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一章 約束の日




 通路のところどころに備え付けられた燭台に灯る小さな炎は、暗闇を照らすには役者不足で、慣れない道を歩むには心許ない。だが戻って灯りを取りに行くのも面倒で、エアはそのまま進む事を選んだ。どうせ目的の部屋はこの通路の最奥で、間違えようがないのだから。
 聖騎士団の中でも上位の役職を持つ者たちに与えられた部屋が並ぶその通路は、伝達役などでもない限り、エアのような新人騎士が通れる道ではない。伝達ですらよほど緊急の用でない限り隊長格を通すのだから、エアの同期でここを歩いた事がある者は居ないだろう。
 今から半年前、入団して間もなくのエアは、通路に足を踏み入れようとした瞬間引き止められた。アシュレイ団長に合わせてほしいと言っても取り合ってもらえず、苦い思いをしたものだ。
 それが今は、顔を見ただけであっさりと通してもらえるのだから、変われば変わるものである。「武術大会の優勝者」と言う肩書きは、少なくとも聖騎士団の中では絶大な威力を発揮するものらしく、その現実に半ば呆れながら、エアは暗い道を進んでいた。
 響き渡る自身の足音を耳にしながら進むと、やがて突き当たりに到着した。そこには扉がひとつあり、はめられたプレートに名前が刻まれている。もちろん、アシュレイ・セルダの名だ。
 エアは静かに息を吐き出してから、扉を叩いた。間もなく、「どうぞ」と返事がきたので、扉を開ける。
 部屋の主は広い机の前に座っていた。机上には数枚の書類が広げられており、何らかの仕事をしていたようだ。
 アシュレイは手にしていたペンを置き、広げていた書類のうちの二枚を手にとって席を立つと、小さなテーブルを挟んで向かい合わせに置かれている応接用のソファの片方に座るよう、エアに進めてきた。
 言われるまでもなくソファに歩み寄っていたエアは、深々と腰を下ろす。傍若無人なエアのありように呆れたか、僅かに苦笑を浮かべたアシュレイがエアの向かいに座るまで、少し間があった。
「それで?」
 アシュレイと向かい合って座っている事はエアにとって苦痛でしかなく、その状況から一刻も早く逃れるために、エアは颯爽と話を切り出した。
「そう急くな」
「こっちとしては、早く用件を済ませて出て行きたいんだ。お前がリリアナを取り返す術を知っていなければ、会話もしたくないし顔も見たくないくらいなんだからな」
「それは申し訳ないな。では、もうしばらく我慢してもらおうか」
 エアがあからさまに不快を示しても、アシュレイは機嫌を損ねる様子は見せなかった。何とも無いかのように大らかに受け入れてしまう。
 その聖人ぶった態度がエアを余計に苛立たせるのだが、本人はおそらく自覚していないだろう。常に自分が正しいと思い込んでいるに違いないのだ――エアからリリアナを奪ったあの日さえ。
「君の想い人が今どこに居るのか、それはもちろん知っているな?」
 エアは無言で肯いた。
「砂漠の神殿、だろう」
「そうだ。リリアナ様は砂漠の女神として、国の安定のため尊い職務を全うされている」
 アシュレイの口から語られた無常な真実に、エアは自身の心臓が跳ねる音を聞いた。胸元に走る鈍い痛みと息苦しさに耐え切れず、自身の胸倉を掴み、動悸を沈めようとする。
 砂漠の女神。天上の神エイドルードの妻の別称。
 何度耳にしても慣れないその呼び名は、エアに途方もない苦痛を与えてくる。自分の妻になるはずだった少女が、神の妻として人々に崇められている現実を、受け入れられるはずがないのだから。
 受け入れられれば、忘れられれば楽なのだと、判っていても。
「我々聖騎士団には年に一度、砂漠と森の神殿に物資を届けると言う任務がある。その際結果報告が私の元に来るのだが、リリアナ様はご息災のようだ。儚げな微笑みを浮かべながら、『大陸を守るために祈るこの役目を、誇りに思います』と、言っていたそうだよ」
