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三章 女神ライラ




 ディミナ山の麓、西方から南方にかけて広がる深い森の中心に、エアたちが目指す森の女神の神殿がある。
 大陸一の樹海は途方もない広さで、奥深くまで足を踏み入れようとする者はまず居ない。地元の者曰く、あるかもしれない豊富な獲物や資源を夢見る者、最高峰の芸術品とも言われる森の神殿をひと目見ようとの野望を抱く者などが、ごく稀に森の奥へと向かうそうだが、年に一度やってくる聖騎士の一行を除けば誰ひとりとして帰還しないそうだ。
 森の入り口を目の前にして、空を見上げるように背の高い木々を見上げたエアは、荷物の中から古い羊皮紙を取り出した。自分と、三人の部下たちと、まだ見ぬ協力者の命を支えるそれを、緩やかに吹く風に攫われないよう、強く胸に押し抱く。
 エアは傍らで息を荒くする馬の手綱を引き、森に足を踏み入れた。入り口近くの木々はそれほど密集しておらず、馬を連れる事も難しくなかった。
 四人はそれぞれ、一頭ずつ馬を引いている。その背には、町まで乗ってきた馬車の荷台に乗せていた荷物を分けて積んでいた。馬車のままでは森や神殿へと続く迷宮には入れないので、町で荷台をはずし、馬だけを連れて行くのが伝統なのだ。
 木々の隙間から降りてくる陽の光を頼り、冷たい空気の中、まばらに積もる枯葉を踏みしめながら進む。少し歩くと、エアが目指していた一本の木が見つかった。
 立ち並ぶ木々の中で一際目立つその木は、大の男二、三人が腕を回さなければ届かないほど太い幹で、人の目の高さ――エアは見下ろさなければならないが――に金属板が埋め込まれている。天と地を繋ぐ剣が模され、剣の柄に空色の宝石が埋まったそれは、森の神殿に向かう聖騎士のためにある目印だ。
 エアは聖印の下に手を着き、木のそばに広がる地面を見下ろした。元より木はまばらにしか生えていなかったが、それでも違和感を覚える程度に広く土色が見えている。
「少し下がっていろ」
 後ろで控える部下たちを手で制し、エアは静かに息を吸った。
『神の寝所はただひとつ天のみに』
 流麗な神聖語を口にすると、部下たちの尊敬の眼差しが一斉にエアに注がれた。
「さすがエア隊長。これほど美しい発音で紡がれた神聖語、私ははじめて聞きました」
 嘘偽りなどどこにも見られない素直な表情でジオールが言う。「そうです」「私も」とハリスやルスターが続き、エアはどう反応してよいか判らず、無言で肯くだけだった。
 神の言語である神聖語は、文法もさながら特に発音が難しいと言われている。肌に合うのかそれとも別の理由があるのか、エアはこれが得意で、特に発音にいたってはいささか自信があった。一年も学んだ頃には、師事した人物よりもエアの発音の方が美しくなっていたからだ。
 実のところエアは、入団試験を受けた折、歴史の知識に対する評価があまり良くなかったらしい。アシュレイ曰く本来ならば入団試験に落ちてもおかしくなかったらしいのだが、剣技と神聖語の成績が正団員を軽く凌げるほど優秀であったため、なんとか合格となったのだそうだ。
 つまりエアの神聖語は、他の欠点を補って余りあるほどなのである。これで謙遜しては、逆に嫌味だろう。
「あ……」
 エアにとって気まずい沈黙が流れかねない展開だったが、すぐにその状況から免れる事ができた。
 積もった枯葉同士が擦れあう音がしたかと思うと、地面が小刻みに揺れて居る事をエアたちは体感する。揺れが徐々に強まっていくと、目の前の大地は割れはじめ、やがて四人の前に巨大な扉が姿を現した。
 人間の背丈の二倍はある重厚な扉。鍵穴も取っ手もなく、押してもけして開かないこの扉こそが、森の神殿に続く唯一の道だった。
 普段は土の下にその姿を隠しているが、合言葉たる神聖語に反応し、こうして姿を現す。神聖語はそれなりの教育を受けたものでなければ発音できるものではないし、合言葉自体司教から教わった者しか知らないため、森に入り込んだものや迷い込んだものがこの扉を見つけだす心配はまずないと言って良かった。
