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三章 女神ライラ




「次は右から四番目だ」
「右から四番目ですね」
 エアの指示を復唱してから、ジオールは指差し数えて道を確かめた。続くルスターの確認を得ると、ようやく歩き出す。地図以外の情報を信じないよう、彼らが自分たちで定めた決め事だった。
 ハリスが額に滲んだ汗を拭いながら続く。エアは静かに深呼吸し、彼らの後を追った。
 どれほどの時間を迷宮に費やしているのか、エアには判らなくなっていた。迷宮に足を踏み入れたのは確か昼を少し過ぎた頃で、歩いた距離から考えるに、陽はおそらく今もまだ青空の中で輝いているだろう。せいぜい、西の空を茜色に染めはじめた頃のはずだ。
 だがエアは、もう丸一日以上迷宮の中に居るような錯覚に囚われていた。
 それは他の三人も同じようだ。元々寡黙の傾向があるジオールは判りにくいが、ルスターやハリスの口数が明らかに減っている。彼らが疲弊しきっている事が判る。
 エアが持つ地図のおかげで罠は全て回避できているし、ランタンの明かりもある。それでも、閉鎖された暗闇に追い込まれたような緊張感が、エアたちを襲うのだ。歩き続ける事による体力の消耗よりも、精神的な消耗の方が辛かった。
「次は左から三番目だ」
「左から三番目ですね」
 これまで一番多いところでは十にも分かれた分岐を、百近い回数通り抜けてきた。確認を幾度も繰り返す事に嫌気がさし、それでも部下の手前ため息だけは吐くまいとずっと気を張り続けていたエアだったが、今回ばかりは我慢できず、堂々と深い息を吐いた。
 不満を示すものではなく、安堵のため息を。
「これで最後だ」
 ため息の後にエアが告げると、三人はエアに振り返る。
 くたびれた表情が一瞬にして明るい表情に上塗りされる様子がおかしく、エアが思わず笑みをこぼすと、自分たちの油断に気付いたのか、三人が三人とも表情を引き締めて歩きはじめた。
 それで隠したつもりなのかもしれないが、進む足取りはどことなく軽く、迷宮を進むにつれて減っていた口数が戻りつつある。ごまかそうとしている分いっそうおかしく、エアが忍び笑いをもらすと、ハリスが振り返ってエアを見上げた。
「隊長、笑わないでくださいよ」
「そう言われてもな」
「ようやくここから出られると思えば、誰だって浮かれますよ」
「だから叱ってはいないだろう」
「そうですが……」
 ハリスは肩を竦め、それ以上は何も言わなかった。
 ジオールとルスターの話し声に、人や馬の足音が混じり、通路中に響き渡る。その音の中、ランタンの明かりに照らされ壁や天井が不思議な色に輝く様子を眺めながら、エアは歩いていた。これで終わりだと思うと、エアたちを閉鎖した空間に押し込めていた色が、幻想的で美しいものに思えてきたのだ。
 やがて足音が少しずつ減った。前を行く者たちが足を止めたのだ。エアも前方に習って足を止めると、正面に大きな扉があるのが判った。
 三人の部下たちは、期待に輝かせた瞳を向け、エアの言葉を待っている。エアは部下たちの横をすり抜けると、扉の前に立った。
『全ての恵みは天上より授けられる』
 司教に教わったふたつめの神聖語を発生すると、エアの前にある巨大な扉は、淡く発光した。
 重く引きずる音を立て、扉はゆっくりと開いていく。少しずつ広がっていく隙間からは、西に傾きはじめた太陽の光が惜しみなく降りそそぎ、薄暗い空間に馴れたエアたちの目を容赦無く攻め立てた。
 エアは腕を掲げて光から目を守ったが、それでも耐え切れず、極限まで目を細める。そうして狭まった視界に映ったのは、溢れんばかりの緑だった。
 少し長めの芝が生えた大地が、どこまでも続いていく。遠くには湖があるのか、水面に光が反射してちらちらと輝いている。あまり背の高くない瑞々しい木々には、鮮やかな色を持つ実がたわわに生っている。
 エアはゆっくりと歩き、迷宮を出ると、豊かな自然を踏みしめた。硬い石ばかりを感じていた足が、柔らかな土の感触に喜びの悲鳴を上げる。新鮮な空気を取り込む事で、肺が大きく膨れ上がる。
