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二章 封印


10

 張り詰めた糸を爪先ではじいたような、軽くもあり重くもある違和感に、リタはゆっくりと目を開ける。
 自分自身と、アストと、シェリアであったものを繋ぎ、洞穴の入り口を包む淡い光によって、視界は霞がかっていた。目に映る全てのものの輪郭がぼやけ、正しい色を認識できない。しかし、何であるのかを判別できないほど歪んではおらず、魔物と戦う聖騎士たちの姿や、光の剣を手に集中するアストの姿を確認できた。
 リタは集中を乱さぬまま、首を巡らせて辺りの様子を見極め、違和感の正体を探ろうとした。僅かとは言え、神聖な空気を侵食する何かが起こった事は確かなのだ。周囲で起こる戦いさえも完全に遮断するほど集中した意識が、感じ取ってしまうほどの何かが。
 その「何か」が判らないまま続けて良いのか不安を覚えたリタは、不安を掃ってくれそうな相手を探した。悔しい事に、思い浮かんだ人物は、カイとジオールのふたりだった。
「ジオール」
 先に目についたジオールの名を静かに呼ぶ。集中を保つために抑えた声しか出せなかったのだが、ジオールは喧騒が響く中、リタの声を確かに捉えてくれた。
「いかがされました」
 力強い剣戟で魔物を切り捨てると、ジオールは辺りを警戒しながら、リタのそばへ駆け寄ってくる。周囲に魔物が近付いてくる気配がない事を確認してから身を屈め、耳の高さをリタの口の高さに合わせた。
「今、変な感じがしたんだけど、何か起こらなかった?」
「何か、とは?」
「それが判ったらちゃんと訊いてるんだけど。たとえば、そうね。今私たちが創る図形の中に光ができているでしょう? その中に誰かが入ったとか」
 ジオールは僅かな間を空けてから答えた。
「入るだけでしたら、先ほどから何度でもございます。聖騎士たちも、魔物も」
「そう……」
 ジオールの言う事だ。間違いはないだろう。はっきりと言い切られたリタは、謎の違和感を気持ち悪く思いながらも、納得するしかなかった。正面に向き直り、洞穴を睨みつけ、組んだ手に力を込める。
 一連の動作の中で、リタは再び違和感を覚えた。先ほど感じ取った、直感に近いものではなく、もっとはっきりと捉えられるものだった。
 やはり何かがおかしいのだと、リタは正体を探るため、同じ動作を繰り返す。
 カイが居ない。
 辺りを見回す事で、リタはその事実に気が付いた。
 アストを支え、アストを守る役目を負う男が、アストのそばに居ないなどと、これほどおかしな事が他にあるだろうか。思わぬ魔物の襲撃によって、他の聖騎士たちがアストのそばを離れようとも、カイだけは最後までそばに居て、アストを守るべきだ。彼はただの聖騎士ではなく、エイドルードの御子であり、アストの父親なのだ。
「ジオール、カイはどうしたの」
「カイ様ならば、ハリスが守りに――アスト様のおそばに」
 ジオールは周囲を見回し、カイの姿が見えない事に気付いたようだった。
「ハリスもおりません。何か意味あってこの場を離れたのではないでしょうか」
 確かにジオールの言う通り、ハリスはアストの周囲に居なかった。リタはハリスとさほど近しくないが、それでも、考え無しに持ち場を離れるような男でない事くらい知っている。
 リタはジオールの予想を受け入れかけたが、慌てて首を振った。はじめに覚えた違和感が、嫌な予感ばかりをリタに伝えてくるのだ。絶対に、良くない事が起こっていると。
 戸惑ううちに、アストの護衛隊の聖騎士が数名、洞穴の入り口に近付いた。中を覗き込み、何か叫んでいるようだが、リタには聞き取れない。
 代わりに聞き届けたジオールの視線が、素早く洞穴へ向く事によって、悪い予感が的中した事を知ったリタは、軽く唇を噛んだ。
「カイは、洞穴に落ちたの?」
 きつく引き締められたジオールの唇は、答える事を拒否しているようにも見えたが、やがて重々しく開かれた。
「そのようです」
「じゃあ、一度儀式を止めた方がいいんでしょうね」
