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三章 絆


10

 飛び出して行く様子に驚き呆然としたユーシスは、アストの背中を見送る。
 正気に戻ったのは、落ち着きの無い足音が聞こえなくなった頃だった。「何をそんなに慌ててるんだろう」と呟いてから、ユーシスはアストの後を追う。
 通路に出ると、開け放たれた扉が見えた。生前の母が使っていた部屋だ。片付けてしまうと母の思い出ごと消えてしまう気がして、五年間も放置――モレナは度々掃除をしていてくれたようだが――していた部屋の主は、昨晩からアストになっている。
 拘り続けた部屋をあっさりと許した自分に、ユーシスはひどく驚いていた。他に人が宿泊できる部屋がないのは確かだが、自分の部屋に泊めるなり、自分の部屋をアストに貸して自分が母の部屋に泊まるなりの方法があったのだから。どうしてなのか、自分の事ながら未だに判っていないのだが、不快でなければ別にいいと、無理やり納得する事にした。
 部屋に近付くと、中から物音や人の声が聞こえた。どうやらアストもモレナも部屋の中に居るようだ。元々知り合いだった彼らがふたりで会話したとしても不思議ではないが、何を話しているのか気になって、ユーシスは部屋の中を覗き込んだ。
 手前にはアストが、奥には掃除用具を持ったモレナが立ち、言葉を交わしている。アストが居ないうちに掃除をしようとしたのだろう、空気の入れ替えのために開け放たれた窓から外の空気が流れ込んできて、ふたりの髪を揺らしていた。
 その光景の中に気になるものを見つけたユーシスは、アストたちの会話に対する興味を一瞬にして失った。すぐにその場を離れ、ユーシスにしては乱暴な足取りで、通路を戻る。もはやふたりの声が耳に届かないのは、声が小さいからでも遠ざかったからでもなく、意識から排除してしまっているからか。
 食堂の前を通り抜け、館の外に繋がる扉に手をかけた。ためらったユーシスは、一度深呼吸をする。息を吐き出すと共に、以前館が魔物に襲われた時、ここでアストに庇われた事を思い出すと、腹の奥から勇気が湧き上がった。
 ユーシスは扉を開いた。外と空間が繋がると、言いようのない不安に襲われたが、細い足に力を込めて立ちはだかる。
 目の前には、突然扉が開いた事に驚く者たちが立っていた。ひとりは知っている。「落ち着くために時間が必要だと思うから、ひと晩泊めてやってくれないか」と言って、昨日アストを置いて去った男、カイである。
 もうひとり、カイに隠れるような位置に立つ、少女と女性の間を彷徨う年代の人物は、はじめて見る顔だったが、誰なのか予想をつけるのは容易だった。長く伸ばして結い上げた蜂蜜色の髪や瞳の若草色は、ユーシスが持つものと同じ。亡き母やアストの話に幾度か登場した事がある、従姉妹のナタリヤだろう。
 ごく近い親族だが、記憶に残る中では初めて会う彼女に対して、昨日までのユーシスは、何ら感情を抱いていなかった。目の前に現れた事に驚いても、それだけで終わったはずだ。
 だが、今日は違う。彼女がここに現れた事が、不愉快で仕方がなかった。昨晩のアストのたどたどしい語りの中に登場した名の持ち主だからである。
 アストよりも先に彼女の来訪に気付いた幸運を、ユーシスは喜んだ。今のうちに追い返せば、アストは彼女に会わなくてすむ。
「何しに来たんですか」
 ユーシスはカイとナタリヤのふたりを睨み付け、刺々しい口調で問う。
 悪意が向けられている事に気付いたか、ナタリヤが身を強張らせると、カイが一歩前に出て、ユーシスに微笑みかけた。
「もちろん、アストを迎えにだ」
「貴方が来るのは当然です。でもどうして、その人も一緒に?」
「俺が連れ戻したんじゃあ、帰る意味が無いと思ったから」
「その人が迎えに来たら、アストは帰りたがらないんじゃないですか」
 歯に衣着せぬユーシスの物言いに、ナタリヤは萎縮する。カイの背中に隠れているだけでは足りないのか、ユーシスから顔を背けた。
 まるで被害者のような態度に、ユーシスはますます苛立つ。何の権利があって、ナタリヤはそのように振舞うのだろう。アストに酷い言葉を浴びせて自失状態に追いやった加害者は、確かに彼女であるはずなのに。
