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四章 取引




 ジオールを欠いた状態で司教への報告と地図の変換を終えたエアは、二ヶ月間離れていた自室に戻った。居ない間は誰かが時折掃除をしてくれていたのか、埃が厚く積もっていると言う事はなく、安心して荷物袋を床に投げ出す。
 空気を入れ替えるためか開け放たれていた窓からは、明るい太陽の光が照りつけており、日が落ちるまでまだ充分な時間がある事をエアに教えてくれた。
 だが、今日は仕事も訓練もせずゆっくり休めと、司教と団長双方に言われている。長旅で募った疲れを癒すため、ゆっくりと風呂に入っても良いし、寝台に飛び込んで貪るように睡眠をとっても良いだろう――ハリスやルスターは。
 エアはそれどころではなかった。頭の中は、自らが書き写した地図の事で埋め尽くされている。地図はどこに行ったのか、行方をつきとめる事が、汚れを落とす事や休みを取る事よりも優先すべき事だった。
 埃に塗れた外套や鎧を脱ぎ、身軽な格好になる。その間、いつ、誰ならば地図と手紙を交換できるかを考えていた。
 地図と手紙を交換するには、まずエアが地図を隠した場所を知らなければならない。それを知っているのはエアだけのはずだが、まずはその仮定を捨て去る事とする。そうしなければ推理は進まない。エアは地図と手紙を入れ替えていないのだから。
 誰もが地図の隠し場所を知っていたと仮定しなおす。
 エアが荷物の底に地図を隠したのは昨晩だ。つまりその後、アシュレイの目の前で荷物が暴かれるまでの間、エアの荷物に触れる機会があった者。
 エアは寝台の端に腰を降ろし、組んだ手を膝の上に置きながら、放り投げた荷物を眺めた。
 荷物は荷台の上で揺られ続け、時には地面や床に投げ出される事もあった。埃に塗れているし、生地が痛んでいるところもあり、お世辞にも綺麗とは言えない。
 袋の最も汚れている場所であり、最も大切なものを隠していた底面を眺めていたエアは、そこに自分が知らない異変を見つけた。袋の側面と底を繋ぐ一部分が、中からも外からも判りにくい形で切れていたのだ。
 いてもたってもいられず立ち上がり、エアは部屋を飛び出した。この時分、ほとんど誰も通らない通路を突き進み、宿舎を出る。すれ違う聖騎士たちに会釈で挨拶し、早足で厩へと向かった。
 この二ヶ月間、主たる生活の場と言っても過言ではなかった馬車が収められていた。僅かな期待を胸に荷台に乗り込んでみたが、荷物は何ひとつなく、紙切れ一枚落ちていなかった。
 偶然地図が落ちた、と言う可能性は諦めた方が良さそうだった。だいたいこれでは、手紙が入っていた理由がつかないではない。
 やはり人為的に行われた事なのだ。地図が失われ、手紙とすり返られていた事は――
「やっぱり来ましたね、エア隊長」
 荷台から降りたばかりのエアの目に、長く伸びる影が映った。
 その影は、後ろでひとつにまとめた少し長めの髪を、緩やかな風に揺らしていた。
「……ハリス」
 名を呼ぶと言う行為が、これほど辛いとは思わなかった。影を辿り、影の主を瞳に捕らえる事が、これほど辛いとは知らなかった。
 今まで味わったものとは違う種類の恐怖に支配されながら影の主の表情を探ると、そこには何の感情も存在しておらず、ただ、疑問を色濃く浮かべた瞳がふたつ並んで、エアを見つめているだけだった。
 柱に寄りかかったハリスは、自身の懐をまさぐる。そうして取り出されたものは、エアが捜し求めていた、地図の写しと思わしき真新しい羊皮紙だった。
「どうして」
 どうしてお前がそれを持っているのだと聞きたかった。だが、言葉が上手く出てこない。
 部下たちには何も知られたくなかった。だから、行動を起こす時は誰にも気付かれないように、静かに神殿を去ろうと決めていたのだ。それは弱さだと、信頼を傾けてくれる相手から逃げる行為なのだと、他の誰から責められても構わない。ただ彼らから軽蔑したと責められたくなかったのだ。
