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一章 約束の日




 早朝に吹いた風は、温かで甘い香りを伴う風だった。
 緩やかな風は時に草木を揺らし、水面に波紋を刻み、砂を舞い上がらせる。そうする事で、早朝から働く者たちに爽やかな感動を与えていく――僅かな温もりと花の香りによって冬の終わりを知った人々の表情に、柔らかな笑顔が浮かんでいく事で、風は己の使命を果たした事を知った。
 だが風は、頑強な壁の前にはあまりに無力だった。太陽が昇りはじめたばかりの時分、未だ室内で眠りの中にある者たちに、春を伝える事ができないでいる。
 何の力も及ぼせず、ただ跳ね除けられるしかなかった風は、やがて昨晩から閉じ忘れられたままの窓の隙間を見つけた。ここぞとばかりに隙間から忍び込んだ風は、未だ覚醒を知らない部屋の主の鼻腔を優しくくすぐった。
 優しい甘さによって、青年の意識は夢の中から現実へと引きずり出される。
 寝返りをうってから目を開けると、風と共に飛び込んできた光の眩しさに怯み、青年は慌てて目を閉じた。しばらくしてからゆっくりと目を開く。
 眩しさと、花の香りと、風の温かさ。
 それは、故郷に春の訪れを伝えてくれた、森の奥の花畑を思い出させた。胸を軋ませる、けれどとても優しい、少女の笑顔と共に。
 青年はゆっくりと目を伏せた。今一度眠りに落ち、夢の世界へ旅立ちたいと望んだからだ。
 温かな思い出が蘇った今ならば、幸せな夢が見られる。そんな予感があった。

「遠い昔に、本当にあったお話よ」
 エアはリリアナの、幼い弟たちに語りかける優しい声が好きだった。
 三人の弟と、弟の友人たちを狭い部屋に集めて、彼女はゆっくりと語りはじめる。大人、いや、ある程度歳を重ねていれば子供でも知っている、神話を。
 エアも幼い頃、こうして自分より少し年長の者たちに幾度も語って聞かされた。今では自身で語れる程度に知っているが、当時の自分にとっては新鮮で、壮大で、何よりも興奮する物語だった。今リリアナを囲んでいる子供たちのように、目を輝かせながら聞き入っていただろう。もう一度聞かせてと話をせびったのも、一度や二度ではない。
 子供たちの輪から離れ、部屋の隅から見守りながら、エアは懐かしい感情を思い出していた。幼い頃の自分が妙に恥ずかしくなり、誰も自分を見ていないと知りながらも俯いて顔を隠すと、耳朶をくすぐる優しい声が、別の記憶を呼び起こしていく。
 この話を聞く時、いつも隣に居た少女の声。
 懐かしさと愛しさが、同時に胸の中に湧き上がる。
「昔この大陸は、僅かな恵みのみの枯れた地で、人間たちは生きるために必死に働いて暮らしていたの。けれど、大地を荒らしてその僅かな恵みすら奪い、人間たちを傷付ける魔獣が、この大陸に現れてしまった。そうして人間たちは、立ち向かう事もできない強大な力を持つ魔獣を前に、命と未来を諦め、絶望に飲み込まれていったのよ」
 ごくり、と、リリアナの弟は唾液を飲み込み、喉を湿らせる。彼が子供特有の果てしない想像力で、自分自身を恐怖に陥れたのだろうと想像したエアは、話の腰を折らないよう、気付かれないように笑った。
「そんな時、この大地を救ってくださったのが、今は天上におわす神、エイドルード!」
 場を盛り上げるため、リリアナが声を大きくすると、話に聞き入る子供たち全員が目を大きく見開き、輝かせた。
「神と魔獣は、地上で死闘を繰り広げたわ。二十二日間も続いた激しい争いで、双方とも深く傷付いた。やがて勝利を治めたのは――」
「エイドルード?」
 リリアナは力強く頷いた。
「もちろんよ。エイドルードはそうして私たち人間を、この大地に生きる全ての命を、お救いくださったの。けれど、エイドルードも長い争いに傷付き疲れていたから、魔獣を滅ぼすにはいたらなかった。代わりに、魔獣を地中深くに封印したのね。そうしてエイドルードは、魔獣に負わされた深い傷を癒すために、天上へと昇られた」
 他人に安堵と温もりを与えるリリアナの笑みに力付けられたのは、エアだけではないようだった。魔獣が倒れたのみで命が潰えなかった事に恐怖していた子供たちも、ほっと息を吐き、満面の笑顔を浮かべている。