「ここが、森の神殿ですか……」
 感嘆のため息を交え、ルスターが言った。
「綺麗ですね。事前に聞いていた通り、住み心地も良さそうだ」
 きょろきょろと辺りを見回しながらハリスが言う。
 ハリスの言葉に、エアは無意識に肯いていた。どこまでも広がる大地の恵み、緩やかに流れる風、暑くも寒くもない気温と、全てが生活に最適と言えるものだった。おそらくその辺りを掘り起こせば、驚くほど肥沃な土が出てくるのだろう。
 エアは歩みを進めた。左手の方向を真っ直ぐ眺めると、畑が広がっていた。収穫はすでに終わっている時期だが、春から夏にかけて野菜が生き生きと育っていただろう事は、容易に予想できる。
 更に奥を見上げると、ようやく外壁を見つけられた。高い壁に囲われていると言うのは実に閉鎖的で息苦しさがあるだろうと思っていたのだが、壁の中の面積が広大となれば話は別だ。おそらく、大都市――たとえば王都セルナーン――並の広さはあるだろうと予想され、遥か遠くにある壁は、充分以上の高さがあると言うのに、敷地内のほとんどの場所に影を届けられずにいる。
 右手を眺め、エアはようやく白亜の神殿を見つけた。
 たとえば空から舞い降りたばかりの雪など、エアの知る限りの白よりもなお白い。丸みを帯びた形状は女性的な柔らかさを見る者に伝えながら、洗練された孤高の美しさを同居させていた。
「王都より参られた聖騎士様ですね」
 若草を踏みしめる音と共に、四人の前に人影が現れる。
 エアより少し年若い、可愛らしい少女だった。衣服は基本的に白だが、腰紐や肩掛けなど要所に使われた明るい緑色が印象深く、少女の茶色の髪や若草色の瞳によく映えている。
「はい。王都聖騎士団第十八小隊隊長、エア・リーン以下三名です。王都より物資補給の任務のため、派遣されて参りました」
「遠く険しい道をお疲れ様です。ようこそいらっしゃいました。神殿の方で森の女神ライラ様がお待ちです。どうぞこちらへ」
 少女は会釈するとエアたちに背中を向け、神殿へ向けて歩きだした。エアたちを先導してくれるのだろう。
 エアたちは馬を引き、少女の後を追った。一見ごく普通の少女だが、さすがに女神に仕えるだけあって、一流の教育を受けているだろう事が一目で判る。優雅な立ち振る舞い、正しい姿勢、滲み出る気品といい、文句の付け所がない。
「お迎えありがとうございます。しかし、どうして私たちが来た事を?」
「迷宮の扉が開かれた事を、ライラ様はご存知なのです。時期的にも一年に一度いらっしゃる補給隊の方々で間違いないでしょうと、ライラ様はわたくしに迎えの任をお与えくださりました」
「なるほど。そうですか」
 適当に肯きつつ、これは重要な情報かもしれないと、エアは脳内で噛み締めた。
 この類の機能は森の神殿も砂漠の神殿もほとんど同じであろう。変える意味が無い。と言う事は、エアが砂漠の神殿に侵入した時、最初に気付くのはリリアナだ。
 事前に伝える術が無い以上、まさかエアが自分を奪い返しに来るなどと思ってもいないであろうリリアナは、普通の対処をするに違いない。女官たちを動員して警戒させ、侵入者であるエアを排除しようとするはずだ。
 ほとんどの女官に武術の心得は無いとのアシュレイの言を信じるのならば、肉体的な負担は大きな問題ではない。問題なのは――
「こちらでは何人の方が生活しているのですか?」
 好奇心に瞳を輝かせて、ハリスが少女に問うた。
「女神様にお仕えする女官たちが二十一名おります」
「そんなに!」
「お仕えする、と申しましても、おそらくは皆様が想像する、優雅な仕事ばかりではございません。田畑の手入れをし、木の実を取り、獣を狩り、料理、洗濯、掃除と言った、生活するために当たり前の仕事がほとんどです。ここは女だけで生活する、小さな村なのだと思っていただければよろしいかと」
「ははあ、なるほど」
 納得して肯くハリスを横目に、エアは右手で口元を隠し思考に耽った。
「女神様を含めると二十二名……これは天上の神エイドルードが魔獣と戦った日数と同じですね」
 エアが思いつきを口にすると、少女は振り返って肯く。