「別に、俺は何でもないですよ。家は長男が継ぐからって、俺は小さい頃から自由でした。自由に、聖騎士に憧れて、四年前に入団試験に合格して、晴れて聖騎士になった。そして辞令どおり第十八小隊の所属になり、エア隊長の部下になった。それだけです。ジオールさんのように特別任務を受けていたわけじゃなく、ただ輸送任務をこなしただけの、平凡な聖騎士です」
 エアはハリスに近寄らなければならなかった。そうして、彼の手から羊皮紙を受け取らなければならなかった。
 だが不思議と、体が動かない。ぽつり、ぽつりと語られる彼の言葉を、ただ聞いている事しかできなかった。
「これを見つけたのも偶然みたいなものです。ジオールさんがあからさまに隊長の荷物を気にしていて、おかしいなと思いましてね。気になって見てみたら、底の部分が切れていたでしょう? 多分、最初はジオールさんが切ったんだと思います。それを誰かがどこかに引っ掛けて、瑕が大きくなっていた。そこから羊皮紙の端が見えたんです」
「中を、見たのか?」
「はじめは見る気なんてありませんでしたよ。誰かに宛てたか誰かから来た手紙だろうと思ってましたから、そんなの勝手に見たら失礼じゃないですか。俺は見せてほしければ堂々と正面からお願いして見せてもらいます。だから、落ちたらいけないと思って、奥に押し込もうとしただけなんですよ。そしたら、端の方が少しだけ見えてしまって」
 ハリスは羊皮紙を掴む手に少しだけ力を込めた。
「俺は本物の地図を見てません。でも、二度通った道ですから、もしかしてって思いました。紙の新しさからしてエア隊長が見ていたやつじゃないのはすぐに判りました。門外不出の地図の写しを持っているなんてどう言う事だと考えました。それから、ロメール副団長に呼ばれた事と合わせて、嫌な予感がしたので、ジオールさんの目を盗んでこれを抜き取ったんです。いかにも何かを隠してるって所に何もなかったら怪しいかと思って、代わりに俺がこっそり隠し持ってたライラ様の手紙を入れて。あれなら見つかっても致命的な事にはならないでしょうしね。多少痛い目を見る事になるかもしれないとは思いましたが、実際やっている事がばれた時に比べたら可愛いものでしょう」
「ありがとう」だの「助かった」だの、幾つかの感謝の言葉が口をつきそうになったが、そんな言葉をハリスが望んでいるようには到底見えず、エアは息を飲み込む事で無言を貫いた。
 ハリスはエアを無条件で許そうとしているわけではない。エアの行動の意味と理由を知り、自身で判断しようとしているだけだ。そのためにはエアがロメールに拘束されては不都合であったために、エアを庇うような行動を取ったにすぎないのだろう。
 ハリスに納得してもらえる自信がエアにはなかった。きっとハリスは、エアを軽蔑する事だろう。その手に握る動かしようもない証拠と共に、エアを突き出すべきなのだ。
「そうだ。言い忘れてました。俺の罪を押し付けてしまってすみませんでした」
 ハリスは深く頭を下げる。
「いや。結局不問になったのだから、それはいい」
「俺は自分の罪を告白しました。後で真実を報告に行く事も考えています。だから、隊長も答えてください。貴方の罪の事。どうしてこんなもの持っていたのかを」
 問い詰める口調も視線も穏やかで、エアを責め立てるものではなかった。だが、ロメールに問い詰められた時よりも遥かに息苦しく、遥かに重く、エアの心を抉った。
「ロメール副団長やジオールさんの言った通りなんですか? アシュレイ団長は、ライラ様を神殿から連れ去ろうとしてるんですか? 隊長はそれに協力するつもりで、これを?」
「それは……」
「これがどう言う事だか判ってるんですよね? この国は女神の祈りに支えられているんです。女神を連れ去ったら、この国は滅んでしまう。隊長は、国を滅ぼす気ですか!?」
「違う」
「なのに協力するんですか? そりゃ、あんな綺麗な奥さんが居て、突然神の妻になると言われて、アシュレイ団長は苦しんだと思います。俺が団長の立場だったとしたら、とても耐えられないかもしれない。だからって、同情できるからって、見逃していい事じゃないでしょう」
「ああ、そうだ」
