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一章 約束の日




 天上の神エイドルードが魔獣を地中深くに封印したのは、人の一生の長さを考えて計れば、遥か昔の事となる。
 魔獣との争いで傷付き、地上では傷を癒せなかったエイドルードは、大陸の北の果てにあるセルナーンと呼ばれる大地より天上へと旅立った。
 聖職者たちは最も神の住まう地に近きセルナーンを聖地と呼び、そこでエイドルードへの祈りを捧げ続け、やがてひとりの聖職者がエイドルードの声を聞いた。
 聖職者たちはエイドルードの言葉に従い、セルナーンに神殿を建築。また、大陸南西にある砂漠と南東にある森にも同様に神殿を建てる。大神殿、砂漠の神殿、森の神殿と呼ばれる三つの神殿はそれぞれ、神の代理人たる司教とふたりの妻の住居とされた。司教が神の言葉を授かり人々に伝える事で大陸の安寧が、神の妻がそれぞれの神殿で祈り神からの力を授かる事で魔獣の封印が、長く長く保たれてきたのだ。
 つまりこの国において司教や神の妻――地上の女神と呼ばれる女性たち――は、国王と同様、いや、勝るとも言って良い重鎮であるため、彼らの守り手である聖騎士団員は、優秀な者であれば身分を問わないと言う門戸の広さと相まって、民の憧れの職業であった。
 しかし門戸が広いと言っても、誰もが聖騎士団に入れるわけではもちろんなく、厳しい入団試験によって聖騎士団員に相応しい礼節と教養と武芸を身に付けた一握りの者のみが選ばれる。故に、聖騎士団員のほとんどは、幼い頃から相応の教育を受けつつも将来があまり明るくない、下級貴族や裕福な家に生まれた次男以下ばかりだった。
 そんな彼らにとって、明らかに出自が異なるエアの存在が良くも悪くも目に付くだろう事は、入団する前から判っていた事だった。ましてそんなエアが、毎年三十歳未満の聖騎士団員全てが参加して行われる武術大会を決勝まで勝ち進み、王や司教までもが観戦する御前試合に出る事になったとなれば、注目せざるをえないだろう。
 元々村で一番背が高く、一番足が早かったエアは、注目される事に多少慣れてはいたのだが、所詮は小さな田舎村での事である。育ちが違う者たちの視線を浴びるように受ける事は居心地が悪く、苦痛と言って差し支えがなかった――もっとも、三年前に受けた苦痛を思えば、この程度の事は痛みでも不快でもないのだが。
 エアは伏せていた目を開いた。
 視界と意識を閉じる事で遮断していた外部が、一気に迫り来る。興奮と好奇心が奇声混じりの声援となり、すり鉢状の闘技場の底辺に立つエアを、熱風のように襲った。
 想像していたよりもはるかに見物客が多い。エアは御前試合と言う呼び名に勝手に高尚な印象を持っていたため、見物客は王や司教、せいせいが聖騎士団の者たち程度だろうと思っていたのだが、明らかにそれだけではなさそうだった。
 もちろん、貴賓席には王や司教が座っている。その周りには貴族と思わしき煌びやかな格好をした者たちが居る。そして彼らを守るように聖騎士団や王宮騎士団の者たちが居たが、それ以外の席は王都にして国一番の商業都市セルナーンに住まう一般の民と思われ、騒いでいるのは主に彼らだった。
 若き騎士たちが研鑽し更なる高みを目指すための武術大会と聞いていたが、上位二名まで勝ち進んだ者に与えられる栄誉は、「民への見世物」らしい。栄誉ある聖騎士団の一員の仕事が、王都の民の鬱憤晴らしなのかと思うとたまらず、エアは吐き捨てるように「馬鹿馬鹿しい」と呟いた。
 ゆっくりと歩みを進める。エアと、エアの対戦相手が試合場の中心に近付くに連れて、見物人の興奮が徐々に高まっていく。
 エアの対戦相手は、ディナス・オリンストと言う名の、エアよりも十ほど年上の青年だった。王都セルナーン一と言って過言ではない有力商人の次男で、いわゆる「幼い頃から相応の教育を受けた上流階級の息子」だ。一般的に高貴とみなされる貴族の血は流れていないらしいが、充分に品のある人物で、裕福な家庭で厳しく育てられたのだろうと予想できた。そうでもなければ、聖騎士団に入るだけの能力、あるいは能力不足を補えるだけの根性を持つ事はなかったのだろう。
 エアはディナスが決勝に至るまでの、いくつかの試合を観戦していた。かなりのてだれで、強敵だと思った。過去に何度か御前試合に出たと言う実績は、伊達ではないようだ。
「……あと、一戦」
