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四章 取引




「帰ってきましたねー」
 二ヶ月前まで毎日見ていた街並みを眺めながら、ルスターが言った。いつもと同様に振舞っているつもりのようだが、誰の目から見ても明らかに表情は生き生きとしており、声が明るい。故郷に戻ってこられた事は素直に嬉しいのだろう。
 エアはルスターと違って王都近辺の出身ではないし、聖騎士団に入団してからまだ一年強しか過ぎていないため、セルナーンで暮らした時間は長いとは言えず、街自体に強い思い入れがあるわけではない。だが不思議と、二ヶ月ぶりに大神殿を目にした時、嬉しい気持ちになった。中天に上る陽の光を浴びた真白き神殿は、眩しくも美しい。
 田舎育ちであるエアがはじめてセルナーンに来た時は、不自然なほど平らに整備された道や、延々と続く商店、そこに賑わう人々に圧倒されたものだが、すでに馴れてしまったようだ。懐かしさが胸に溢れ、全身を支配していた疲労はどこかへと吹き飛び、穏やかな気持ちが胸中に満ちていった。
「ジオール、ご苦労だったな」
 エアは御者台に座るジオールに近付き、労いの言葉をかける。
「いいえ。普段ハリスにかけている負担に比べれば、この程度」
「……そうだな」
 エアは振り返り、行きに比べてほとんど荷物のない荷台の中から、ハリスの姿を探した。
 少ない荷物に背中を預け、ほとんど動く様子は無い。寝ているのだろうとエアは考えた。よく考えてみれば、もし起きていたならば、彼が最初に故郷に辿り着いた喜びを述べるはずだ。
「ハリス。そろそろ着くぞ」
「あ、っは、はい!」
 声をかけると、ハリスは慌てて背筋を伸ばし、振り返る。いつの間にか目前に迫った大神殿を眺め、目を細めた。
「第十八小隊長エア・リーン以下三名、森の神殿への物資補給の任よりただいま帰還した」
 大通りを抜け、大神殿へと至る門の前に到達すると、エアは馬車を降りて門番に伝えた。門の左右に構えていた彼らはエアたちを優しく迎え入れ、門を開けてくれる。
「隊長、俺たちは馬車を置いてから行きますので、先にアシュレイ団長へのご報告に、どうぞ」
「頼んだ。団長への報告の後は司教様への報告があるはずだから、お前たちは大聖堂の前で待っ――」
「エア・リーン殿」
 言葉を途中で遮られ、内心不愉快に思いながらも、エアは感情を表に出さずに振り返った。
 振り返ったエアの視線の先に立っていたのは、顔に見覚えはないが聖騎士団員の制服と鎧を纏った青年だ。
 エアよりいくつか年上だろう彼の眼差しは、何かを待っていた。返事を待っているのだろうか? と自分の中で結論付けたエアは、応えようと唇を開きかけたが、青年の声に再度遮られてしまう。
「ご案内いたします」
「いや、案内などされずとも、ひとりで行ける。二ヶ月離れていたとは言え、大神殿内の主だった構造を忘れるわけがないだろう」
「いえ、ご案内するよう言われておりますので。お三方も後ほどいらしてください」
 エアが部下たちに振り返って目配せすると、ルスターは戸惑い気味に、ハリスは神妙な顔つきで、ジオールはいつもと変わらない無表情を見せながら、小さく頷いた。
「すまないが、私の荷物を」
「隊長、早く行った方がいいですよ。彼、睨んでます」
 こっそり耳打ちするハリスの口ぶりから、エアの背中の向こうに立つ青年がただならぬ雰囲気を発している事を悟ったエアは、黙ってハリスに従った。
 青年は素早く歩き出す。長旅から帰ってきた者の体を労わるつもりはないらしい。時折周りに視線を投げる様子と合わせると、まるで人目に付きたくない様子だ。
 後ろめたいのだろうか。一瞬そう考えたエアだったが、彼がこの状況を見られる事に対して後ろめたく思う意味が判らなかった。実は彼は案内役などではなくライラの元夫で、できるだけ素早く、周囲に悟られないよう取引を成立させたいと望んでいる可能性も考えたが、これまで全てアシュレイを挟んできたと言うのに突然顔を見せるのは疑問だ。
 青年は終始無言、早歩きのまま、アシュレイの部屋の前に到達した。しかし彼は、アシュレイの扉ではなく、その手前にある別の扉を開き、半ば押し込むようにエアを部屋の中に入れた。青年自身は入り口を潜らず、すぐに扉を閉める。
 突然の事にエアは動揺した。なぜ、自分はアシュレイのではない部屋に通されなければならないのか。この部屋は確か――
「エア・リーンだな」
 エアは自身の名を呼ぶ声に向き直ると、五十近い痩身の男が座っていた。