「ライラ様は我慢してるんです。ご自分の運命を受け入れて、国のために尽くしてる。俺に手紙を託すだけだと言うのに、罪の恐ろしさに震えていました。その健気さを知ってもまだ、団長に協力しようと思えますか?」
 エアは言い訳を探した。だが、苦痛で回転を遅めた思考からは、効果的な言い訳も虚言も引きずり出す事はできなかった。
「答えてくれないんですか」
 答えを迫るハリスに、エアが何も答えられないでいると、ハリスは腰に下げた短剣を引き抜いて羊皮紙にあてがう。
「俺はこれを引き裂いたって構わない。部屋に戻って燃やしたって」
「やめろ。それだけは……!」
「じゃあ話してくださいよ。地位とか名誉とか金とか、そんな理由で団長に従ったわけじゃないんですよね?」
 エアは力無く荷台に腰を下ろした。
 静かに、ゆっくりと、息を吐き出す。顔が自然と俯き、両の瞳は行き場を失った手を見つめた。
 地位も名誉も金も、エアには必要なかった。欲したのはたったひとつ――家族と言う温もりだけ。
「許してほしいとは言わない。望むつもりもない」
「隊長!」
「俺はあの日、この国が滅んでも構わないと思った。国があろうとなかろうと、俺は滅ぶんだ。ならば、憎んでも憎み足らないこの国ごと、滅んでもいいと」
 エアは寂しかった。自分以外の誰の気配も無く、出迎えてくれる明かりの無い家が。子供のようだと笑われるかもしれないが、偽りきれない真実の想いだった。
 エアは忘れない。たったひとりの家族だった父を失い、明かりも点けない暗闇の中、自身の膝を抱えていた苦しみを。そんなエアに触れてくれた少女の手の温もりを。エアの手を握り締め共に泣いてくれた優しさを。
 忘れては、生きていけなかった。
「どうして、そんな。何をそんなに、憎んで……俺には、隊長が憎んでいるだけの人には見えなかったですよ」
 掠れたハリスの声は、まるで泣き声のようだった。
「俺に希望を与えてくれたのは、俺から幸福を奪って行った張本人だった。あいつは、アシュレイは、俺に取引をもちかけた。俺がどうしても欲しいものをあいつは持っていた。だから俺は、あいつが欲しくても手に入れられないものを、渡す約束をした」
「それがこれ、ですか」
 エアは小さく肯く。
「これをアシュレイ団長に渡して、それでどうなるか予想した上で、取引に応じたんですか?」
 再び、エアは小さく肯いた。
「アシュレイは間違いなく、大切なものを取り返しに行くだろう」
「判ってるなら!」
「判っているからこそだ。女神たちは、任期を終えると死んでしまう事を知っているから!」
 ハリスは言葉を失った。目を大きく見開いたままエアを凝視し、そのまま動けないでいる。
「お前はそれを知った上で、女神たちに尊敬の眼差しを向ける事ができるか? 俺には無理だった。俺は、ライラ様に同情の眼差ししか向けられなかった。あの人が、国の平穏を守るための、単なる生贄だと知っている今は!」
 ハリスは唇を引き締めたままエアを見下ろした。その視線は苦渋に歪み、短剣を握る右手が重そうに沈んでいく。
「お前は女神たちに言えるのか? 国のために死ねと」
 とうとうハリスは短剣を取り落とした。
 鋭い刃は硬く踏みしめられた地面に突き刺さり、奥の柔らかな土を抉りだす。その様子は、エアの心に刻まれた傷のようだった。
「……すまない。お前の人の良さにつけ込む真似をした。お前はそうして迷うだろうが、俺だったら迷わず言っていただろう。本人に面と向かって言えなくとも、心のどこかで願ったはずだ。俺たちの幸せのために、犠牲になってくれてありがとう、と」
「エア隊長」
「だが、今は言えない。願えない」
 願う相手こそが、誰より失いたくない、エアの幸せの象徴であるから。
 震える手に、リリアナの温もりが蘇る。闇色に染められた脳裏に、リリアナの微笑みが。
 懺悔にも似た告白をする事で、エアの中に淀んでいた迷いが晴れていくようだった。
 もしリリアナがエアを忘れ、砂漠の女神として誇り高く生きていたとしても、エアはもう迷わないだろう。彼女が死を望まない限り、彼女の腕を引いて、どこにでも逃げるつもりだった。
 エアは国の平穏よりも自身の幸福を望み、自身の幸福よりもリリアナの幸福を望んでいるのだ。