 己を鼓舞するためにそう呟いたエアは、予め指定された場所に到達すると、直立して姿勢を正した。一歩遅れて到着したディナスが同じ姿勢をとると、同時に礼をし、同時に顔を上げる。そして腰に下げた、柄に紋章が刻まれた剣を同時に引き抜くと、切っ先を互いに向けあう。
 歓声が静まった。彼らは待ち望む試合がはじまるその瞬間を、固唾を呑んで見守っているのだろう。
 エアか、それともディナスか。どちらからともなく僅かに動くと、キン、と乾いた音を立てて、互いの刃が触れ合う。
 それが試合開始の合図だった。
 再び会場内は熱狂した歓声で支配された。ディナスの息遣いや足音はまったく聞こえず、彼の動きを察知するには目に頼るしかない。自然、片時も目を反らすまいと相手を睨みつける形になる。
 エアはディナスの刺すような視線を遮るように剣を振るった。今までの対戦相手ならば確実に脇を捕らえたはずの一撃だが、さすがにそう簡単にはいかない。エアの剣ははじき返され、歓声を裂くように金属音が響いた。
 ディナスは続けざまに剣を振るった。幾度も打ち付けられる剣を全てはじき返す、あるいは避けるのは至難の技で、エアは防衛に意識の全てを集中せざるを得ない。形勢を立てなおし反撃に出る事は難しく、しばらく防戦一方の状態が続いた。
 十を越える回数切り結んだ後に来た一撃は、体重の全てを一点に集中したかのように重かった。かろうじて受け止めたエアだったが、剣を握る両手が震えてしまう。押し返そうと力を込めると、震えは強まる一方だった。
 エアは静かに息を吐くと同時に、刃を傾けた。二本の剣は互いの中ほどで重なる事で膠着しており、傾く事で一方の力の流れが変わると、もう一方の力の流れも強制的に変わってしまう。
 ディナスの剣はエアの剣の上を滑り落ち、その切っ先を地面に埋めた。
 そこでうろたえなかったのだから、ディナスは冷静な剣士なのだろう。彼はすかさず剣を引き抜き、その勢いを借りて振り返り、剣を頭上に構える。
 エアが振り下ろした剣と、ディナスが振り上げた剣とが、火花を散らした。
 攻撃手を失ったのは、今度はディナスの方だった。不利な体勢で剣を構えるディナスに、エアはもう一度、万全の体勢から重い一撃を食らわせる。
 ひときわ大きな金属音が会場中に響き、歓声が途切れた。
 音と同時に、ひと振りの剣が宙を舞った。重苦しく風を切りながら幾度か回転し、ふたりから少し離れた地面に突き刺さる。
 会場中の人間の視線が剣に集中したが、それは一瞬の事だった。すぐさま、本人以外の全ての人間の視線が、ひとりの男に注がれたのだから。
 視線を集めた主――エアは、素手となったディナスの喉元に剣の先を突きつけていた。
「勝者、エア・リーン!」
 審判を勤める聖騎士団長、アシュレイ・セルダの声が響き渡ると、鼓膜が破れそうなほどの喝采がエアに注がれた。
 エアは剣を鞘に収め、ディナスとの礼を終えてから、エアの勝利を叫ぶ観客たちに振り返り、手を上げて応えた。どこを見渡してもエアの名を呼び、エアを称える者ばかりで、これまで冷静に勤めていたエアも思わず動揺し、息を飲んだ。
「おめでとう、エア殿」
 未だ歓声が鳴り止まぬ中で、ディナスはエアに言った。ディナスは敗北が確定したその時こそ大きく落胆していたが、今はそのそぶりも見せず、純粋な眼差しを傾けてエアを祝福している。
 その絵に描いたような好青年ぶりは、エアの好むところではなかったが、拒絶する事のできない魔力のようなものがあった。
「私は今回が最後の機会だったものでな。今年こそはと思ったのだが、君のような人物に敗北したのならば、悔いはない」
「ディナス様……」
「アシュレイ様との試合も頑張りたまえ。君ならば、あるいは」
 ディナスが右手を差し出して来たので、エアはその手をしっかりと握り、堅い握手を交わす。
「自信はありませんが……敗北したとしても、全力を持っての事だと胸を張って報告できるよう勤めます」
「観客席で応援しているよ」
 試合中はけして見せる事のなかった穏やかな微笑を残し、ディナスは踵を返して試合場を立ち去っていった。
 選手入り口の扉が閉まるその時まで、エアはディナスの背中を見送る。彼が視界から完全に消え去るのを確認してから、視線を動かした。
 エアが睨むように見つめた相手は、今現在観客の視線をエアと二分している人物だった。