「私……アスト様に、謝罪を」
「自己満足のために?」
「そんなつもりは」
「自分が悪いと思っているなら、帰ったらどうですか。少なくとも今のアストは、貴女に謝られても嬉しくないと思います。貴女がアストにしてあげられる一番の事は、傷を抉らないために、会わないでいる事ですよ」
 辛らつに言い切ると、ナタリヤは返す言葉を失ったようだった。胸元で固く組んだ両手を震わせ、きつく唇を噛んでいる。
 見かねたカイがユーシスの真正面に立つと、ユーシスの視界からナタリヤが消えた。
「ありがとうな、ユーシス。アストのために怒ってくれて」
 肩に大きな手が置かれ、仕方なくユーシスはカイを見上げる。浮かべる穏やかな表情は、ユーシスのためなのか、ナタリヤのためなのか。答えがどちらにせよ、ユーシスは納得がいかなかった。この男が今一番気遣うべき相手は、アストではないか。
 感情がこもる事で、カイを見上げる視線が勝手に厳しくなっていくのを自覚していながら、ユーシスは抑えようとしなかった。
「でもこれは、昨日今日だけの問題じゃなくて……」
 ユーシスはカイの言葉を遮るように行った。
「アストは以前、僕を守ると言ってくれました」
 それだけではない。今朝は、「生きててくれて良かった」と。
 どちらの言葉も言われた直後、気恥ずかしいあまりにからかうような口調で返してしまったけれど、存在していてもいいのだと温かに受け止めてくれた言葉が、母亡き今も自分を必要としてくれる人が居るのだと知れた事は、とても嬉しかった。泣きたくなるほどに――そうだ、泣かなくてすむように、笑ってごまかそうとしたのだ。
 ユーシスの胸中には願望が生まれていた。いつからなのかはっきりとは判らないが、アストと出会ってはじめて生まれたものなのは確かだった。
 何もかもを諦め、ひとり寂しく朽ちていく未来しか想像できなかったユーシスにとって、抱いた願いは未知のものでしかない。正しいのか過ちなのかさえ定かではなかったが、手放してはいけないとの確信があった。
「僕も、アストを守りたいんです」
 ユーシスにはアストのような力は無く、できる事などたかが知れているが、だからこそ、できる限りの事をしてやりたいと思った。母が残してくれたユーシスのための空間に匿う事は、今ならば、アストの力になるだろう。
「私も、アスト様をお守りしたかった。かつての父がカイ様を守ったように、私がアスト様をお守りしたいと」
「よくもぬけぬけと」
 ユーシスがなおも厳しい言葉を吐き捨てる中、近付いてくる足音が響いた。卑怯にもカイの向こうに隠れていたナタリヤは、ようやく顔を出す気になったらしい。
「ザールの民にとって、ここは魔物の巣窟でしょう。貴女の言葉を借りるなら、化け物まで居る。アストのためを考えなくても、自分の身が可愛いなら、早く帰った方がいいんじゃないですか」
 ナタリヤは悲壮な顔付きでありながら、強く首を振った。
「私は恐れていません。貴方も」
 ナタリヤはユーシスに落としていた視線を上げ、ユーシスの数歩後ろを見る。
「貴方も」
 彼女が誰に語りかけたかを瞬時に察したユーシスは、慌てて振り返る。予想通り、そこにはアストが立っていた。
 全く気付かなかった。いつから居たのだろう、どこから話を聞いていたのだろう――いや、そんな事はどうでもいい。彼がここに現れては、何の意味もないではないか。
 ユーシスは扉を閉める事によって外と中を分断しようと試みたが、それを止めたのは、よりにもよってアスト本人だった。動揺と怯えの影に隠れた力強さを覗かせた表情で、ユーシスの隣に並び立ったのだ。
「大丈夫なの」と訊こうとして、止めた。訊ねる前に、アストは頷いて答えたのだ。そして彼は、けして弱くない眼差しでナタリヤを見上げる勇気を取り戻した。縋るようにユーシスの腕を掴んでいたけれど。
「昨日はたいへん失礼いたしました」
 先に声を発したのはナタリヤだった。何を今更、とユーシスは失笑したが、もはや口を挟める雰囲気ではなかった。
「信頼を失った今、謝罪に何の意味も無いのかもしれませんが、それだけはお伝えせねばと思い、参りました」
