四章 取引
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見るとそこには眉間に深く皺を刻んだハリスが立っており、その後ろに青褪めた顔をしたルスターと、ハリスを止めようとしたのか彼の肩に手をかけたジオールが立っている。
ハリスはジオールの手を振り払い、沸き目もふらずにロメールの元に歩み寄った。普段よりも足音がうるさいのは、エアの気のせいではなさそうだ。
ロメールとアシュレイの間に、長旅で薄汚れた袋が置かれる。
どすり、と重い音がした。
「申し訳ありません、扉の向こうから、少々お話を聞かせていただきました」
「ハリス……」
「語り合うよりも確かめた方が早いでしょう。こちらが、エア隊長が旅から持ち帰った荷物の全てです。ご確認ください」
ハリスはロメールに対して静かに怒っているようだった。平静を勤めようとしてそれができず、表情や仕草に苛立ちが現れている。それはロメールがエアを証拠も無しに疑っているからだろうと考えてしまうのは、自惚れではない自信がエアにはあった。
彼がエアのために腹を立ててくれる事は、信頼ゆえ、なのだろう。
言葉にならない感情が湧き上がり、エアは目を細めた。歪んだ視界でもハリスを見るのは辛く、僅かに目を反らす。
エアはハリスの信頼に応えられる人間ではない。ロメールの言っている事は概ね事実で、神に仕える者たちやこの大地に生きる者たちを裏切るために、聖騎士団に入ったのだから。
これは、罰なのだろうか。
部屋の中心に置かれた自身の荷物を見つめながら、エアは思う。
エアを信じる者の行動によって、エアの罪が暴かれようとしている――彼を密かに裏切りながら、彼の隊長であり続けた自分への罰としては、何より効果的なものに思えた。
「ジオール」
ロメールは、エアの部下のひとりである青年の名を呼んだ。
「はい」
名を呼ばれた青年は、真っ直ぐな返事を返すと、ロメールのそばに寄る。荷物の前に立ったままのハリスをどかし、エアの荷物に手をかけた。
「ジオールさん!」
「ジオールさん、貴方は……」
「エア隊長に不審な点がないか調査する事も私の任務だった。黙っていた事を不愉快に思うならば、心から詫びよう」
名を呼ぶ仲間たちに振り返る事なく、ジオールは淡々と答える。
「二ヶ月も見てたら、判るでしょう! エア隊長に不審な点なんかなかったじゃないですか!」
ジオールはゆっくりと作業を続けた。エアの袋の中に入っている荷物を、順々に取りだしていく。いくつもの着替えや財布、剣を磨く打粉、未使用の羊皮紙、ペン、インク。どこにでもあるありふれだものが次々とテーブルの上に無造作に並べられていった。司教から預かった迷宮の地図だけは別格で、優しい手つきで取り出し、大切そうにテーブルの隅に置かれる。
「ハリス、ルスター。立場上私は君たちとほとんど常に行動を共にしなければならなかった。故に旅の最中にいくらかあった、エア隊長がひとりになる機会に、エア隊長を見張る事はほとんどできなかった。私自身、不審な行動をとる事ができなかったからな。だから決定的な証拠と言えるものを掴めてはいない」
「じゃあ……」
「しかし森の神殿で過ごしたあの晩、池のそばで交わされたライラ様とエア隊長の話を聞いた」
エアはいつの間にか俯いていた顔を上げた。
「エア隊長。過去に想いを馳せ悲しみにくれるライラ様に、貴方はこうおっしゃった。『もし、貴女の前の夫が、貴女を迎えに来たとすれば――』」
「それは単に、ライラ様をお慰めしようとしただけだ」
「二ヶ月間行動を共にしていれば、エア隊長は充分思慮深く、思いやりのある方だと判りました。そんなエア隊長が慰めの言葉として口にするに、ありえない仮定は無責任がすぎ、応しくないと私は思いました。もっとも、ありえる仮定として口にしたとすればあまりに軽率で、隊長らしくないとも思ったのですが」
ジオールの強い眼差しが、エアの揺れる眼差しを真っ直ぐに貫く。
「貴方はこうもおっしゃった。『貴女のような女性たちを犠牲にして成り立つこの国こそが、誤りなのではないか』と。エイドルードを疑うなど、聖騎士の行いとは思えません」
