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三章 女神ライラ




 その日、ディナス・オリンストが街外れの墓地に足を向けたのは、ただの偶然だった。たまの休みに何をしようかと前日から考え続け、「そう言えば最近は母の墓参りに行っていなかったな」と思い出したのだ。
 秋の終わりが近付き、朝晩は随分冷え込む日々が続いているが、この日はあまり寒いとは思わなかった。冷たい風はゆるやかであったし、空にはほとんど雲が浮かばず、暖かな陽光が惜しみなく降りそそいでいたからだろう。母との再会に相応しい日かもしれないと、ディナスは朝早く家を出た。
 母が病気で命を落としたのは、今から十年ほど前になる。それから数年は足しげく墓参りに通っていたものだが、出世と共に「忙しい」を言い訳にするようになってしまった。聖騎士になるために家を出た自分が行かなくとも、家族の誰かが行ってくれる、と言う甘えがあったのかもしれない。
 久方ぶりに訪れた母の墓は、寂しいものだった。元々墓場など寂しいものだが、それが理由ではない。墓前に添えられた花が、すでに色を失っていたからだ。
 滅多に足を運ばないのはディナスだけではなく、父や兄も同様らしい。商売に追われている彼らは自分以上に忙しいのだろうと想像したディナスは、心の中で父たちを責める事はせず、「親不幸ですみません」と母に謝りながら苦笑した後、「今度からもう少し頻繁に来るようにします」と付け足した。
 以前は――四年前までは、こうではなかった。頻繁に、丁寧に手入れされた母の墓は、同様の聖十字が立ち並ぶ中で、輝いて見えるほどだったのだ。
 失われたもうひとりの家族を思い、ディナスは唇を噛む。痛みは胸中を巣食う虚しさを、少しだけ和らげてくれる気がした。
 深く息を吸い、聖十字の前に跪く。母のために祈る前に首を振り、安らかな眠りを妨げかねない暗い感情を振り切った。
 墓に新たな花を添え、長い祈りを捧げると、緩やかな風が優しくディナスを撫でる。
 風の温もりは、幼き日の思い出の中にある母の柔らかな手に似ていて、親不幸な息子が訪れた事に母が喜んでくれているのかもしれないと、少しだけ楽な気持ちになった。
「また、来ます」
 再会の約束を残し、ディナスは踵を返す。石造りの聖十字の中に、奥深い黒を見つけたのはその時だった。
 黒髪の青年は、無数の聖十字の中から選ばれた聖十字の前に跪き、目を伏せ、静かに祈り続けている。緩やかな風が吹くと、青年の少し長めの黒髪が揺れ、青年自身の輪郭を撫でたが、神聖な祈りは途切れる事はなく、青年をとりまく静謐な空気に変化は現れなかった。
 まるで神像だ、とディナスは思った。永遠に美しく、永遠に変わらない、世界の至宝のようだと。
 違うと言う事は知っていた。青年の美は永遠ではない――それ以前に、はじめから美しい存在ではないのかもしれない。
 風が再び強まった頃、青年は目を開けた。細めた眼差しが聖十字に向ける愛情は、痛々しいほど悲しい。
 青年は聖十字に何かを囁くと立ち上がり、顔を真上に向け、高くに広がる空を見上げる。紫水晶の瞳が抱く感情は、先ほどまでとはまるで違う、鋭いものに変わっていた。
 憎悪だと気付くまでに、さほど時間を必要とはしなかった。彼の眼差しを見れば、事情を知らない者でも判るだろうが、ディナスは知っていたのだ。彼が聖十字に注ぐ愛情と、空に向ける憎悪の理由を。
 ディナスは硬く目を伏せた。青年と空と聖十字を闇の中に飲み込み、胸の内で渦巻く感情の整理をしようとした。
 自分も青年と同じ想いを知っている。彼と同じように、憎悪を宿らせた瞳で空を見上げる権利を持っている。だが、自分も青年と同じように、愛情を盾に空を恨むべきなのか、答えを出せずにいた。
 いや、気付いていないふりをしているだけで、答えはすでに出ているのかもしれない。世界を敵に回そうとする青年に嫌悪を抱かず、同種としての哀れみを覚え、彼の非常識な願いに抗わなかったのだから。