「隊長たちがやろうとしている事は、法によれば罪です」
「そうだ」
「だけど、人の命を救う事でもある」
「奇麗事で飾らなくていい。自分の女を取り戻したいだけなんだ」
 エアが自嘲気味に微笑むと、ハリスは僅かに視線を反らした。
「ただ、これだけは言っておく。そのために国を滅ぼすつもりはないと言う事を」
「……本当に?」
「一年、数ヶ月、いや、数日でもいい。女神としての任期を終えるよりも早く、神殿から連れ出す。それだけならば、国は滅びない。神の封印は、そこまで脆くないのだから――だから見逃してくれと言う権利は、俺にはないが」
 エアは立ち上がった。ゆっくりとハリスに近付き、ハリスが取り落とした短剣を拾いあげる。
「すまなかった」
 刃に付着した土を掃い、ハリスの腰に吊るされた鞘へと戻した。
 その間、動けないでいるハリスの手から、エアは羊皮紙を抜き取る。
 ハリスは抗わなかった。羊皮紙を守ろうとも、処分しようともせず、エアの手に返してくれた。
「俺を隊長と慕ってくれたお前たちを裏切ってすまなかった。お前に余計な負担をかけてすまなかった……謝って済む問題では、ないのだろうが」
 今なら少しだけ、アシュレイの気持ちが判る。
 エアはリリアナを奪われたばかりの自分に「忘れるといい」と言ったあの男を、心の底から恨んだ。だと言うのに今のエアは、ハリスに忘却を願っていた。
 エアと出会った事を、エアを隊長として旅した二ヶ月間を忘れてしまえば、ハリスの胸に広がった苦痛は消えるだろう。それはエアとの思い出も消えてしまう事になるが、彼ならばエアではない誰かと、新たな、優しい思い出を、いくらでも築いていけるはずだ。
「隊長」
 ハリスの横をすり抜け、厩を出ようとするエアの背中に、ハリスの声がかかる。
「隊長の、望みは……?」
 口調は弱々しく、問いかけの形を取っていた。だが彼の眼差しが見せる、労わりの奥に巧妙に哀れみを隠そうとする優しさは、彼が全てを悟っている事をエアに伝えた。
「お前の想像する通りだ」
「判りません」
「嘘を吐け」
「判ってはいけないんです。判ってしまったら、俺は」
「こんな馬鹿な真似をする俺を許してしまう、か?」
「――!」
 ハリスは息を飲み、苦痛に耐えるかのように、両の拳を握り締めた。
「俺たちは自分たちが何をしているかを知っている。だから、許されようとは思わない。お前の好きにすればいい。馬鹿にしても、忘れたって――」
「忘れませんよ」
 ハリスは思考に耽る時間を全く使わず、エアが与えた選択肢のひとつを、即座に取り消した。
「忘れません。知ってしまって、見逃してしまった以上、俺も罪の欠片くらいは背負います」
「お前がそこまでする必要はない」
「ありますよ。でも無くてもいいです。俺が背負いたいから背負うんです。だから約束してください。隊長は、隊長の大切なものを守るって。そしてできたら、その大切なものの片隅でいいんで、俺も置いておいてください」
「……ハリス」
 目の前で柔らかく微笑む男を見下ろして、返さなければならない言葉があると言うのに、エアは名前を呼ぶ以外に何も言えなかった。今口を開いてしまったら、出てきてはならないものが溢れてしまいそうであったから。
「ちなみに俺は、この国に大切なものが沢山ありますし、この国自体、失ったり傷付いたりしてほしくないくらい好きなんで、そこんとこもよろしくお願いします。そしてもし隊長が約束を破ったら、俺は隊長を追います。追って、捕まえて、犯した罪を償わせます」
 柔らかな口調と優しい微笑みでごまかしているが、この男は自分を脅迫しているのだと、エアは瞬時に悟った。
 これほど重苦しく、それでいて心安らかな脅迫が、あって良いものだろうか。
 エアはため息を吐いた。不思議と、口元には笑みが浮かんでいた。
「すまない」
「判ってないな、隊長は。俺が欲しいのは謝罪じゃないですよ」
「――ありがとう、ハリス。約束する」
 エアが言葉を選びなおすと、ハリスは満足げに肯いた。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.