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四章 取引




 窓を叩く音が小さく鳴る。
 外部から差し込んでくる光を一切遮断し、部屋の中心に置かれた燭台に灯した小さな火を唯一の光源とした薄暗い部屋の中、時が来るのを待ち続けていたエアは、その音に反応して俯きがちの顔を上げる。
 そして自身の胸元に触れた。心理的には、服一枚隔てた向こうにある、大切な羊皮紙を。
 瞬きをする間に決意を固めると、静かに立ち上がると窓に歩みより、窓を開ける。
 窓の外に立つ人物の黒髪が、月明かりを浴びて怪しく輝いた。
 アシュレイはエアに向けて微笑むと、何も言わずに窓枠に手をかけて部屋の中に入り込む。素早く窓を閉めると小さく咳払いをし、持ち前の美声をようやく響かせた。
「何を驚いた顔をしている」
「本当に来るのか疑っていたからな」
「私は必要のない嘘は吐かない」
 穏やかな笑みをそのままに、アシュレイは平然と言ってのける。だからこそこの男は底が判らず気味が悪い、とエアは考えていた。
 エアが元々座っていた寝台に腰を下ろすと、アシュレイは「失礼する」と断りを入れてから、部屋の中にひとつだけある椅子に腰を下ろす。意図的にアシュレイと向かい合わないように座ったエアとは違い、しっかりとエアを視界に捕らえられる場所を選んで座っている。
「普通、団長自ら人目を忍んで部下の部屋に来るか?」
「だから裏をかけるのだろう? ロメールたちはすっかり私を信じたようだが、信じたふりをしただけかもしれない。他にも私たちを疑う人間は居るかもしれない。用心に越した事はない」
 確かに用心は重要だとエアも思う。だが、優雅な笑顔と毅然とした態度で嘘を並べ、自分を疑う人間をすっかり騙したこの男に、必要な事かどうかは謎だった。
「そうだ。ジオールの事だが、来月の頭付けで第十一小隊に異動させる事となった。異論は無いな?」
 エアは一瞬戸惑った後に頷いた。
「ああなった後では、お互いやり辛いからな。仕方が無いだろう」
「不満そうな口ぶりだが?」
「真面目を絵に描いたような男で、一番頼りやすい部下だった。今でも、騙されていたのは冗談だったんじゃないかとどこかで思ってる」
 嘘でも冗談でもない事は明らかであったが、それでも信じたいと言う想いがエアの胸の中に残っていた。ある意味では一番判りやすい男でもあったから――彼がエアに寄せてくれた信頼が、全て嘘であったとはどうしても思えないのだ。
「どうやら彼には色々複雑な事情があるようだ。詳しい事は知らないが、どこぞの貴族のお家騒動に巻き込まれかけ、そこから彼を救い上げた者がロメールらしい。ロメールは彼を養子にしようとしたが、迷惑をかけるわけにはいかないからと断ったそうだ」
「そうか。ジオールらしいな」
 エアはアシュレイに気付かれないよう、隠した口元に笑みを浮かべた。
 おそらく、エアとジオールが共に任務をこなす事は、もう二度とないだろう。彼が新天地で彼らしく生きていく事を祈りながら、エアは静かにため息を吐き、懐から羊皮紙を取りだした。
 その動きに合わせるように、アシュレイも羊皮紙を取りだす。砂漠の神殿への道が記された地図を。
「なぜ、言わなかった」
 誰にも気付かれてはならない取引は素早く終わらせるべきだ言う事も、互いの手の中にある羊皮紙を交換すれば取引は完了する事も、エアは知っていた。だが、取引を成立させる前に、それだけはどうしても聞いておかなければならなかった。
「何をだ?」
「とぼけるな。決まってるだろう。俺の取引相手が、お前だった事をだ」
「ああ」
 アシュレイは再び温和な笑みを浮かべた。
「君は君からリリアナ様を奪った私を憎んでいるだろう。だから、取引相手が私だと知れば、拒否するかもしれないと考えた」
「まさか。腸が煮えくり返る思いをしても、我慢するさ。他に手はない」
「無用な心配だったか。失礼した」
 エアは真面目な顔で謝罪の言葉を口にするアシュレイから目を反らした。
 口ではそう言ってみたが、本当の事はエアにも判りかねていた。アシュレイに取引を持ちかけられたあの日、自分の行動がアシュレイを救う事になるのだと判っていたら――エアは別の道を探そうとしたかもしれない。砂漠の神殿への道が前人未到ならば、最初のひとりになってやろうと無茶をしたかもしれない。
 そこまで自分の事を判っていながら、アシュレイの言葉を素直に受け止められないのは、単なるアシュレイへの反発心だった。
「そうだった。君は私を恨んでいるだろうが、それ以上に同志なのだったな」
 言葉と共に淀んだ暗い感情がアシュレイの身から溢れ、辺りに漂いはじめる。
 それはエアもよく知る感情であり、通常ならば恐れおののくべきなのだろうが、不思議と心地良かった。
「君にはすまない事をしたと思っている。私は君と同じ痛みを知りながら、悲しみに暮れる君を慰める事もせず、余計に傷付けるような真似をしたのだから」
「今更謝る気か。気持ち悪い」
「確かに今更だ。私は何も知らない君を賭けの対象にしたのだから」
「……賭け?」
 エアは振り返り、細めた眼差しで小さく揺れる火を見つめるアシュレイを窺った。
「賭けと言うよりは、言い訳かもしれないな」
「は?」
「おかげで今はもう、罪悪感など微塵も抱いていない。恩ある上司を聖騎士団長の地位から追いやった事も、私に心酔する者たちを欺く事も」