「でも、それじゃあ、封印が解けたら、大変だよね?」
「そうね。魔獣は再び地上に現れて、大地の恵みを奪い取り、私たちを傷付けるでしょう。明日食べるものも無くなって、苦しい思いをしなければならないかもしれない。特に、食いしん坊のカートはね」
 名指しされたリリアナの一番下の弟は、辛そうな顔をして腹を抑えた。不安に輝く瞳が、救いを求めて宙を彷徨い、やがてエアを見つめる。
 エアは小さく笑って頷き、視線をリリアナに向けた。リリアナの小さな弟は、エアにつられてリリアナに視線を向け、話を続けるリリアナの唇を凝視する事となった。
「心配しなくても大丈夫よ。エイドルードは天上に帰られたけれど、それでも地上の民を守ってくださっているの。地上の民からふたりの妻を選んで、彼女たちを通じて天上から地上に力を送り、魔獣を地中深くに縛り続けているのよ。それだけじゃなく、枯れかけていたはずの地上に、豊かな恵みをも与えてくださっている。だから、私たちは平和にのどかに、お腹いっぱいご飯が食べられるのよ」
「へー!」
「感謝しましょうね。天上の神エイドルードに」
「うん!」
「毎日しっかりお祈りするのよ。天上の神と――それから、地上の女神と呼ばれる人たちに」
 リリアナが首を傾けて天を仰ぎ、目を伏せ、額の上で両手を組んで祈りはじめた。
 子供たちも同じポーズを取ったが、リリアナのように純粋な祈りを捧げているわけではなく、今日明日の幸福を夢見ているだけだろう。それでも、同じ話を何度も聞き、同じ感謝を繰り返し捧げる事で、やがては聖なる祈りになっていくのだろう。
 エアは姿勢を正してから、同じように祈った。今日までの幸せが永遠に続くよう――いや、更なる幸せが、自分たちに訪れるよう。
「じゃ、遊びにいこーぜ!」
「おう!」
「今日こそあの木、登ってやっからなー!」
「カートにはまだ無理だって」
「なんだと!」
 エアの祈りは未だ終わっていなかったが、子供たちにはそんな事お構いなしのようで、はしゃいだ声と荒い足音を立てながら、次々と部屋を飛び出していった。
 残されたエアは呆気に取られて、リリアナは不服そうに眉間に皺を寄せて、子供たちの背中を見つめていたが、やがて子供たちの気配が家の中から完全に消え去ると、顔を見合わせて笑った。
 神への祈りをおざなりにするなど許される事ではなく、子供たちよりもいくらか歳を重ねたふたりは、彼らを追いかけ、注意し、叱りつける立場にあるのかもしれない。だが、無邪気で、身勝手で、当たり前に与えられるものへの感謝をおろそかにする――そんな時代の気持ちをすっかり忘れ去るには、ふたりはまだ若すぎた。
「もう。みんな、誰かさんの子供の頃みたいね」
「人の事言えるのか? 確か、最初に話を聞いた時、俺より先に飛び出したやつがひとり居たはずだけどな」
「……さーてと、じゃ、今夜の準備のお手伝いに行ってこようかな」
 嫌味にも似たからかいの言葉を軽く流して、リリアナは立ち上がった。
「もうか?」
「あら。準備は早くからやるにこした事ないでしょ? 成人をお祝いする宴なんだし。それだけ丁寧に祝福してもらえるんだから、祝われる人は喜ぶべきじゃないの?」
「それは、そうなんだけど、な」
 確かに今日はエアの十六歳の誕生日で、それはつまり、エアが大人として認められる日であるのだが、昨日までが子供で今日からは大人なのだと突然言われても、あっさり納得できるものではなかった。
 陽が落ちて夜となり、宴の時を向かえれば緊張感が増し、自覚が生まれるかもしれない。だが宴の準備もはじまっていない今では、まだ難しかった。
「宴の最中は男の人たちの宴会がすごくて近寄れないかもしれないし、宴の後はお酒に飲まれてる可能性が高いし、だから今のうちに言っておくわね。成人おめでとう、エア」
 リリアナはエアの前に立つと、にこりと笑ってエアに手を差し伸べた。
 少し戸惑ってから、エアはリリアナの手を取り立ち上がった。掴んだ手は名残惜しく、なかなか手を離せない。ごまかすように、じっとリリアナを見下ろした。