 部屋の主、ロメール・イルタス副団長だった。鍛えられた体躯と意志の強い眼差しが、実年齢よりいくぶん若く見せるこの男は、いかにも聖騎士団と言った真面目さと敬虔さを併せ持っており、他者への厳しさを持ちつつも悪い噂はほとんど聞かない人物だ。
「どう言う事でしょうか。帰還後はまずアシュレイ・セルダ団長に報告をするよう、出立前に言われております」
「団長への報告前に、聞いておきたい事があったのだ」
「……何でしょう」
 エアは直立したままロメールに問うた。
 ロメールは座ったまま、値踏みするような視線でエアを睨み上げる。
 値踏みする、との言い方は、少し違うかもしれなかった。彼はエアの中に何かを探しているようだった。
「単刀直入に聞こう。君は二ヶ月前、森の神殿へ向けて発つ前に、アシュレイ・セルダ団長から何かを頼まれなかったかね?」
 突然の問いの意図をすぐに理解できず、エアは瞬きするだけの時間、答えに詰まった。
「おっしゃる意味が判りません」
「本当かね。君は小隊長に任命される前日、アシュレイ団長の部屋を訪れたそうではないか」
「それは事実です。武術大会に優勝した件についてお褒めのお言葉をいただきました。それに何か問題でも?」
「褒め言葉をもらうだけにしては、滞在時間が長かったそうだが」
「……これは尋問でしょうか」
 突然の切り返しに、ロメールは戸惑う様子もなく、鋭い眼光でエアを射抜いた。
「質問だ。今のところは、な」
 低い声がエアの問いに答える事で、広い部屋の中に重い沈黙が垂れ込める。
「今のところは質問だ」と言われても、すぐにでも尋問に移る意向があるとの意味にしかとれない。どうやら彼は、何かしらの疑いを抱き、その疑いに対して確信に近いものを掴んでいるようだ。そしてエアから何かを引きだす事で、確信を得ようとしている。
 彼が何を知ろうとしているのか、エアには判らなかった。エアには知られてはならない秘め事があるにはあるが、彼が求めているのはそれではない、と直感的に思ったのだ。
 語り口から予想するにアシュレイの事だと思われるが――そう思わせる絡め手を使い、やはりエアを狙っている可能性は無ではない。
「優れた剣士であられるアシュレイ団長に、私の方から幾つか質問をさせていただきました。団長の剣技は剣を使う全ての者の見本となるべきものだと思いましたので。団長は向上心を持つ団員を無下に扱う事はなされません。快く私の話を聞いてくださいました。故に話が長引いてしまった事は認めます」
 淀みなく、堂々と、エアは言い切った。ロメールの視線に負けじと、強い視線を返す。
「虚偽は罪となるぞ、エア・リーン」
「承知しております。故に、私は真実のみを答えております」
 真実を隠す事は多々あれど、これほどまでに胸を張って嘘を言い切ったのは初めての経験で、エアは笑いたい気分になってきた。
 しばらく状況が膠着し、無言のまま睨みあう状態が続く。だが、ロメールは引いたわけではなかった。後ろめたいものを持つ人間にとって、沈黙の重さがどれほど苦痛であるかを知った上で、エアを追い詰めようとしているのだ。
 彼の望みは何か。視線を交錯させるだけでは、それは掴めない。しかし言葉を交わすだけの余裕が、今のエアにはない。ロメールから何かを探ろうとして、逆に探られてしまいそうだ。
「地図を、どうした」
 心臓が跳ねる。それを伝えないように、静かな声で返す。
「森の神殿へ至る地図の事でしょうか」
「他にあるまい」
「司教様からお預かりし、私が常に携帯しております」
「それだけか?」
「不埒なものに奪われるような失態は犯しませんでした。部下たちにすら、見せておりません」
「写しは、どこにある」
「写し?」
 思わず、鸚鵡返しをする――ふりをする。本当にはじめて聞く事のように、理解できていないつもりになって。
 内心はこれ以上ないほど動揺していた。この男は、どこまで知っているのか。
「神殿へ至る地図は、司教様からお預かりした一枚きりと伺っておりますが」
「誰も作ろうとしなければ、そうなる」
 ロメールは立ち上がり、ゆっくりとエアに近付いて来たが、エアの前で立ち止まる事なく、横を通りすぎた。
 背中の向こうに立つロメールの奇妙な存在感に威圧され、エアは硬直した。振り返る事ができず、今では誰も座っていない椅子をぼんやりと見下ろす。
「家族を失った事に同情はしている。悲しく寂しく、辛い事だろう」
 エアは全身から血の気が引いていく感覚を知った。
 どこまで知っている、などと、愚問だった。この男は、全てを知っている――?