「……そうか」
 エアは静かに目を伏せた。
 三年前、大きな瞳に大粒の涙を浮かべ、震える手で縫いかけの花嫁衣裳を手放したリリアナを、今でも鮮明に思い出せる。逆らう事をせず、己の運命を享受し、アシュレイの導きにしたがって迎えの馬車に乗り込んだリリアナを。
 彼女は判っていた。エアの元を離れなければ、地上の女神として祈り続ける任務を背負わなければ、エアを含めた国そのものを失う事になるのだと。だから約束していた未来を諦め、運命に従った。
 そんなリリアナを立派だと思う。彼女がその道を選んだのならば、認め、諦め、故郷の小さな村でひとりで暮らすべきかもしれないと思う。
 けれどやはり、認められないし、許せないのだ。多くの人間の幸せのために、自分たちだけに犠牲を強いた存在が。
「さて、本題に入ろう。君の想い人たるリリアナ様を取り返す方法はひとつしかない。砂漠の神殿に行って、力ずくで奪い返す。それだけだ」
 エアは咄嗟にアシュレイを睨みつけた。
「そんな子供でも考えつくような事を聞くために、俺は三年間も費やしたのか」
「話を最後まで聞いてほしい。これは、誰にでも考えつくような事ではあるが、誰にも不可能な事なのだ」
 エアは口を噤んだが、視線を緩める事はしなかった。
「砂漠は天然の要塞だ。常に嵐が吹き荒れ、侵入者を迷わせて命を奪う。物資輸送隊以外の何人たりとも、砂漠の神殿に到達した者はいないのだ」
「それで?」
「言い方を変えようか。輸送隊ならば、砂漠の神殿に辿り着けると言う事だ。そして天然の要塞であるからこそ、武力での守りは薄い。神殿には女神の世話をする女たちが二十数人居るだけで、彼女たちのほとんどは武術の心得がない」
 アシュレイの言わんとしている事を漠然と理解したエアは、アシュレイを睨むのをやめて言葉の続きを待った。
「砂漠の神殿に無事に辿り着くためには、合言葉たる二つの神聖語と、複雑に入り組んだ迷宮を越えるための地図が必要だ。これは絶対的な機密事項であるが、任務を果たすために必要な事であるから、当然輸送隊の隊長には司教様より伝えられる」
「つまりお前は、俺を砂漠の神殿への輸送隊の隊長に任命してくれるのか」
 自覚なく、エアは身を乗り出していた。
 それならば合点が行くのだ。アシュレイがエアに奇跡を強要した意味が、それならば理解できる。
 例年に習えば武術大会の優勝者は小隊長に任命されるとの事であるから、エアもそうなるのだろう。物資輸送ならば小隊程度に任せるべき任務であるから、団長であるアシュレイはエアに砂漠の神殿に行くよう命じる事ができる。つまりエアは、アシュレイに会うために研鑽を重ねる事によって、リリアナに会う権利を得たのだ。
 もちろん、エアはリリアナに会うだけで満足する気はない。砂漠の神殿に辿り着けたなら、そのまま連れ帰るつもりだ。そのためには共に任務に向かった聖騎士たちや砂漠の神殿でリリアナに仕える者たちを振り切らなければならないが、武術大会に優勝できるだけの剣術は、そこでも役に立つだろう。
「期待に沿えず申し訳ないが、そこまではできない」
 アシュレイの告げた事実は、輝きを取り戻したエアの瞳を再び陰らせた。
「なっ……」
「砂漠の神殿への道は森の神殿への道よりも険しい。それ故に、いくら武術大会に優勝したとは言え、新人の君に任せる事はできない。砂漠の神殿への輸送は長年聖騎士団に所属する者に隊長を任せ、武術大会の優勝によって新たに隊長に昇格した者には、森の神殿への輸送を任せるのが暗黙の了解となっている」
「……それじゃあ、意味がない」
「ところが、そうでもない」
 アシュレイはテーブルの上を滑らせ、二枚の書類をエアの前に広げた。
 一枚目は任命書だ。来月の頭付けでエアを第十八小隊長に任命する事が記されたそれの最後には、嫌味なほど流麗な筆跡で聖騎士団長の署名が入っている。
