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三章 絆




 自分を迎え入れた若い聖騎士に脱いだ外套を預けると、引き寄せられるように椅子に近付き、腰を下ろす。樫の木で造られた椅子の固い座りごごちを恋しく感じると、ジオールは自身を蝕む重い疲労を認めざるをえなかった。
 昨日一日は事務仕事のみのほぼ休養状態だったとは言え、一昨日に魔物と激しい戦いをしたばかりであるし、今朝早くにザールを発つと言う強行であったから、疲れているのは当然だ。しかし、昔の自分ならば同じ状況でもここまで辛くは感じなかったのではないか、と思ってしまうと、仕方ないとは言え、年齢を重ねた事実が少々虚しくなってしまう。
 王都への迅速な帰還は、「唐突に飛び出して大神殿の皆に迷惑かけちゃったから、できるだけ早く帰りましょう」などと、リタが珍しくしおらしい事を口にしたためだ。言っている事はもっともだと納得しつつ、同行した聖騎士たち、特に普段から年寄り扱いしているジオールを労わるとの発想はないのだろうかと、ジオールは一瞬考えたのだが、結局は反論せず黙って従った。リタの事情や心情を考えれば、帰還までにあった丸一日の猶予が、精一杯の気遣いなのだと思えたからだ。
「ザールへの遠征、お疲れ様でした」
 遠征と言うには少々大げさすぎる気がしつつも、若い部下の気遣いに水を注す気にはならず、ジオールは薄い笑みを浮かべながら手を上げて答える。表情を引き締めたのは、その直後だ。
「当初の予定より長く留守にしてしまったが、何か問題は?」
「大きな問題は特にありませんでした。王都も大神殿も、相変わらずの平和が保たれております」
「小さいものでも構わない。誰かが騒いでいた、嫌味を言っていた、文句を言っていた、などでもな」
 戸惑い気味に唇を引き結ぶ聖騎士の様子から、彼が真相を口にする前に、予想していた通りの展開になっていたのだとジオールは悟った。
「まず大司教様ですが、あまり良い顔をしておられませんでした」
「そうか。それは良かった」
「良いのですか?」
「非常識な行動を取った事に対してそのような反応をされる大司教様は、常識的な思考をお持ちの上で、常識的な行動を取ってくださると言う事ではないか? お守りするがわの人間にとって、これ以上ありがたい事はない」
 少なくともジオールの部下ならば、今のジオールが暗に誰の事を語っているのか、判らないはずがない。目の前に居る若い聖騎士も例外ではなく、答え辛そうに戸惑ってから、「なるほど」と肯いた。
「そ、それからですね、副団長が激昂しておりました。その、リタ様の突然の行動、と……」
 青年が口ごもる。リタの事ですら口にした彼がためらうとしたら、彼の目の前に居るジオールの事しか考えられなかった。
「リタ様の唐突で無茶な行動をお止めするのも私の仕事だ、と?」
 言い辛そうにしている青年に代わってジオールが口にすると、青年はすかさず肯く。
「は、はい」
「もっともな言い分だな。反論の余地はどこにもない。後でおとなしく小言を聞くとしよう」
「ですが、調査が進めば結局は、リタ様がザールに赴き、封印を施す事になったのです。結果的には事が迅速に進み、聖騎士団やザールが受けるかもしれなかった被害が抑えられたわけですから、リタ様や隊長のご判断は正しかったと言えるのでは……」
「結果的にはそうなるかもしれんが、副団長は経過を重んじる方だ。私もな」
 ジオールが力強く言葉を吐くと、青年は口を閉じ、それまで以上に背筋を伸ばして姿勢を正した。
「私はリタ様をお守りする立場にある者として、まずザールからの詳しい調査結果を待ち、どうしてもリタ様のお力が必要だと判断されるまで、大神殿に待機すべきだった。小言くらい受けて当然ではないか」
「ですが」
「なに、それ以上の大事にはならんよ。結果的に事が迅速に進み、被害が抑えられたとの功績を、丸ごと無視する方ではない。仮に無視されたとしても、私には強力な味方が居る。現聖騎士団長は、かつての私の部下で、この隊で副長を務めた事もある。こちらの事情をよく理解している彼は、激昂する副団長を宥めこそすれ、文句の類は口にしなかっただろう?」
「は、はい、確かに」
 それに、味方は他にも居る――青年が何度か肯き、瞳に宿す不安の色を消し去ったのを確認してから、ジオールは青年から目を反らし、整然とした部屋の様子を捉える。目に映るものに意味はない。目に映る場所に居ない存在、リタの事を思い出していたのだ。
 相当落ち込んでいた様子であったし、ジオールたちと同様、あるいはそれ以上に疲労しているはずであるから、問題がない限りしばらくは部屋でおとなしくしているだろう。だが、万が一今回の事でジオールに処分が下る、との話になれば、飛び出してきて庇ってくれるはずだ。口では色々と言っているが、ジオールが護衛隊長となってから十一年、隊長の交代を拒否し続けたのはリタ本人で、それゆえにジオールの更なる出世が閉ざされた事を、彼女は多少気にしている。かつてのジオールの部下が聖騎士団長になってからはなおさらで、今以上に不利益を与えないよう、できる限り気を使ってくれているようなのだ。
「隊長はなぜリタ様をお引き止めせず、ザールへお供したのです?」
 ジオールは背もたれによりかかり、明後日の方向に向けていた視線を青年に戻した。