 そして万が一見つける者が居たとしても、扉の向こうに続く迷宮にある無数の道の中から、たったひとつだけの正しい道を探り当てて神殿に辿り着く事は無い。
「エア隊長、これはどうやって」
 開けるのですか、と続けようとしたのは明らかだったが、ルスターがその問いを最後まで紡ぐ前に、扉は鈍い音をたててゆっくりと開いた。
 扉の向こうには深い暗闇が続いている。入り口付近は外部の明かりが届くのでまだ薄明るいが、五歩も内に入れば全く見えなくなるだろう。
 誰か灯りを、と指示する前に、ハリスとジオールがランタンを取り出していた。手馴れた動きでふたつのランタンに火を灯し、温かな明かりが暗闇を掃っていく。
「順に中に入ってくれ」
「隊長は?」
「私は最後に行く。扉を閉めなければならないからな」
 同じ合言葉で、と続けると、三人はおとなしく前を行った。エアの発音を聞いた後では、いつものように自分たちがやっておきますと言う気にもならないようだ。
 エアの横にいる馬が小さく唸る。未知の場所へ連れ込まれる事に恐怖しているのかもしれない。エアは馬を優しく撫で、気を落ち着かせてやると、手綱を引いて三人に続いた。
『神の寝所はただひとつ天のみに』
 再び同じ合言葉を紡ぐと、扉は開いた時と同じようにゆっくりと閉じた。木々の隙間を縫って天から届いていた太陽の明かりは完全に消え失せ、ハリスとジオールの持つ明かりのみが四人の進む道を照らしている。
 エアの目が届く限りの場所は、床も壁も天井も石造りだった。灰色のような薄紫のような不可思議な色を持つ石の名を、エアは知らない。他の三人も珍しそうにしているので、恐らくその辺りに転がっているような石ではないのだろう。
 エアは司教より託された地図を広げた。古ぼけた羊皮紙に描かれた迷宮が、ランタンの明かりを浴びてぼんやりと浮かび上がった。
 ここに到着するまで何度も取り出し、脳内で進むべき道を辿っている。だが、いざ本当にここに来ると、いささか緊張した。侵入者を延々と迷わせるつくり、容赦無く襲い来る罠。どこかで道を誤り、正しき道を見失えば、エアたち四人の生命は絶望的となるのだ。
「ここに到着するまで約一月の態度を見ていれば問題はないと思っているが、念のため言わせてもらおう。ここから先は一歩間違えれば命の危険に晒される場所だ。かならず私の指示に従うよう」
「もちろんです」
「はい」
「承知しました」
 エアは三人の顔を順に見回してから肯いた。
「そう緊張しなくてもいい。正しい道を行けば、森の神殿まではさほどかからないからな」
 エアの一言が功を奏したか、多かれ少なかれ青年たちの表情に浮かんでいた不安が消えて行く。同じように怯えている馬をなだめながら、エアが指示する方へとゆっくりと進んで行った。

 最初は右、それから左、次も左、その次の三叉路は真ん中、再び左。
 分かれ道から正しい道を選び、少し進むとまた新たな分かれ道が現れる。延々とその繰り返して、これでは地図を持っているエアでもくたびれずにはいられなかった。運良く――この場合、運悪くかもしれないが――この迷宮に迷い込んでしまった者の絶望を思い、エアはつい同情してしまう。
 そして森の女神ライラを求める人物の事を考えた。
 砂漠の神殿へ至る迷宮がどんなものであるかエアにはまだ知るよしもないが、おそらく同程度に複雑で、凶悪な罠が散らばっている所に違いない。
 はじめエアは、会った事もない――もしかするとすれ違ったり軽く言葉を交わしたりした事はあるのかもしれないが――エアに取引を持ちかけてきた人物を疑っていた。女神はこの国にとって必要不可欠な存在であり、その女神を奪おうとする計画が少しでも洩れれば、即処刑されてもおかしくない。そんな危険な橋を渡るための相棒に、全くの他人を選ぶのは、あまりに不注意すぎると思ったからだ。
