでほとんど訓練できていなかったのだから仕方ないともの判りよく諦めると、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。今日最後の一撃と決めたそれは、容易く父の剣に受け止められた。
 ひときわ大きな音が響き渡った。
 アストは深い息を吐き、肩を落とす。剣の切っ先を地面に埋めると、小刻みに震える形で腕が悲鳴を上げはじめたた。アストの筋力に合わせて父が選んでくれた剣だが、長時間振るい続ければ、やはり負担は大きいようだ。
「最後の一撃、なかなか良かったぞ」
「ほんと?」
「ああ。力が入ってたのもあるが、気迫が違ったな」
 父の称賛に嘘はなく、アストは得意げに笑った。調子に乗るなと言われるかと覚悟したが、父は笑い返してくるだけで、特に叱咤する事はなかった。
 おもむろに「今日はここまでにしておくか」と言い出した父に、アストは素直に従った。光の剣で魔物たちを一掃した時に比べればましだが、疲労は重く、全身の筋肉が軋んでいる。明日はあちらこちら痛むかもしれないと覚悟しなければならなかった。
「しまった」
 剣を鞘に納め、空を見上げた父は、太陽の傾きを確認して低く唸った。
「どうしたの?」
「今日は昼過ぎに王都からの使者と会うんだった」
「大切な話なの?」
「いや。定期的に来るご機嫌伺いだから、綺麗な格好して笑っていれば何事もなく終わるだろう」
「なんだ、そんな事」
 父は温い息を吐き出しながらアストの肩を優しく叩く。
「そう言うな。俺たちがきちんとしている所を見れば、皆安心するんだから。魔獣の不安と隣り合わせでもな」
 言った父はアストの頭を乱暴に撫で回し、城の中に戻るために歩き出した。
 歩きながらも度々振り返り、「ちゃんと汗を拭けよ」だの、「ゆっくり休めよ」だのと心配そうに言葉を投げかけてくるのが父らしいと思いつつ、背中を見送ったアストは、軽く反り返って体を伸ばしながら、青い空を見上げた。
 風で雲が流されていき、一面の青の中に輝く太陽が眩しい。もうすっかり雨の季節は終わったようだ。
 大きく、ゆっくりと息を吸い込んだアストは、同じだけゆっくりと息を吐く。すぐそばにそびえる太い幹を持つ木に寄りかかると、土の上に座り込んだ。
 長閑な時間だった。緩やかな風と揺れる葉の音がなければ、時が止まっているのではないかと錯覚してしまうほどに。気だるさも手伝い、このまま昼寝してしまえば気持ち良いかもしれないと一瞬考えたが、風邪をひいてしまいそうなので諦めた。
 しばしの休憩の後、立ち上がったアストが体に付着した土埃をはたいていると、遠くから軽い足音が近付いてくる。顔を上げたアストの目にまず飛び込んできたのは、太陽の光を浴びて煌めく蜂蜜色の髪だった。
 ナタリヤだと判ると、アストは体ごと向き直る。魔物による被害状況の調査と、被害者を慰問するために、ザール各地を回っていると聞いていたが、ようやく帰ってきたのだ。
「おかえりナタリヤ。いつ戻ったの?」
「つい先ほどです」
 よく見るとナタリヤは、旅装姿のままだった。帰ってきて着替える時間もとらず、ここに来たのかもしれない。
「セルナーンから戻ってきたばっかだったのに今度はザール廻りなんて、大変だったね」
「疲れなかったと言えば嘘となりますが、平気です。本当に大変なのは、被害を受けた者たちですから」
 笑顔で答えたナタリヤは、周囲を見回しはじめた。
 もう少し場所を移せば、整えられた緑や花畑、魚たちが泳ぐ池など、目で楽しめるものがあるにはあるが、アストたちが今居る場所は、小規模な訓練場となっている一角だ。綺麗に均された土の地面と、ところどころに生えた木以外、特に何もない。
「カイ様とアスト様が裏庭で剣の稽古をしていると聞いていたのですが、誤った情報でしたでしょうか」
「ううん、父さん、さっきまでは居たよ。何か、昼過ぎに王都から人が来るからって、その準備に行っちゃったけど」
「そうですか……残念です。せっかくの機会ですから、私も稽古をつけていたこうかと思っていたのですが」
 ナタリヤは寂しそうに呟いた。
「ナタリヤも剣を使えるの?」
「はい。次期ザールの領主として、いざと言う時魔物から身を守れる程度の剣術は身に付けておかないと困りますし、格好もつきません。ですからいざと言う時は、私もアスト様をお守りするために戦いますね」
 歓迎すべきなのか、嫌がるべきなのか。どう反応して良いか判らくなったアストが曖昧な表情を浮かべると、ナタリヤは可愛らしく笑った。どうやらからかわれていたようだ。
「セルナーンに行く前までは、カイ様に剣を教えていただいて……」
 最後まで語り終えるよりも早く、声が掠れ、消える。ナタリヤは少しだけ見開いた瞳で、一点を凝視していた。
 ナタリヤが見下ろす先にあるのは紛れもなく自分で、アストは戸惑ったが、初々しい春の若草を彷彿させる緑は、アストの目も、顔も、見ていないようだった。もっと下――肩や胸? いや、もっと下だ。
 探るように動かしたアストの指先に、冷たいものが触れた。驚きと共にナタリヤの視線の意味を知ると、アストは鞘を腰から外し、両手に握りしめて自身の視線の高さまで掲げる。
「これ、気になるの?」
「え……あ、はい」
「封印に行く時に必要だからって、父さんが俺にくれたんだ。くれたって言い方はおかしいのかな。元々俺のものだって言ってたから」