 王や司教が腰を下ろす貴賓席よりいくらか段を降りたところに立っている青年――アシュレイ・セルダは、聖騎士団長の証である絹で織られた藍色の外套を脱ぎ、無言で階段を降りてくる。そして観客席と試合場を遮る重厚な扉を開き、エアと同じ場に立った。
 やや長めの黒髪がゆるい風に揺れ、品のある端整な顔を撫でる。客席に数多く見られる女たちは、戦いそのものよりもこの男が目当てなのだろうと、エアは漠然と理解した。
 エアは体ごと向き直り、無言で近付いてくる団長を迎えた。
 観客たちの無言の期待がのしかかる息苦しさに耐えるため、意図的に周りを遮断した今、エアの意識の中には自分とアシュレイのふたりきりしか存在しなかった。不要な緊張が治まる代わりに、感情の底に沈めていたものが目を覚ましてざわめくのを感じたエアは、無意識に剣の柄に手をかけていた。
「まずは礼だ」
 穏やかな笑みを口元に浮かべ、アシュレイは窘めるように言う。
「武術大会の優勝者と聖騎士団長の手合わせは、本日一番の余興だ。注目も一番集まる。これまでの努力を無駄にしたくなければ、聖騎士団員として恥じない態度で臨め」
 従う事は悔しかったが、逆らうために不利を負うほど愚かではなく、エアは美しい姿勢で直立し、深々と礼をした。

 二本の剣の切っ先が触れ合う。
 小さいが歓声を縫って人の耳に届くその音が試合の開始を会場中の者に伝え、逃れようのない熱が再びエアたちを襲った。
 エアが素早く切りかかり、アシュレイがそれをはじく。ほとんど間を空けずに鳴り響く金属音は、音楽を奏でているかのようだった。
「よくここまで来たな」
 アシュレイに剣を受け止められ、それ以上進む事も引く事もできなくなったのは、ちょうど十撃目の事だ。膠着した二本の刃がぎりぎりと鈍い音を立てる。
「来いと言ったのは、お前だろう」
 エアは言葉遣いも気にせず、冷たい声で吐き捨てるように言った。
 試合会場と客席には大きな距離があり、通常の状態でも大声を出さなければ声は届かない。その上、今は観客のほとんどが唸っている。この状態ではアシュレイ以外の誰に聞かれるわけでもないのだから、これで構わないだろう。アシュレイは不愉快かもしれないが、彼の機嫌を取る気などエアには毛頭なかった。
 忘れもしない。この男こそが、エアの幸福を、エアが最も大切にしていた存在を、奪い取ったのだ。
 実際にエアからリリアナを奪ったのはアシュレイではない。だが、エアの目の前でリリアナを連れ去った実行犯は紛れもなくアシュレイであり、呪いに似た憎悪を抱かずにはいられなかった。手合わせ中の事故と称して命を奪っても、罪悪感など湧かない自信があるほどだ。
「お前、言ったよな。三年前。忘れるといい、って」
「ああ」
「悔しいがお前の言う通りだった。忘れれば楽になれるって、この三年間何度も何度も何度も考えたよ。でも」
「忘れられなかったか」
 剣の刃から柄、柄からエアの手に伝わる感覚の変化に戸惑い、エアは後ろに跳ねてアシュレイから離れた。その判断が正しかった事は、それまでエアが居た場所にアシュレイの剣が振り下ろされている様子を見れば明らかだ。
 あと一瞬遅くなっていればどうなっていたか。
「本気で殺す気か」
 アシュレイは答えず、次の一撃を振り下ろす。エアは素早い動きでそれを避け、アシュレイの頭に向けて剣を薙ぐ。
「それはこちらの台詞ではないか」
 エアの一撃を受け止め、アシュレイは言った。避けられなかったら死んでいたのは、彼も同じだったからだ。
 再び膠着状態に入り、観客の興奮で空気が震えた。
 苦痛にも苦労にも歪む事のない嫌味なほど端整な顔を、どうしたら歪ませてやれるのかとエアは考える。エアに不幸と言う単純な言葉だけで片付けられない不幸をもたらしたのは、この聖人ぶった男であったから。
『忘れるといい』と言った男。そして、『忘れられないのならば、もう一度会おう』と言った男。
 この、世界中で最も憎い人間に再び出会うために三年を費やした事実は、エアにとって屈辱以外の何者でもなかった。傷付けられないのならば、殺せないのならば、二度と会いたくない人物であったのだから。
『――手を組もう。私の力があれば、君は大切な人を取り戻せる。会いに来るのだ、私に』
 三年前の記憶は、今でも鮮明に残っている。涙に歪んだ視界に、悲哀の輝きを秘めた紫水晶の瞳が映った時の事も。
 あれほど不愉快に思っていた男の言葉をなぜ信じられたのか、今になってもエアには判らない。だがあの瞬間、錯覚かもしれないが、エアは思ったのだ。この男は、エアの苦しみを理解しているのかもしれない、と。