「ディナス」
 名を呼ばれ、ディナスは闇を掃って顔を上げる。
 青年は、聖十字に向けた愛情とも、空に向けた憎悪とも違う、親愛の情を持ってディナスを見つめていた。
「アシュレイ様」
 ディナスが頭を下げようとすると、アシュレイは即座に腕を伸ばして静止し、「よしてくれ」と言った。
「私は藍色の外套を身につけてはいない。ここは大神殿からも離れているし、人目があるわけでもない。私たちが『団長と第二中隊長』である必要はないだろう。ただの同期であった頃のように、普通に話してくれないか」
「しかし」
「何より、『義兄と義弟』として話したい事があるのだ」
 ディナスは小さく肩を震わせた。アシュレイの言葉に、表面上以外の意味がある事を、すぐに察したからだった。
 無言でアシュレイに歩み寄ると、アシュレイの前の聖十字が、嫌でも目に入った。石で作られた聖十字は綺麗に手入れされてはいるものの、時の流れを止める事はできない。この美しい男が、生まれてはじめて悲しみにくれた日から過ぎた時間を思い知らされ、ディナスは息を飲んだ。
 十年は過ぎていないが、それに近い時が流れているだろう。ディナスが母を失ってからと、ほぼ同じだけの時だ。しかしアシュレイは、そこからはじまる呪いの運命と、心を引き裂くような痛みを、けして忘れようとはしなかった。
 忘れられるはずもないか。ひとり納得したディナスは、自身の息苦しい喉元に触れる。
「御前試合の時はありがとう」
「何の事です」
 アシュレイは無言のままディナスを見下ろした。
「何の事だ、アシュレイ」
 言い替えると、アシュレイは微笑みを浮かべて話を続けた。
「エア・リーンの成長には目を見張るものがある。数年であれほどの剣術の使い手になれるとは、正直思っていなかった。だがそれでも、現状では君に勝てる確率は三割にも満たなかったはずだ」
「ああ、その事か」
 ディナスは小さく笑った。
 そう言えばそうだった。ディナスにとって最後の機会であった御前試合の前日、アシュレイは忙しい時間の僅かな隙を突いてディナスと接触を持ったのだ。
「『エア・リーンに負けてくれないか』と言われた時は、君の正気を疑ったよ。あるいは、私が入団した時からずっと武術大会の優勝に焦がれていた事を、忘れてしまったのかと」
「忘れるわけがない。君が入団してはじめての武術大会で、優勝と言う夢を語っていた日の事も、しっかりと覚えている」
「その夢は二回戦であっさりと君に砕かれたがな。そして私の代わりに君が夢を叶えた時は、複雑な思いだった」
 聖騎士団に入団してからこちら、ディナスは数え切れないほど「君は運が悪かった」と言われ続けた。剣技の腕も、人望も、出世の早さも何もかも、聖騎士団の中で上位に位置しながら、けしてアシュレイには敵わなかったからだ。
 アシュレイと同期でなければ、もっと目立てたのかもしれない。同期の期待の星とされていたかもしれない。優秀な人間だと褒められる機会が格段に増えたのかもしれない――そう思った事が無いと言えば嘘になる。しかしディナスは不思議と、この男と同じ年に入団した事を後悔はしていないし、運が悪かったとも思わないのだ。手の届かない目標であるこの男が目の前にいたからこそ、自分はここまで来られたのだと判っているから。
「ならば、優勝を何度も目前で逃し続けてきた私が、最後の機会である今回に賭けていた事も、知っていただろう?」
 アシュレイは力強く肯くだけで、しばらくは無言を貫き、やがて言い辛そうに口を開いた。
「それでも、ライラを喪失した痛みを共有する君ならば、頼めると思ったのだ」
「本当に」
 言いかけて、ディナスは言葉を飲み込んだ。紡ぐ意味の無い問いである事は、アシュレイの強い瞳を見れば明らかだったのだ。
 アシュレイの目の前にある聖十字が、アシュレイと共にディナスを攻め立てるようだった。その下に眠るアシュレイの姉、二代前の森の女神エフィールの代わりに。