 ナタリヤは両のてのひらを小さく叩き合わせた。
「アスト様の素晴らしいご活躍、お聞きしております。多くの魔物を一瞬にして倒し、洞穴の封印を完成させたと」
「凄いのは俺じゃなくて、剣の方なんだけどさ。エイドルードの守護を受けないものだけを斬るんだって父さんが言ってた」
 だからナタリヤを傷付ける事はないと判っていたが、気分的に嫌だったので、アストは数歩後退し、ナタリヤとの間に距離を作る。腕を伸ばす事で、再度距離を詰めようとするナタリヤの足を止めてから、光の剣に手をかけた。
 黒い鞘の中から、輝かしい光が生まれる。明るい空の下を更に明るく照らす、力の象徴が。
 アストには何の影響もない光だが、ナタリヤにとっては眩しいはずだった。目を背けているかもしれないと、確かめるように再度ナタリヤに視線を送ったアストは、ナタリヤがいっそう目を見開いて凝視している姿に驚愕し、息を飲んだ。
「どうかした?」
 不審に思ったアストは、掲げていた剣を下ろす。光源の位置が下がったが、ナタリヤの視線は凍りついたかのように動かなかった。優しいはずの緑色は、色は変わっていないはずであると言うのに、濁っているように見える。
「ナタリヤ?」
 不安になったアストは、もう一度目の前の人物の名を呼ぶ。
 ナタリヤの様子がおかしいだけならば、動揺はしただろうが、ここまで心細い想いはしなかったかもしれない。異変が起こった瞬間、彼女の視線がただ一点、アストとアストが手にする光の剣を捉え、見つめていたからこそ、アストは途方もない不安に支配された。ナタリヤをおかしくしたのは、自分なのかもしれないと。
「ナタ――」
 胸中を支配するものから解放されたい一心で、アストは光の剣を鞘に納めると、名を呼びながらナタリヤに向けて手を伸ばした。彼女が何かを恐れているならば、そうして安心させてやりたかったし、震えていると言うならば、震えを止めてやる事ができると思った。
 だが、アストの声も手も、ナタリヤには届かなかった。
 ようやく動き出したナタリヤは、叫ぶ。きちんとした言葉をなしてはいなかった。強い動揺と恐怖を、意味を持たない言葉に託し、空気を震わせた。
 静かな世界を一瞬にして破壊したナタリヤは、目の前に迫るアストの手を払いのけようと、右腕を思い切り振るう。悲鳴の中に、弾ける音が混じりこんだ。
 アストの手に衝撃が走る。ナタリヤの体から出たとは思えないほどの強い力で、アストの体が揺らいだ。戸惑いが強く、半ば呆けていたため、自身の体を支えようと言う意識が働かない。もつれた足は何の役にも立たず、アストは尻から地面に倒れ込んだ。
 腕で上体を支えるアストの体に、影が覆い被さった。ナタリヤのものだ。ようやく悲鳴を断ち切ったナタリヤが、太陽を背にした状態で、アストの前に立ちはだかったのだ。アストは一瞬、ナタリヤが落ち着いたのかと思ったが、彼女がアストに向ける目は未だ、優しさを取り戻してはいなかった。
 むしろ、動揺と言うには甘い、狂気にも似た揺らぎが強まっているようだった。ナタリヤはアストからけして目を反らさないまま、彼女自身を救うものを探していた。周辺には何もない、ならば身に付けているものの中から――ナタリヤが選び取ったのは、腰から下げていた細身の剣だった。
 鞘から抜かれた刃が光を浴びて輝いた瞬間、アストはそれまで何とか保っていた冷静さを失った。どこか他人事のように見ていた状況が、急に身近なものとなり、唐突に身の危険を感じ取ると、瞬時に肌が粟立つ。
 本能的に身を守ろうとし、左手が握りしめていた棒状のものを、力任せにナタリヤにぶつけた。
 アストの右腕に熱が生まれるとほぼ同時に、ナタリヤの短い悲鳴が上がった。女性とは言え、子供であるアストよりは大きな体が、いとも簡単に吹き飛び、激しい衝撃音と共にいくらか後方にあった木に叩きつけられた。
 小さく呻き声を上げたナタリヤは、そのまま意識を失い、木の肌の上を滑り落ちるように地面に崩れ落ちる。
 アストの体は大きく震えた。自分が何をしたのか判らないまま、土に塗れる蜂蜜色の髪を見下ろし、手にしていたものに縋りついた。
 冷たい。ああ、父さんに渡された剣だ。神の一族以外はけして触れられない、触れれば罰が下ると言っていた――それでナタリヤに触れてしまったんだ。だから、ナタリヤは吹き飛んでしまったんだ。
 震えが強くなる。恐怖が増したからだ。己の力に対する恐れと言うよりは、己の力によって引き起こされた最悪の状況を目の前にしながら、自分自身が助かった事へ安堵する気持ちの方が勝つ、己の心への恐れだった。
「ナタ、リヤ……?」
 力無く名を呼ぶが、ナタリヤの返事はない。
 アストは震える足を拳で叩き付けながら、剣を杖にして立ち上がる。誰か人を呼ばなければと思い、踵を返してその場を後にした。
 走る中で、右腕に刻まれた切り傷が、痛みを訴えだす。血が流れる事による脱力感と合わせて、倒れ込んでしまいたい気分になったが、アストは必死に走り続けた。
 逃げたかったのだ。地面に転がり落ちた細身の剣の鈍い光と、刃に纏わりつく赤から――ナタリヤの居る場所から。


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