「エアが成人なんてびっくりしちゃうけど、こうしてみるとやっぱり、大人になったよね。昔は同じくらいだったのに」
 自身の頭に手のひらを置いたリリアナは、その手をゆっくりとエアの方へずらす。
 白く柔らかな手がエアの唇に触れると、エアはどきりとした。
「大人になるのはあと三ヶ月たらずで追い着けるけど、身長は一生追い着けないなあ」
「……女がこれだけでかかったら気味悪いだろ。俺はもう、村で一番でかいんだぞ」
「そうでした」
 くすくすと甘い笑い声が、耳を通ってエアの脳内に響き渡った。
 甘美な誘惑にも似たそれを、受け入れるでもなく振り払うでもなく、エアは一瞬目を伏せてから、リリアナの手をぐっと握り締める。
「っつ……」
「あ、悪い」
 リリアナが顔をしかめたので、エアは手を少しだけ緩めた。
「もう、何なの?」
「えっと……宴の準備なんて手ぇ抜いていいからさ、ちょっと付き合えよ」
「普通宴の主役がそんな事言う? まあ、女の人たちの集合時間はお昼過ぎだから、時間あるけど」
「よし」
「どこ行くの?」
 エアはリリアナの手を引いて歩きはじめた。
「お前に見せたいものがあるんだ」
 ふたりは部屋を、家を、村を飛び出して、森を進んだ。幼い頃よく遊んでいたあたりを越えて、森がいっそう深まると、リリアナは少し不安そうになる。そんな時、エアが手を握る力を少しだけ強めると、リリアナは小さな笑顔をエアに向けるのだった。
 人が滅多に歩かない道は歩き辛く、リリアナはしょっちゅう木の根に突っかかったり、土に足をとられたりしていた。そんな彼女の手を引いて森を進むのは、正直言えば大変だったが、彼女の喜んだ笑顔と引き換えならば、苦労とは思えなかった。
 リリアナが喜ばなかったらどうしようと言う不安は、少しある。だが、それをあっさりとかき消せるほどに、喜んでもらえる自信がエアにはあった。
「ねえ、どこまで……」
「ほら、見てみろよ」
 リリアナが不満と不服を言葉に現しはじめたと同時に、エアは目的地に到着した。腕を使って藪を掃い、視界を開く。
 リリアナは軽く首をかしげながら、隙間を縫って、エアが視線を向ける方向を覗き込んだ。
 そこには、赤、桃色、橙色、黄色、白、紫、青――知っている限りの色が、太陽の光を心地よさそうに浴びながら存在していた。
「……すごい」
 リリアナは一瞬だけ呆けた顔をして、それからすぐに、エアが期待した通り、満面の笑みを浮かべる。幾度も幾度も「すごい」を繰り返して、「近くで見よう」とエアが声をかけると、ためらわずに着いてきた。
 甘い香りに誘われる虫たちように、ふたりは花畑の中に足を踏み入れる。そこだけが他の場所よりも明るく強く、エイドルードの恵みを与えられたかのようだった。
「どうして? 村の近くの花畑は、ようやくいくつかつぼみが膨らみはじめたばかりで」
「不思議だろ? 俺も昨日たまたま見つけてさ、びっくりしたんだ。びっくりして、んで、お前を思いだした。お前、春が好きだから、これ見たら喜ぶだろうなって」
 頷いたリリアナは、花畑の中にしゃがみ込んだ。
 さっきまで子供たちに神話を語って聞かせていた少女と同一人物とは思えない、幼女のように無邪気な笑顔を見せていた。摘もうとしたのか茎に手をやったかと思えばためらい、諦め、膝を抱えて花たちをじっくりと眺めている。
「連れてきてくれてありがと、エア」
「大した事じゃねえけどな」
「大した事だよ。すごく嬉しい」
 眩しげに、愛しげに目を細めて、リリアナはそれだけ言った。その横顔は幸福に満ちていて、彼女はどれほど春を愛しているのかが、無言でも伝わってきた。
 喜んでいる彼女を見られて嬉しい。だが、自分そっちのけで花と戯れている彼女が少し悔しい。
 人間相手や動物相手ならばまだともかく、季節に対して僅かながらも嫉妬を抱く自分が滑稽で、エアは己の頭を抱えて思考をかき消した。
「どうして春が好きなんだ?」
 常々抱いていた疑問を投げかけるのも、思考を切り替える方法のひとつだった。
 もっとも春と言うのは、誰もが――もちろんエアもだ――愛する季節であるから、聞かなくとも何となく答えを想像する事はできたのだが。