「あれは……確かに失言だった。ライラ様をお救いできれば、神も許してくれようと思っての事だったが、偽りの言葉ではライラ様のお力にはなれなかったのだから」
ジオールは全ての荷物を出し終えた。
当然、その中に彼やロメールが求める荷物はない。ここで、ロメールたちの疑いは杞憂だったのだと話が片付くのを祈ったが、祈りは神に届かなかった。
「エア隊長。私の記憶では、貴方がこの旅の最中に手紙を出した事はありません。何かを記した事も、なかったはずです。ですがこの羊皮紙、出発前から一枚減っておりますね」
「それはっ……旅の途中で故郷に手紙を送ろうとしたのだが、任務中に私用の手紙を送るのは問題かと、出さずに捨てただけだ」
「そうですか。本当にそうならば良いのですが」
彼は当然のように、袋の底に手をかけた。
「金貨、ですか」
ジオールはひとつめの底をめくり、そこに隠してあった数枚の金貨を取りだす。
「財布を落とした場合等、金が足りなくなった時の事を考えて、だ。幸いにも使わずに済んだが――それの事は、お前も知っているだろう」
「はい。そうでしたね」
揺れる炎の明かりを浴びて、テーブルの上に出された金貨が鈍く光る。
ロメールの表情が曇った。エアの荷物の中に何もなかった事に驚き半分、焦りが半分と言ったところだろう。当然だ。ここで何も見つからなければ、今度は彼が窮地に陥るのだから。
「もうよろしいかな?」
笑みを浮かべたアシュレイの問いかけに、ジオールは否と答え、腰に吊り下げた剣へ手を伸ばした。
鞘から抜いたのは、戦いの時に主に使う長剣ではなく、長剣を失った場合や接近戦で使うための短剣。その動作の落ち着きぶりからも、乱心して切りかかってくるわけではなさそうだ。
アシュレイはジオールに向ける視線を、不審者に向けるものへと変えた。ルスターは明らかに動揺してハリスの腕を掴み、ハリスは長剣の柄に手をかけている。
エアは――傍から見れば冷静にその場を見守っているように見えるのだろう。しかし内心は、この場の誰よりも動揺していた。
「何をしている? ジオール」
「エア隊長は用心深い方ですから。おそらく、底は二重ではありませんよ」
二ヶ月と言う時間は短いようで長かったようだ。エアもジオールも、他者との係りをあまり得意としない人種で、それほど慣れ親しんだわけではない。だが二ヶ月もあれば、わざと偽っていない限り、相手の性質を読み取るには充分なのかもしれない。
ジオールは短剣を誰に向けるでもなく、袋の底に向けた。刃先で器用に糸を切り、一見しても判らないよう巧妙に縫いつけたもうひとつの底を露にしようとした。
視界の端に映るアシュレイを探し、エアは息を吸う。それから、扉までの距離を目算で計る。
間もなくジオールの手によって地図の写しの隠し場所が暴かれるだろう。もう逃れられないと、エアは確信した。
計画を断念しないためには、この部屋から誰も出さず、余計な事を知ってしまった人間を始末するしかないだろう。部屋の中に居るのはエアとアシュレイを除けばたった四人で、聖騎士団で最も剣技に優れたアシュレイと武術大会に優勝できるだけの腕を持つエアが組めば、それは容易い事に思えた。後始末はどうしようもないので、アシュレイと共にすぐさまセルナーンを出、それぞれ目的地へ向かうしかない。
エアは視線を扉から部屋の中に戻した。途中、ハリスとルスターが視界に入り、軽く唇を噛んだ。
「これは」
剣に手を伸ばせずにいたエアは、ジオールが取りだした真新しい羊皮紙を凝視した。
袋の底に隠したために他の荷物に押し潰された羊皮紙をゆっくりと開いていくジオールを見つめながら、エアは強烈な違和感に襲われていた。それから、「違う」と言う予感に。
予感は的中した。開かれた羊皮紙には、エアが簡素化して記した地図が描かれていなかった。代わりに、エアではない他の誰かの筆跡による文章が書かれている。
「ライラ・セルダ……様……?」
掠れたジオールの声が紡いだ名に、いち早く反応したのはアシュレイだった。アシュレイは素早くジオールに歩み寄り、彼の手から羊皮紙を奪い取る。そして葛藤しながらも、目を通す事はなく、たたみ直してから握りしめた。
あれは、いったい何だ?
なぜ、あるはずのものが消え、ないはずのものがそこにある?