「二十二は、偉大なる神エイドルードが地上におられた日数。故に、聖なる数字とされておりますから」
 少女は誇らしげに微笑んでエアに答えた。
 ならば、砂漠の神殿に居る女官の数も、同じと考えて間違いない、か。
 エアはさりげなく肯きながら、新たな情報を脳に焼き付けた。
 森の神殿に来る意味は取引の材料にするため以外にないはずだったが、自分の役に立つ情報もこうしていくつか手に入っている。エアは内心喜んだが、この任務をエアに与えた人物の顔が蘇ると、喜びはあっさりと霧散した。
 それきりエアは少女に何も聞かず、ただその後ろを着いて行った。本当ならば入手できる限りの情報を彼女から聞き出したいところだったが、あまり根掘り葉掘り聞いて疑われでもしたら元も子もない。焦りは禁物だ。
 少女はエアたちが何も問いかけないと、無言で歩みを進めるだけだった。長い距離を歩く事に馴れているのか、変わらない足取りで四人を先導して行く。
 遠くに見えていた神殿がやがて目の前に迫ると、エアはその大きさに圧倒された。美しさだけでなく大きさも、王都セルナーンの大神殿に勝るとも劣らない。思わずごくりと息を飲み、視線を巡らせた。
 神殿の入り口近くに、複数の人影が見える。エアたちを案内してくれた少女と同じ服を来た女たちが、間を広く開けて二列になって並んでいた。老女と呼べる者から少女と呼べる者まで様々な年代の女性が揃っており、数えてみると、それぞれが十名。案内人の少女を含めると、女官の全員がそこに集まっている事になる。
 少女は振り返り、エアたちに礼をすると、先に行くように促しながらエアが引く馬の手綱を手に取った。左右の列の後ろの方に並ぶ女性が三名、エアの部下たちに歩みより、同じように馬を預かってくれる。
 エアは僅かに戸惑いつつもそれを隠し、女性たちの列が造った道を進んでいき――その先に立つひとりの女性に対面した。
 楽園の女神。森の女神ライラは、そう称する事に何のためらい抱かずにいられる女性だった。
 色素の薄い肌は抜けるように白く、小さな顔にはまる目も鼻も口も、全て造詣が完璧と言って過言ではない。優しく輝く緑色の瞳が彼女の美に温かみをもたらし、完璧と言う言葉がもたらす冷たさを完全に払拭している。その顔を覆う髪は、まるで上質の繭から紡がれた金糸で、西日を浴びて柔らかく輝いている。
 小さな薄桃色の唇が、ゆっくり笑顔を象る。その華やかな微笑みは、瞬きする間も惜しみたくなるほどだ。
「ようこそ、森の神殿へ」
 声も心地良いものだった。優しく耳朶を震わせ、胸に安らぎを与えてくる。長い旅路で積み重ねた苦労も、一瞬にして吹き飛ぶ勢いだ。
「お、王都聖騎士団第十八小隊隊長、エア・リーン以下三名です。物資補給の任務のため、王都より派遣され参りました」
 エアは女性を凝視していた自分に気付き、慌ててその場に跪くと、深く礼をした。エアの後ろに並んでいた三人もそれに続く。
「王都よりの長い道のり、ご苦労様でした。今宵のお食事やご入浴の準備もさせてありますので、ごゆっくりくつろがれ、疲れを癒してくださいませ」
「は……お心遣い、心より感謝いたします」
「もしお邪魔でなければ、ぜひ私もお食事をご一緒させてください。外のお話をお聞きできる機会は、あまりありませんので……」
「ライラ様さえよろしければ、お断りする理由などございません。至上の光栄にございます」
 森の女神はいっそう深く笑った。まるで子供のように無邪気な笑みだった。
「楽しみにしております」
 軽く一礼すると、森の女神は軽やかに踵を返して神殿の中へと姿を消していく。
 どちらかと言えば小柄で細身の体は、実態を伴わない存在のように思えた。
 まさに、女神。同じ人間であるとは到底思えない、不思議な雰囲気を持つ女性だ。
「どうぞこちらへ。お部屋にご案内いたします」
 女官のひとりに声をかけられ、エアは慌てて立ち上がる。
 それから振り返ってみると、三人の部下たちは魂が抜けたかのように未だ呆然とし、膝を着いたままだった。


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