 その日からエアにとってアシュレイは、深い憎悪を抱く相手であると同時に、残された唯一の希望となった。忘れる事も許す事もできないまま、ただこの男に会うために、言葉では語りつくせないほどの努力を重ねた。肉体を限界以上に駆使して剣技を会得し、礼節と勉学を学び――そうして難関と言われている聖騎士団の入団試験を通ったのだ。
 それが聖騎士団の歴史上、農民出としては三人目の快挙であると言う事は、入団してしばらく経ってから知った。アシュレイ・セルダ聖騎士団長が、聖騎士団に入団した程度では会えない人物であると言う事実と共に。
「見違えたな。背も伸び、逞しくなった。顔つきもまるで違う。別人のようだ」
「三年前鍛え続けたんだ。嫌でも変わる。それより、先に言っておけ」
「何を?」
「お前に会うには奇跡を起こさなければいけないと言う事を、だ」
 アシュレイがエアの剣をはじき、ふたりは後方へ身を下げて距離をおく。互いに正眼に構えるが、その刃が触れるためには、あと一歩詰めなければならないだろう。
 エアは動けなかった。アシュレイはおそらく、動かないだけだ。そこにふたりの実力差が見えた気がして、エアは悔しさを堪えるために自身の唇を軽く噛んだ。
「先に言えば、君は諦めていたかもしれないだろう。言わなかった事を感謝してほしい」
 すう、と静かに息を吸ってから、アシュレイは動いた。瞬時に一歩の距離を埋め、しっかりと構えたはずのエアの剣を薙ぎ払う。
 構えと共にエアの体勢は崩された。アシュレイにわき腹や背中を晒す事にもなりかねず、これ以上身を崩すわけにはいかないと脚に力を込めて耐える。反動を利用し、アシュレイが居ると思わしき方向へ剣を振り上げた。
 そこにアシュレイは居た。だが、不自然な体勢から繰り出されるエアの攻撃に驚く様子も怯む様子もなく冷静に対応し、エアの剣を軽く受け流した。その勢いを利用してエアの体を倒し、肩を打ち付けたばかりのエアの首筋に剣を突きつける。
 完璧だ。どう体勢を立て直そうとしても首が切れる。反撃の術を思いつかず、エアは静かに目を伏せた。
「勝負あり、のようだな」
 今日一番の歓声が、アシュレイに降りそそいだ。
 アシュレイは剣を納め、客席に向けて手を上げながら歓声に応える。ディナスとの試合では男たちの野太い声が強かったが、今は女性の金切り声が強く主張し、彼の女性人気の高さを証明する事となった。
 エアは身を起こし、剣を鞘にしまった。
 エアにとってはアシュレイに会う事そのものが目的であり、武術大会で優勝する事も、彼と手合わせをする事も、特に望んでいたわけではない。だが、この男に敗北したと言う事実は純粋に悔しく、吐き捨てたい気分になった。
「奇跡が必要だったのだ」
 アシュレイは振り返り、エアと向き合う。
 向けられた瞳に輝く感情は三年前に彼が見せたものと同じ、悲哀。
 エアは無言で言葉の続きを待った。
「聖騎士団に入団し、武術大会に優勝すると言う功績。君がそれを得られなければ、条件は整わない。ここまで来られたからこそ、君は大切な人を取り戻す機会を得られたのだよ、エア」
「……は?」
「詳しい事は今夜話そう。夕食後、私の執務室に来てくれ」
 気軽に言うアシュレイに、エアはすぐさま反論した。
「無理だ。俺のような末端の団員がお前の部屋に近付こうとしても、止められる」
 エアは入団直後の経験から真実を語ったが、アシュレイは意味ありげに微笑んで流した。
「今までの君であればそうだろう。だが今日からの君は違う。武術大会の優勝者を労う程度の事は、過去の聖騎士団長は皆がやってきている事だ。誰も君を追い返したりはしないし、私の部屋に近付く事を疑いはしない。それに、君はもうすぐただの団員ではなくなる」
「……は?」
「伝統だよ。武術大会の優勝者には小隊長の地位が与えられる。小隊とは言え隊長格ならば、私と会う事は難しくない。しかも君には、尊い役目を担ってもらう事になるのだから、なおさらだ」
「尊い役目?」
「それも今夜話す事になるだろう。さあ、とりあえず礼だ」
 窘められ、エアは慌てて直立し、アシュレイに深々と頭を下げる。しばらくして顔を上げると、アシュレイはそばで見なければ判らないほど小さく肯いてから、その場を立ち去った。


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Copyright(C) 2006 Nao Katsuragi.