 リタはざわつく胸中を落ち着かせるために一度深呼吸をし、組み合わせた両手に込めた力を緩める。しかし、大きな手が力強くリタの両手を包み込み、絡みあった指は解けてくれなかった。
 両手に落としていた視線を上げる。歳を重ねても鋭さを失わない、むしろ増す一方であるジオールの強い視線が、リタの目を、心を貫いた。
「儀式はこのままお続けください」
「無茶言わないで。このまま、洞穴と一緒にカイも封印しろって言うの? できるわけないでしょう」
 カイは言った。役目の途中で死んだらどうするのかと問うたリタに、大抵の事ならば何があっても大丈夫だと。
 あれだけ自信を持って言い放ったのだ。彼には何かしら、死を払いのける力があるのだろう。だが今の状態を払いのける力があるとは、到底信じられなかった。アストとリタとシェリアが力を合わせた封印よりも、カイの力が上などと、馬鹿げた話があるものか。
 ならば、洞穴の中に封印される事によって、彼は、彼の果たすべき役割は、放棄されてしまうのではないか?
「カイを救出してから、もう一度儀式をやり直せばすむ事でしょう。とりあえず」
「不可能です」
「魔物が次々とやって来るから? そんなの、貴方たちが気合を入れればすむ事じゃない。私だってちょっと疲れているけれど、もう一度くらい何とか」
 ジオールは無言で顔を背けたが、強い眼差しは相変わらずで、リタから逃げるためではなく、何か大切なもののために動いたのだとリタは理解した。
 理解したからこそ黙って、リタはジオールの視線を追う。先にあったのは、体を振るわせながらも必死に立つ子供の姿で――リタは瞬時にジオールが伝えようとした事を知った。
 同時に、知らなければ良かったと後悔した。小さな体を酷使し、大陸を、生まれ育った町を、友を、守るために力を尽くす子を知った今、どうしたって止められない。
「あの子は……アストは、次は何ともならないわね」
「はい」
「あの子は現状を知っているのかしら」
「判りません。ですが、知ったとしても、封印が完成するまでにカイ様が脱出なさると信じ、約束を守られるのではないでしょうか」
 リタは俯きかけた顔を上げた。
 何があっても振り返る事なく、封印の完成を優先すると約束してくれ――そうだ。確かにカイは言った。そして信じろと言った。アストは何も言わなかったが、信じると決意していた。
「私も信じなきゃ、格好つかないか」
 リタはジオールの手を振り払うと、再び手を組み直した。込めた力に呼応して光が強まり、眩しくはなかったが、リタは目を細めた。
「続けるわ」
「ありがとうございます」
「それによく考えたら、アストより私より、貴方たちの方がよっぽどカイを見捨てられないのよね。私が慌てる必要なんてどこにもない」
 リタが唇に笑みを浮かべると、ジオールも同様に微笑んだ。
「おっしゃる通りです。封印完成直前までにカイ様の保護が完了しなければ、その時改めて、お止めしに参ります」
「絶対よ。こんな事で永遠のお別れになってたまるもんですか。私、まだカイに訊かなければならない事があるんだから」
「『訊きたい事がある』の間違いでは?」
 ジオールの言葉に、リタは浮かべた笑みを歪ませる。
「完全に間違いではないわよ。訊かなければならない事だって、いくらでもあるでしょう。私以外に、カイに強く言える人間は居ないんだから」
「おっしゃる事はごもっともですが」
「じゃあ、余計な口を挟まないでちょうだい」
 リタが語気をきつめにして言い切ると、ジオールは黙って肯き、元の任務へと戻っていく。
 限られた人間に対してのみなのか、全ての人間に対してなのかは知らないが、少なくとも自分に対しては間違いなく底意地の悪い男から逃れるように、リタは目を伏せた。
 悔しいが、ジオールの言う通りだ。リタはずっと知りたい事がある。
 知る事が幸福に繋がるとは思えない。とても悲しいか、とても苦しいか、そのどちらかになるだろうと判っている。
 それでも、受け止める覚悟はできている。できたからこそ、リタは今ここに居るのだ。


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Copyright(C) 2008 Nao Katsuragi.