 ディナスは覚えている。エイドルードに選ばれた美しき姉を誇りに思っていた少年時代のアシュレイも、変わり果てた姿での姉の帰還に嘆くアシュレイも。
 全てにおいて優れた彼が持つ、見る者全てを魅了する煌びやかな光は、悲しみゆえに完全に陰っていた。並外れた容姿も、知識も、剣技も、何ひとつ衰えていなかったと言うのに、彼は周りの者たちに埋没していたのだ。
「姉を失った時、私は何も知らずに喜んでいた自身の愚かさに失望した。そして次は、妹を」
「もういい。それ以上、言うな」
 過去の苦しみが怨念となって彼を前に向かせているからと言って、その苦しみを彼自身が掘り起こし、傷を抉る必要はない。今更語られずとも、彼の苦痛、覚悟、繰り返される喪失によって曇りゆく信仰を、ディナスは理解しているのだから。
「私もつい先ほど、墓参りをしたのだ、アシュレイ。十年前に病死した、母の墓だ」
 アシュレイは何かに気付いたように、視線をディナスから反らす。彼が見る方向には、ディナスの母の墓があった。
「やはり男所帯は駄目だな。あれほど世話になった母の墓すらろくに面倒が見られない――いや、男だ女だは関係ないか。毎日のように通っていたライラが、優しかったのだな」
「ディナス……」
「なぜ、ライラが、犠牲にならねばならないのだろう」
 以前のディナスは、アシュレイの中で育っていく、憎悪や悲哀や汚れていく信仰を傍から見つめながら、惜しいと思っていた。それは完璧にほど近い男だったアシュレイが、ゆっくりと完璧から遠ざかっていく光景で、世界の至宝が失われていく様に似ていたからだ。
 だが、今なら思える。誰よりも強くあったからこそ、彼はゆっくりと蝕まれていったのだと。
 痛みを真正面から受け止める事など、自分には耐えられそうにない。忘れるふりをして目を反らす事で、痛みを和らげようとするが精一杯だ。
「ライラは犠牲になどならない」
 アシュレイは力強く言い切った。ディナスを力付けるそれは、神の言葉のようだった。
「ディナス。私は今度こそ、大切な家族を失いたくないと思っている」
「ああ。ああ、そうだ、アシュレイ。私も本当はそれを望んでいるとも」
「ならば良かった。君にもうひとつだけ頼みたい事があったのだ」
 ディナスは無意識に俯いていた顔を上げた。
 本当に、本気なのだ、この男は。神の定めた運命に立ち向かい、失われたものを取り返そうとしている。
 同じだけの覚悟を、自分も決めねばなるまい。
「どんな無理難題だ?」
 問い返すと、アシュレイは僅かに目を細めて思考に耽った。
「大した事ではないが――それに関してはまた今度話そう。こんな所で会うとは思っていなかったものでな、準備ができていない」
「そうか。では、また次の機会に」
「……内容を聞かないのか?」
「必要ない」と短く返すと、アシュレイは満足そうに肯いた。ディナスは微笑みで彼に返すと、アシュレイに背を向け、その場を立ち去ろうとする。
 二、三歩歩いたところで、大切な事を言い忘れていた事を思い出したディナスは足を止め、振り返らずに言った。
「私の名誉のために言っておく。武術大会での優勝は、エア・リーン自身の実力だ。私は手を抜いてなどいない」
 再び歩き出す。ため息混じりにアシュレイが、「そう告白する事が名誉だと言うのか。まったく、君らしい」と言うのが聞こえたが、振り返る事も足を止める事もしなかった。彼ひとりをこの場に残して早く退散する事が、アシュレイにしてやれる唯一の事の気がしたからだ。
 去り際に、母の墓がディナスの視界を掠めた。
 優しい笑みを持つ美しい女性が、聖十字の前に立っていた。慌ててそちらを凝視するも、女性の姿は消えていて、ディナスは願望を幻覚として見た自分の青さを笑った。
 そして思う。もう二度とこんな笑い方をしなくてもすむようになればいい。今見た幻覚が願望などではなく、ライラが再びこの街で日常を過ごせる時がくればいい――


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.