 アストは否定も肯定もせず、ナタリヤの言葉をただ受け止めていた。ユーシスの腕を掴む手にこもる力が強まったのは、不安の表れだろうか。
「俺は怖いんだよ、ナタリヤ」
 囁くような告白には、アストの中で燻ぶる痛々しい想いが溢れていた。
「昨日の事を俺に謝ろうと思ったならなおさら、ナタリヤがはきっとこれからも、ずっと……ずっとじゃなくてもしばらくは、俺を見るたびに、嫌な事を思い出すよね」
「それは――ですが」
「多分、俺もなんだ」
 アストの指先からユーシスの腕へ、震えが伝わる。しかしそれは、彼が言葉にしている恐怖によるものではない事を、ユーシスは感覚で理解した。隣に立つ少年は、昨晩やってきた時の小さな彼ではなく、はじめて見た日の頼もしさを幾分取り戻していた。
「父さんは俺のせいじゃないって言った。同じように、ナタリヤのせいでもないんだと思う。そうなると、悪い人は居ないのに、悪い事が起こった事になる。不思議だけど、きっと珍しい事じゃないんだ。それを一番よく判ってるのは、多分ユーシスだ」
 突然自分の名前が飛び出した事に動揺したユーシスは、自分へと降りそそぐ、ナタリヤやカイの視線から逃れるため、アストを見上げる。
「だから俺はユーシスを見習う事にする」
 儚く微笑む空色の瞳に、ユーシスは身を硬直させた。
「ユーシスは偉いよ。ザールの人たちを恨んだりなんかしてない」
 それは、違うよ。
 ユーシスの頭の中に咄嗟に浮かんだ反論は、触れる温もりに溶けて消えた。
「ナタリヤも、そうしようとしてくれてるんだよね。だから、俺は頑張る。上手くできるかどうか判らないけど、なかった事にできるようにする。いつかまた、前みたいに笑いあえる日が来るように」
「信頼を取り戻す機会を、私にお与えくださいますか」
「うん。ナタリヤがそれを望んでくれるなら」
 ナタリヤはアストの前に跪き、深々と礼をした。微動だにしない姿は彫像のように美しく、アストの笑みと合わさる事で溜飲が下がる思いがしたユーシスは、意識的に呼吸をする事で緊張を解した。
 未だユーシスの腕を掴み続けるアストの手を剥がす。どうやら彼は無意識にユーシスを掴んでいたようで、自身の手の行方に驚いていた。
「帰りなよ」
 精一杯の微笑みでユーシスが言うと、アストは頷いた。
「辛くなったらまた来る」
「やめてよ。面倒くさい」
「でも、守ってくれるんだろ?」
 やっぱり聞かれていたのか!
 頬が急激に熱を持ちはじめたのを自覚して、ユーシスは腕を上げて顔を隠す。
 感情に任せて吐き出した言葉たちを、アストにだけは聞かれたくなかった。嘘はひと言も口にしていないが、偽りなき本音だからこそ、余計に恥ずかしい。
 カイやナタリヤにまで笑われているような気がして、ユーシスはアストの背の後ろに周り、力いっぱいアストを押した。
 押されるまま歩き出したアストは、顔だけ振り返る。いくらか明るさを取り戻した笑顔が意地悪く見えたのは、気のせいだろうか?
「辛くなくても来るけどな」
「いいから早く帰れ!」
 怒鳴りつけると、アストはしぶしぶと言った様子で歩き出す。何度も何度も振り返り、ユーシスに向けて手を振り続けた。
 鬱陶しいなと思いながら、アストの姿が木々の向こうに見えなくなった時に感じた寂しさに気が付いて、ユーシスは苦笑する。扉を閉じ、外の世界を遠ざける事で孤独を呼び込むと、両目を伏せ、扉に額を預けた。
「違うよ、アスト」
 ユーシスは言いそびれた言葉を思い出し、呟く。音にする必要がない事に気が付くと、続きは心の中だけで呟いた。
 違うんだ、アスト。
 僕がザールの人々を恨んでいないのは、僕が優しいとか、ザールの人々を許しているからとかじゃないんだ。
 ただ、他人を恨めるほど、自分を大事だと思っていなかったから――いっそ僕を消してくれればいいのにと思っていたから、それだけだよ。
 今はもう、違うけれど。
 蕾が綻ぶように優しく、ユーシスは微笑んだ。
 君が、僕の前に現れてくれたから。


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