 もう一枚は命令書。第十八小隊を率い、森の神殿への輸送任務を遂行するようにと指示が記され、こちらもやはりアシュレイの署名が入っていた。
「私は君が国の平穏を保つための被害者である事を知っている。君が世を呪い、神を呪う事は当然と考えるし、君が結果として国の崩壊に繋がる望みを抱いている事も仕方がない事だと考える。だから君を責めるつもりはないと先に言い訳をしておこう」
「前置きが長い」
「そうだな。では聞くが、君は、君とリリアナ様以外の人間が背負った運命について、考えた事があるだろうか。君たちと同じだけの苦しみを知る者たちの存在に、気付いているだろうか」
 エアは眉をぴくりと動かした。口元に置いた手が強く拳を握り、喉まで出かかった言葉を口内で押さえ込む。
「自身の不幸に酔うなと言いたいわけではない。ただの事実だ。そのくらいの事は判るだろう?」
 エアは無言で肯こうとしたが、首は動かず、代わりにゆっくりと目を伏せた。
 地上の女神と呼ばれる存在は、ふたり。砂漠と森にひとりずつ。
 言われるまでもない、当たり前の事だった。それでも、今まで気付かなかった。エアは自身を愚かだと思ったが、反省する気や笑い飛ばす気にはならなかった。
「この国には、森の神殿への道を知りたがっている者が居る」
 エアは乾いた笑みを浮かべた。
「忘れる事ができなかった、哀れな男か」
「そうだ。だが、忘れられなかったからこそ、君の望みは断たれなかったのだ、エア」
「……どう言う事だ」
「その人物はかつて輸送隊を率いる任務を果たした事があり、砂漠の神殿への道を知っている」
 反射的に、エアは両目を見開いた。今度こそ、アシュレイが言わんとすべき事を知り、エアに残された道を理解するに至ったからだ。
「交換条件、か」
「多少遠回りになるが、他に道はない」
「そうみたいだな」
「奇跡を強いた私に、感謝する気になったか?」
 得意げに微笑むアシュレイを喜ばせる返事をする気にはなれず、エアは二枚の書類を手に取ると席を立った。
 リリアナを失った事を嘆いているだけでは耐えられず、ならばリリアナを取り返すべく前に進もうと、三年前にエアは誓った。だから、誓いにもとる事のない道を示してくれたアシュレイに、感謝の念がないと言えば嘘になる。
 だが、この男にだけは本心を伝える事は許されない。他の誰でもない、エア自身が許せなかった。
「地図は任務が終わり次第司教様に返還しなければならない。つまり写しを作ってもらう事になるが、その作業を誰かに見られれば、疑いがかかってそこで終わりだ」
「判っている」
 そっけない返事だけをそこに残し、エアはアシュレイの部屋を出ようと扉に歩み寄る。
 しかしその扉を開けるためには、まだ胸の奥にわだかまりがあった。
「どうした?」
「アシュレイ。ひとつ、聞く」
「……なんだ?」
 エアは労わるような手つきで扉に手を置いた。
 ひんやりと冷たい温度が手のひらに伝わり、それは三年前にエアを襲った闇を思い起こさせる。
「お前はなぜ、俺を止めない? 俺が望みを叶えれば、大陸の崩壊がはじまるかもしれないと知っていて」
 アシュレイからの返事はすぐに来なかった。
 部屋の中に訪れた沈黙は、問いかけた事を後悔させるほどに冷たかったが、エアはその場を逃げ出さずに答えを待った。
「そうだな。君の知らないふたつの事柄を、私が知っているからだろう」
 思わせぶりにそう言ったきり、アシュレイは再び沈黙した。
 しばらくは扉を見つめたまま待っていたエアだったが、沈黙の長さに待ちきれず、振り返る。
 アシュレイはエアを見ていなかった。エアとは反対側にある窓の方に視線を向け、目を細めながら夜空に輝きはじめた星を眺めていた。
「ひとつは、君がリリアナ様を連れて逃げたとしても、大陸が崩壊しないであろう事」
 語られた予想外の事実に驚き、エアは息を飲んだ。それは、エアからリリアナを奪った人物が言って良い事ではなかったからだ。
 ならばなぜ、エアからリリアナを奪った?