「エア・リーン」
アシュレイは厳しい声音で、エアの名を呼んだ。
「手紙にしろ、伝言にしろ、女神は外部と連絡をとる事を禁じられている。知らないわけはあるまいな?」
「も……申し訳ございません」
エアは咄嗟に謝罪の言葉を口にしていた。
「ライラ様が故郷に思いを馳せ嘆いておられたのを見て、思わず……手を差し伸べてしまいました。お気持ちを伝えるくらいならば、許されても良いと」
戸惑いと混乱に支配された思考の中から、エアが咄嗟に取りだせた言葉はそれだけだった。まともな言葉が取り出せただけでも充分立派だと、自分を褒めてやりたいほどだ。
「それすらも許されない高貴な存在こそが、女神なのだ」
「……はい。申し訳ございません」
エアは深く頭を垂れた。
もちろんエアは手紙の事など知らない。自分でない誰かが、地図を記した羊皮紙を抜き取り、代わりに手紙をしまいこんだのだ。その人物はおそらくアシュレイではないのだろう。
知られてはならない事実を、別の誰かに知られている。この場を逃れられたとは言え、いつ、誰に追い立てられるか判らない。
いや、そんな事はもうどうでもよかった。問題なのは、地図を失ってしまっては、アシュレイとの取引が成立しなくなってしまう事だ。
あらゆる罪を背負う覚悟で欲したものが、手に入らなくなる。それはエアにとって絶望だった。
「そんな……」
エアが必死になって内に押し隠した絶望を、ためらわずに表面に出しているのはジオールだった。彼はそれ以上袋を調べても何もない事を確認し、それでも諦めがつかないのか、大股でエアに近付いてくる。エアの体を探り、どこかに隠していないかを確かめるためだろう。
もちろんエアは地図を身に付けてはいない。ジオールの表情に浮かぶ絶望がより濃くなっていった。
そんなジオールに見せ付けるように、ハリスも自身の荷物を床の上に広げる。ルスターも、ハリスに続いた。当然、その中にも地図はなかった。
「納得したか?」
アシュレイの言葉に、ジオールもロメールも返す言葉がなかった。弱々しい声で「失礼しました」と謝罪し、頭を下げる事しかできないでいる。
「ロメール。未来ある罪無き若者を疑うような真似は、聖騎士として誇れる行為ではない」
「……おっしゃる通りです」
「だが、貴方の事だ。私やエア・リーンに悪意を抱いての事でなく、聖騎士団の未来に憂いを抱いての事だろう。故にこの度の件は不問とする」
ロメールは静かに顔を上げた。
「そもそも、私が貴方に心労を抱かせるような態度を取った事に原因があるのだろう。私自身、その点に関しては反省点がないとは言えない。エア・リーンも、部下に疑いを抱かせる不遜な発言を口にしたは事実であるし、こうして別の罪を犯している」
アシュレイは羊皮紙を胸のあたりまで持ち上げた。
「いえ、アシュレイ様。それはなりません。それでは示しがつきますまい」
「無かった事にすればいい。私も、エア・リーンも、彼らも、貴方の部屋には来なかった。それを事実にしてもらえないだろうか」
ロメールの机に置かれた燭台に歩み寄ったアシュレイは、手にした羊皮紙で蝋燭の炎を撫でた。さほど時を待たずして羊皮紙に火が移ると、瞬く間に燃え尽きていく。
罪を問わない代わりにこちらの罪も問うなと、アシュレイは無言で訴えていた。静かに、しかし誰にも逆らえない力でもって。
全てが灰となって姿を消すと、アシュレイはロメールたちの横を通りすぎ、扉に手をかけた。誰もがそのまま部屋を出て行くかと思ったが、彼は何かを思い出したように顔を上げ、振り返る。
「四年前、森の女神ライラ様がかつて私の妻であった事を、一部の聖騎士団の者が知ってしまった事がある。ライラ様が女神になられたのと、私が聖騎士団長に就任した時期がほぼ同時であったせいか、当時は悪い噂が流れたものだ。私が妻を売り、その代償として聖騎士団長の座を手に入れた、と」
「心無い噂です。貴方はいずれ聖騎士団長になられるだけの力をお持ちでした」
「いずれはそうだったのかもしれない。だが、二十半ばの若造のうちに聖騎士団長になる必要はなかった。妻を売ったつもりはないが、その代償に聖騎士団長の地位を与えられたのは間違いないのだろう。望んでいたわけではなかったが」
「ですが……!」
「貴方は私を疑わなかった。それだけではなく、噂を語る者を一笑し、説き伏せてくれた。私は貴方に救われたのだ」
アシュレイが微笑みかけると、ロメールはその場に跪き、深々と頭を垂れた。硬く目を伏せ、涙を堪えているように見える。
「それから名前を知らずに申し訳ないが、当時、若い騎士のひとりが私の名誉を守ってくれたとも聞いている。君だったのだろうか?」
ジオールもまた、ロメールに習って跪いた。アシュレイの問いに肯定の言葉を返す事はなかったが、態度で全てを語っていた。
「ありがとう」
最後にそれだけ言って、アシュレイは部屋を出て行った。
立ち尽くすハリスやルスターにアシュレイの後に続くよう指示すると、エア自身も荷物をかき集めて部屋を出る。
ロメールも、ジオールも、けして顔を上げようとしなかった。最後にエアは部屋を出て、扉が閉まるまでは。
Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.