 彼の疑問は最もだ。リタがザールに向かうと言い出した時のジオールは当然、結果を知らなかった。リタと自分自身を守る事を考えるなら、先ほど説明した通り、リタを無理矢理にでも引きとめ、大神殿で待機するべきだっただろう。
「リタ様は常に無茶をしているように見えるかもしれんが、選んで無茶をされる方だ。選ぶ基準がご自身の勘でしかない所が、一見たちの悪いところだが、私はリタ様の勘をある程度信用している。結果的に良い展開になるだろうと信じて従った」
 青年は感嘆の息を吐いた。
「素晴らしいですね。それも、エイドルードのお力でしょうか」
「いや、以前、魔物狩りをなされていた頃の経験だろう。現役を退いてから十年以上経過しているが、リタ様は結界の外で、魔物と隣り合わせで生きてこられた方だからな――さて」
 ジオールは机に手を付いて立ち上がった。
「どちらへ?」
「何から片付けるべきか迷っていたが、とりあえず副団長の小言を聞きに行く事にした。首を長くしてお待ちだろうからな」
 若い聖騎士は苦笑する。それから、「お気をつけて」と、場に相応しいのか相応しくないのか判断が難しい言葉を口にしながら、深々と頭を下げた。
「あの!」
 青年が突然表情を変え、ジオールを呼び止めたのは、ジオールが扉を目の前にした瞬間だ。
 ジオールは扉に手をかける前に振り返る。去りゆく上司を呼び止めた自分自身に驚き、うろたえる青年がそこに居た。
「どうした」
「その……隊長は、ザールの領主とお知りあいだとお聞きしたのですが」
「ルスターはかつての同僚であり、友人だが」
「此度の遠征で、お会いする機会は?」
「もちろんあった」
「では、ナタリヤとも会われましたか? 彼女は元気に?」
 まさか王都で聞くとは思っていなかった名が飛び出し、ジオールは一瞬だけ言葉に詰まる。
 そう言えばナタリヤは言っていた。ついこの間まで王都に滞在し、多くの者に師事し、学んでいたと。王都出身の若い聖騎士とどこかで顔を合わせていたとしても、不思議な事ではない。
「知り合いか?」
「はい。幼馴染のようなものです」
 なるほど、まだ彼らが王都で暮らしていた頃の知り合いかと、ジオールは余計に納得した。幼いナタリヤは活発で、近所の子供たちの中心人物だったと記憶している。親であるルスターですら「把握しきれない」と言い切るほど、多くの友人を持っていたのだ。彼はその中のひとりと言う事だろう。
「そうか。二年半の滞在は、懐かしい者たちと再会するにも、良い機会だったのかもしれんな」
 何気なく紡いだジオールの言葉に、若い聖騎士の表情が一瞬にして陰った。
「何か?」
「いえ、再会とは言っても、私は一度顔を合わせただけなのです。王都に来てからの彼女は、脇目も振らずに勉学に励んでいたようですし……何より、私は彼女にすっかり忘れ去られておりましたから。友人が数多くいた彼女に、全員覚えていろと言っても無理だと判っているのですが、割と親しいつもりでいただけに、どうにも気まずく、そのままになってしまいました。ただ、かなり根を詰めていたようですので、どこか体を壊していないかと、気になっていたのです」
 寂しそうに照れ臭そうに笑いながら頬をかく青年を、ジオールは強い眼差しで見下ろす。
 割と親しいつもりでいたが、忘れられていた――青年の告白は、つい先日にジオールが抱いた想いとまったく同じで、少々気にかかったのだ。
「君だけか?」
「はい?」
「王都で暮らしていた頃のナタリヤには、友人が数多く居たのだろう? 誰か他にも、ナタリヤに忘れられていた者は居るのか」
 青年はしばし考え込んでから答えた。
「あの頃の友人全てと今も繋がりがあるわけではありませんので判りませんが、私の周りの者たちは皆……まあ、いつも忙しそうにしていたナタリヤと、再会すら叶わなかった者も多かったのですが」
 そうか、と生返事をしたジオールは、鈍い動作で肯く。
 思い返せばルスターは、ナタリヤの話をした時に、戸惑いを見せていた。本来のナタリヤならばジオールの事を忘れなかっただろうと言った後に、何か言おうと口を開きかけていた。
 会話の先には何があったのだろう。気にかかったジオールだが、話ができる相手はザールの空の下だ。今になってできる事は、後悔しかない。
「ルスターには子がナタリヤしか居ない。ただひとりの跡継ぎとしての責任が、過去を振り返る事を許さなかったのかもしれんな」
 憶測で語る事ははばかられたが、何も言わないのは怪しいかと、ジオールはあたり触りない予想を語った。
「やはり、未来の領主様となると、色々大変なんでしょうね。無理をしてなければいいんですが」
「良き領主となるためには、しなければならない無理もあるのだろう。だが、少なくとも私の目には、望まぬ無理はしていないように見えた。安心していいのではないか」
 ザールで出会ったナタリヤの素直な印象を語ると、青年は僅かにためらってから、満足げに肯いた。
「そうですね。ありがとうございました」
 礼をした青年が頭を上げるのを待ち、隠しきれない安堵の笑顔を確認すると、ジオールは彼に薄い笑みを返し、部屋を出る。
 副団長が待つ部屋へ向かう間に考えた事は、報告や弁解ではなく、ザールに住む者たちの事ばかりだった。


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