「ああ、勘違いしないでほしい。女神が必要ないと言っているわけではないのだ。女神が祈りを捧げなければ魔獣は復活し、神の恵みも、生きる大地も、命すらも、私たちは全てを失うだろう」
「ならば」
「だが、二百年ほど前にこういった事例がある。司教様がエイドルードよりお告げを受け、聖騎士団は新たな森の女神ランディア様を探したが、一年ほど見つからなかったのだ。しかし大陸は崩壊しなかった。それまでミルラ平原と呼ばれていた地が裂け、ミルラ峡谷と呼ばれるようになったが」
「それは大事じゃないのか」
「もちろん大事だ。だから君が今すぐリリアナ様を取り戻そうとするのならば、私は止めるだろう。もう少し待ってほしいと願うだろう。君も、リリアナ様と共に生きる世界を失いたくはないだろう?」
 そこまで言われては、エアも素直に肯くしかなかった。
 アシュレイの語る真実は、女神の祈りがなくとも平和の崩壊がすぐにはじまるわけではないとエアに教えてくれた。だがそれと共に、女神の存在はやはり魔獣を封印するために必要不可欠なものだとも教えてくれたのだ。
 世界が果てしなく広いと言う真実を言葉でしか知らず、自分たちが暮らす農村とそこから見える山や森だけが世界の全てであったリリアナが、今は何と重いものを背負っているのだろう。それを思うと胸が軋み、アシュレイの目さえなければその場に崩れ落ちたいほどだった。
「もうひとつは、なんだ」
 恐怖でも高揚でも嘆きでもなく、なぜか震える体を抑え、エアは問うた。
 アシュレイは眼差しを細める。引き締めた唇は、エアと同様に震えを抑えているようだった。
「任期を終えた女神は、けして生還しない事」
 エアは返す言葉もなく、無言で立ちつくした。
「五年の任期を終えて帰ってくるならば、私は君に『忘れるといい』とは言わなかっただろう。こんな事に協力しようとも考えなかっただろう。彼女を想う気持ちが本当ならば五年待てと、それだけを君に強いたはずだ」
「どうなるんだ。任期を終えた女神は」
「私が知る限りは全員、骨になって帰ってきた」
 アシュレイは細めた目を伏せ、それまでけして歪める事のなかった端正な顔に深い苦悩を刻み、静かにため息を吐いた。腹の中に眠らせていた闇を、静かに搾り出すかのようだ。
 だがエアは、アシュレイが吐き出した闇の中から感じとれる強い嘆きや罪の意識に、同調する気にはならなかった。
「なぜ、それを早く言ってくれなかった。もし俺が、忘れる事を選んでいたら」
 独白のように言葉を漏らすと、アシュレイは目を開けてエアを見上げる。
 エアがもしも、リリアナを忘れていたら。奇跡を起こせないと諦めて、ここに立っていなかったら、リリアナは。
「強い熱意と覚悟を見たかった。彼女のためでなく、自分の願いのために奇跡を起こそうとする意思を。誇るといい、エア。君は神と対峙する権利を得た」
 エアは怒鳴りつけてやろうと口を開けて息を吸ったが、それをせずに乱暴に扉を開けた。
 逃げるように部屋を出、乱暴に扉をしめると、半ば駆け足で通路を進む。
 頼りない蝋燭に僅かに照らされただけの、暗い道を。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.