 アシュレイは手にした羊皮紙を机の上に置くと、慈しむように優しい手つきで羊皮紙を撫で、柔らかく微笑む。
 何気ない動作と表情だった。先の台詞を聞いていなければ、優雅だとの感想を抱けたのだろう。だがエアが今の彼から感じ取れたものは、狂気以外の何ものでもなかった。
「ライラを奪われた夜、司教様は幾度も謝罪しながら、私にこうおっしゃった。エイドルードはこれまで、人の妻である女性を指名した事など、ただの一度もないのだと」
 アシュレイは狂気を秘めた紫水晶の瞳をエアに向けた。
「君たちの事も気に病んでいたようだ。司教様がお告げを受けた日は、君の十六の誕生日の翌日。君たちは正式な夫婦にはなっていなかったようだが、婚約はすでに成立していたそうではないか?」
「それが、なんだ」
「エイドルードは人のものを無理矢理奪った。私たちがエイドルードを恨むは当然で、奪い返す事を望むも当然だ。だから私は思ったのだよ。もしかするとエイドルードは、女神を奪われたがっているのではないか、と」
 紡がれた言葉はあまりに突拍子もなく、エアはしばらく彼の言葉を受け入れられなかった。
「思いはしたが、それは詭弁だと考え直した。神に逆らう願いを抱く自分自身を、正当化したいだけなのだと否定した。その時は、な」
 エアは勇気を振り絞り、アシュレイの瞳を見つめ返す。
 狂気に飲み込まれやしないかと恐れていたが、それは杞憂だった。彼が内包する狂気は、エアにとって心地良いほどだったのだ。
 当然か、と、エアは心の中でひとりごちる。
 まともな人間ならば、神に逆らおうなどと考えないだろう。つまりここまで来た時点で、エアもアシュレイと同じなのだ。
 同じものに支配されているからこそ、ここまで来られたのかもしれない。
「そして私は君に会った。私と同じだけの喪失を強制され、私と同じだけの呪いを抱いた君を見た時、あるいは本当に神の意思なのかもしれないと考えはじめた。ならば、たとえ不可能に思えるほど困難だったとしても、神は何らかの道を与えてくださるに違いない――」
「だからお前は、俺に奇跡を強いた」
「そうだ。そして君は奇跡を起こした」
 アシュレイは立ち上がり、エアに歩み寄る。
 手にした羊皮紙をエアの目の前に差し出し、見た目は美しいが歪んだ感情を浮かべた笑みを見せる。
「本当に女神を守りたければ、エイドルードは私たちを再会させなければ良かった。いや、そもそも出会わせなければ良かった。金や地位を与えられる事で愛する人を諦められる人間から奪えば良かった。はじめから奪う必要のない、天涯孤独の娘を選べば良かった」
「……」
「そうは思わないか? エア・リーン。私たちは神の意思に従ったのだ。けして罪人ではない」
 エアは無言でアシュレイが差し出してきた羊皮紙を受け取る。
「お前がそれで救われるなら、そう信じればいい。けどな」
 エアは自分が写しを作った森の神殿への地図を、怒りや不愉快などの想いを全て込め、アシュレイに叩き付けた。
「俺は自分の意思でここまで来た。胸糞悪い神様に逆らいたくて、罪人になりたくて、ここまで這い上がって来たんだ。エイドルードなんぞの意思に従ったつもりはこれっぽっちもない!」
 叫びは沈黙を生む。耳が痛むほどの、音の無い世界を、部屋の中に呼び込む。
 その中で、エアはアシュレイを睨みつけた。エイドルードへ抱くものと同じ、もしかするとそれ以上に深い憎悪と失望を込めて。
 アシュレイはエアからリリアナを奪った人物だった。だが、エアと同調できる唯一の同志でもあった。
 認めたくはないし認めるつもりもないが、エアは心のどこかで、彼が理解者である事を望んでいたのかもしれない。しかし今、その望みがいかに無意味でくだらないものであるかを知った。
 エイドルードを憎む同志とアシュレイは言ったが、結局この男は、本当の意味でエイドルードを憎んでは居ないのだ。妻を奪われた事も神の試練程度にしか考えておらず、神に従う事こそを喜びと感じているのだ。そうでなければ、神の意思に従う事を言い訳になどできまい。
 だからと言ってエアは、彼を責める気は無かった。彼はエアと違い、元々聖騎士になる事を望んでいて、敬虔に神に仕えていたのだろう。はじめから生き方が違うのだ。
「君がそれで救われるなら、そう信じればいい」
 アシュレイはエアが口にしたものと全く同じ意味の言葉を紡ぐと、窓へと近付いた。
 窓を開けようと手をかけ、振り返る。
 蝋燭の炎を映した瞳が、闇を広げていくかのようだ。
「君とこうして会うのもこれが最後だ。明日からは何事も無かったように、互いに聖騎士としての任務を果たそう。そして一年後の今日、それぞれが思う場所に旅立とう」
「……ああ」
 掠れ声の返事を受け取ると、アシュレイは素早く窓を開けて部屋の外へと身を躍らせる。
 エアは閉じられた窓に歩み寄って鍵をかけると、受け取った羊皮紙を懐に仕舞い込み、寝台に身を沈めた。
 あと、一年。
「あと一年だ、リリアナ」
 ようやく会える。思い出の中にしか居ない愛しい人に、生きる理由に。
 胸元を抑えながら、エアは歪んだ笑みを浮かべる。
 待ち望む日までまだ長い時が必要だと言うのに、心は驚くほどに安らかだった。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.