「だが、聖騎士団の者ならば、エイドルードに仕えるものならば、誤った願いを抱かず、誇らなければならない事だ」
 何が、判る。
 そう怒鳴りつけてやろうとしたが、俯いたままでは喉に詰まって声が出てこなかった。
 顔を上げ、踵を返す。そうしてロメールを視界に捕らえ、エアは口を開く。
 同時に、扉を叩く音がした。
 乾いた音はエアが失いかけてきた理性を連れ戻してくれた。怒りと驚愕に冷えた体と熱くなった思考が、徐々に正しい熱を取り戻していく。
 エアはロメールに気付かれないよう静かに息を吐いた。
「第十八小隊の者なら入りたまえ」
 ロメールは扉に向けて冷たく投げかけた。
 彼とふたりきりでなくなる事は、エアにとって安堵すべき事だ。しかし部下たちが入ってくると言う事は、地図の写しを隠した荷物もこの部屋の中に入ってくる事となる。
 今のロメールの勢いならば荷物を探りかねない。一応隠してはあるが、徹底的に探られても絶対に見つからないと言う保障はない。
 この場をどう切り抜けるか、僅かに与えられた時間の中で、エアは考えなければならなかった。
「第十八小隊の者ではないが、入れていただこう」
 扉の向こうから聞こえてきた声は、エアが予想していた者たちの声ではなかった。
 驚いたのはロメールも同様のようで、彼はエアの前ではじめて落ち着きのない様子を見せる。扉が開くと、エアがこの部屋に居る事をすっかり忘れ去ったかのように、入ってきた人物――アシュレイ・セルダだけを見ていた。
 アシュレイもエアの事など眼中にないのか、ロメールを真っ直ぐに見据えていた。その表情に怒りは存在して居ないはずなのだが、なぜか冷たいものとして見る者の目に映る。
「エア・リーン」
「はい!」
 しばし睨みあった――ふたりの目つきは穏やかだったが、エアには睨みあっているようにしか見えなかった――後、アシュレイはエアの名を呼んだ。
「帰還したならば私にその旨を報告すべきではないか? 司教様もお待ちしているだろう」
「はい。申し訳ありません」
 言い訳はしなかった。潔い態度を美徳とする聖騎士団において言い訳は逆効果でしかないし、言い訳などしなくても、状況を見ればアシュレイには判るはずだ。
「ロメール・イルタス」
「はっ」
「報告も済んでいない、帰還したばかりの団員を、なぜ部屋に連れ込んだか聞かせてもらおうか?」
「……報告後では遅いであろうと判断したからです」
 ロメールはアシュレイの静かなる迫力に臆する事なく、そう返した。
「それは近頃貴方が私の周囲を探っている事と関係しているのだろうか」
「やはり、お気付きでしたか」
 アシュレイが静かに責めても、ロメールはうろたえなかった。その表情はどこか満足げで、気付かれていた事を喜んでいるかのようだ。
 息を吐く音が、窓を叩く風の音によってかき消える。
 ロメールはアシュレイに座るように促してから、自身もその向かいの席に腰を下ろした。
「古い話をさせていただきましょう。アシュレイ団長、十三年前、入団したばかりの貴方は私の部下でありました。私はその頃より、貴方の事を存じております」
「知っている。私も、貴方には世話になったと思っている。いや、過去だけではない。今も補佐役として、貴方の世話になっている」
「だからこそ気付きました。十三年前の貴方の中には、エイドルードへの真摯なる祈りが存在した。けれど今の貴方にはそれはなく、ただ形だけの祈りを捧げるのみだと。貴方は信仰を失われている」
 聖騎士団に名を連ねるものとして、もっとも大事なものを否定され、しかしアシュレイは反論しなかった。否定できない真実であるからではなく、ロメールの話を遮らないために。
「十四年前、姉君が森の女神に選ばれた頃の貴方は、誇りに満ち溢れていたのでしょう。九年前、妹君が森の女神に選ばれた時のように。ですが貴方は変わられた。姉君の、エフィール様の遺骨が戻られた頃から。貴方の祈りは、徐々に枯れはじめた」