 だがこの迷宮を通った後では、相手の気持ちがよく判った。エアが逆の立場だったとしても、誰かを頼らざるを得ない。同じ痛みを知り、同じだけの情熱を持つエアであれば、取引を持ちかける事で裏切る可能性は下がるだろうと踏んだ上での選択なのだろうと考えれば、至極納得が行った。
「隊長、次は二股のようです」
 先頭を行くハリスのうんざりした声音で、エアは顔を上げた。
 四人分の命がエアの持つ地図一枚にかかっていると思うと責任は重く、緊張のせいか、予想以上に疲労の蓄積が早かった。だからと言って、僅かな時間とは言え集中を途切れさせ、思考の深みにはまった己を許す理由にはならないのだが。
「ああ、次は……」
「ここは左ですよね。間違いなく」
 エアが地図を確認するよりも早く、二番目を行くルスターが明るい声で答えた。
「いや、右だ」
「え?」
 左の道に体を向けたルスターが、ゆっくりと振り返る。疑いもしなかった答えがあっさりと否定された事に、驚いている様子だった。
「なるほど。確かに右の道は避けたくなるかもしれないな」
 地図に記された正しい道には、人骨と思わしきものが横たわっていた。時間が風化させたと思わしき、くたびれた服を着たその骨は、胸の位置を古びた槍に貫かれている。この道には罠があり、誤って通った者がその罠に命を奪われたと考えやすい。
「指示に従えと自分で言っておいて、指示が遅れてすまなかったな」
「そんな。自分が指示の前に勝手に動こうとしただけですから」
「いや、集中力と注意力を欠いていたのは事実だ。すまん」
 エアは目を伏せて静かに長く息を吐き、自身の頬を軽く叩いて、気合を入れ直す。部下たちの命を預かっている身なのだから、失敗は許されない。
 息を吐ききった後、深く息を吸った。肺に空気を溜め込むと同時に目を開き、再び息を吐き出すと、意識が新たに生まれ変わった気がした。
 はっきりとした思考が興味を持ったものに視線を移す。四人が進むべき道に横たわる、人骨に。
「心理的な罠、でしょうかね」
 エアと同じものを見据えたハリスは眉間に皺を寄せ、僅かに唇を尖らせた。それが思考する時の彼の癖である事を、これまでの旅でエアは知っていた。
「おそらくそうだろう」
「あ……そうだったのですか」
 ルスターが大きな目を更に大きく開き、エアとハリスを交互に見た。
「こんな風に死体を置けば、何も知らずにここに来た人間はこの道を避けたくなる、と言う寸法だろう」
「ここまであからさまに罠があるように見せられては、俺なら逆に疑いますけどね」
「意外に捻くれているな」
「いや、思うのは自由ですけど、できれば口に出す言葉を選んではもらえませんかね。『思慮深い』とか」
「『意外に思慮深い』の方が失礼な言い草ではないか?」
「いや、『意外に』を抜いてくれればいいんじゃないですかね……」
 突然ルスターが小さく噴き出した。原因は今のハリスとのやりとり以外には考えられず、笑わせるつもりも笑われるつもりもなかったエアとしては不本意だ。しかし、見ればジオールも咳払いをして何かをごまかそうとしており、しぶしぶ納得して話を元に戻した。
「お前のように疑うとしても、ルスターのように素直に信じるとしても、多かれ少なかれ侵入者は迷うだろう。迷いは混乱を産み、混乱は誤りを産む。おそらくはそれが狙いだ」
 エアは横たわる人骨に歩み寄った。
 骨が着ている古びた衣服も、骨を貫いて床に刃先を埋め込んでいる錆びついた槍も、間違いなく本物だ。だが人骨そのものは精巧に作られた紛い物である事が、近くで確認すれば判る。
「神殿が造られた後、女神を守るための迷宮と樹海を造ったのはエイドルードだと聞いていたが」
「そのはずです」
 神のくせに小賢しい真似をしやがる、と口にしそうになり、エアは慌てて言葉を探した。
「よほど女神を大切になされているのだろうな。あらゆる手を尽くし、誰にも奪われないように守り――」
 エアはそう呟いてから、三人に振り返った。
「行こう」
 エアが言うと三人は肯き、偽の遺体を乗り越えた。
 道はまだ続いている。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.