「私とて人の心を持っている。家族を失う事で私の心に悲しみが生まれた事を否定する気はない。だがそれと信仰を直接的に結びつける必要はあるまい」
「いいえ。貴方がいくら偽ろうとしても、祈りから光が失われている事を偽る事はできません。貴方は姉君の時にエイドルードへ不審を抱き、妹君の時にエイドルードを疑い、そして四年前――貴方の奥方が森の女神に選定されたその時、エイドルードを憎んだ」
 世界が沈黙に支配されたかのようだった。
 それはエアの錯覚でしかない。窓の向こうで風は流れ、草木は揺れ、誰かの呼吸や、身じろぎする時の衣擦れの音など、僅かな音は耐えず鳴っている。だがそれらの音は、エアの耳に届かなかった。ただロメールの声だけが、永遠に繰り返される。
 アナタノオクガタガモリノメガミニセンテイサレタ――
 それだけが、今のエアの世界に鳴り響く音だった。
「森の女神、ライラ様の、夫が……」
 白く染め上げられた思考は、エアに無意識に言葉を紡がせた。
 何も映そうとしなかった空ろな瞳がアシュレイを捕らえ、意思を取り戻しはじめる。
 この男が、協力者。エアに取引を持ちかけた張本人。
 それだけを考えるならば、驚くほどの事ではないのかもしれない。この男ならば、あの美しい森の女神ライラと並んでも見劣りはしないだろう。武術大会を勝ち上がり、御前試合に出る事も簡単だろう。聖騎士団長の座につくほどの人物ならば、もっと若い頃に砂漠の神殿への任務を任されていても不思議ではないだろう。それでいて森の神殿へ一度も訪れた事がない理由もつく。彼が聖騎士団員になってからずっと、森の女神が彼の関係者だったのだとすれば、万が一――今のエアたちのような企みを抱かれ実行される事――を考えて彼を森の神殿から引き離すは当然だ。
 だが、ならば。
 ならばなぜ、あんなにも平然と、エアからリリアナを奪えたのだ。
 同じ痛み、いや、姉妹も同様に奪われたのだとすればエア以上の痛みを、彼は知っている。だからこそ、彼がエアにあのような痛みを強いた事が、エアには信じられなかった。
 深い同調と同情を覆い隠すほどの闇が、エアの心を支配していく。
「貴方は四年近く平静を装い、企みなど何も抱いていない、立派な聖騎士団長であり続けた。私も危うく騙されるところでした。もしもあの御前試合で、貴方が手加減して戦っている姿を見なければ、気の迷いだったと片付けていたかもしれません」
「手加減などしたつもりはないが」
「いいえ。貴方が本気を出せば、エア・リーンなどすぐに倒せたはずです。貴方はわざと試合を長引かせているようでした。はじめは、あの試合が王や民への見世物としての意味がある事を意識した上での事かと思いましたが、貴方は彼に何かを語っていた。武術大会に優勝し、小隊長となり森の神殿へ向かう事がほぼ確定した者に、貴方が人に聞かれないよう試合中に語らなければならなかった事は何なのか」
 そこまで言い切ってからロメールは、アシュレイに向け続けていた視線を、突如エアに向けた。
「思えば、エア・リーン。君の存在は異質すぎる。なぜ君は故郷での生活を捨て、聖騎士団を目指そうとした。幼い頃からの教育を受けていないはずの君が、なぜそこまでの剣術や礼儀作法、神聖語を身に付けられた。君ははじめから、アシュレイ様の手引きを受けて入団したのではないかね。アシュレイ様の望むように動けるよう、アシュレイ様とは無関係な者として――」
「失礼します!」
 ロメールの言を遮るように、乱暴に扉が開かれ、部屋の中に居た三人は同時に振り返った。


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