「冬がね、あまり好きじゃないの。時折降る雪は真っ白で綺麗だけれど、寒いし、冷たい水で手が荒れてしまうでしょう。それに、枯れた木々や土の茶色とか、薄暗い空色くらいしか目に映る色がないのも、寂しいと思わない?」
「まあな」
「だから春が好きなの。冬の終わりを告げてくれる春。華やかで明るい世界を、みずみずしく色付いていく景色を見ると、楽しくて幸せな気分になれるし、吹き込んでくる隙間風に身を凍えさせる事もないし、それに――」
 エアと私が生まれた季節だからかもね、と、はにかみながら続けるリリアナが愛しすぎて、エアはたまらず彼女を抱き寄せた。リリアナは頬を染め、身を強張らせたが、けしてエアの腕から逃れようとはしなかった。
 互いの服を介して伝わってくる温もりが、胸に少しの苦さと、途方もない心地良さを与えてくれる。
 夢のようだった。
 エアに温もりを与えてくれる全ての存在が消えてから、焦がれ続けていた温もり。それが今、こうして胸の中にあるのだ。
 無意識に笑みを口元に浮かべ、幸福に酔っていたエアは、しばらくしてようやくリリアナをここに連れてきた一番の目的を思い出した。
 十六歳の誕生日、成人を向かえるその日に、逃れられない強い感情を彼女に伝えようと決めた。狭い村の中は何となく嫌で、どこで伝えようか悩んでいる時にこの花畑を見つけた時は、天の啓示かと思ったものだ。
「えっと、さ。リリアナ」
「何?」
 覗き込むように見上げてくるリリアナの愛らしさに、言葉にする勇気が徐々に失われていく。エアは彼女から顔を反らし、気付かれないように静かに、深く深呼吸をした。
 それでもはっきりと言えるだけの勇気は戻ってこない。昨晩寝る前、何度も何度も練習してみたと言うのに、あの練習の意味は何だったのか。
「えっと、その、来年もここ、ふたりで見に来ような」
「……うん」
 来年まで引き伸ばすつもりがあるわけではない。エアは硬く目を瞑り、声の震えを必死に抑えて続けた。
「再来年も」
「うん」
「その次も、その次も……ずっとだ」
 もっと直接的に判りやすい表現で伝える予定だった言葉は、ひどく湾曲的な言葉へと変わってしまった。これでは言葉に込めた真意が伝わらない可能性もあり、確かめるために恐る恐る目を開けて、エアはリリアナを見下ろした。
 どうやらリリアナは、しっかりと理解してくれたようだった。いっそう赤く染まった顔を、両手で覆ってエアから隠している。
 ずっと一緒に居たかったのだ。
 性別の違いなどを意識する事もない幼い頃からずっと一緒に居たこの少女を、いつから愛しく想いはじめたのか、はっきりとは覚えていない。けれど、大切なものを失ってひとり泣いていたエアの手を、リリアナがずっと握り締めていてくれた時――温もりを与え続けてくれた時、この少女を好きで良かったと、心から思ったものだ。
 彼女を選んだ自分が、誇らしいと。
「馬鹿みたい」
 リリアナは顔を伏せたまま、震えた唇で言った。
 求婚の返事としては最悪の部類に入るその言葉を聞いて、エアの心中は穏やかではなかったが、リリアナが可憐な唇で何かを紡ごうとしていたので、黙って続く言葉を待った。
「今日は貴方の誕生日じゃない。それもただの誕生日じゃないのよ。十六回目よ。貴方が成人したと認められる、大切な誕生日。夜には貴方の成人を祝って宴がひらかれる。村のみんなから、たくさんの贈りものを貰うんでしょう」
「ああ、そうだよ。だから」
「そんな日に、そんな日に……こんな素敵な贈りものをくれるなんて。私は一体何を贈り返せばいいのよ」
 両手の隙間から覗く彼女の双眸は潤んでいた。少しの自惚れも手伝って、それが悲しみの涙では無いと確信したエアは、小さく吹き出して彼女の耳元に唇を寄せる。
「人に馬鹿って言っておきながら、お前の方がよっぽど馬鹿じゃないか」
「どうして」
「だって、そんなの簡単だろ。お前にしか言えない、俺が今一番欲しい言葉をくれればいいんだよ」
 エアはゆっくりと不器用に、リリアナの髪を撫でた。それから緩慢な動きで、リリアナの背に両腕を回す。
 優しい温もりと共に伝わってくる、早すぎる鼓動。もしかするとリリアナは、エア以上に緊張しているのかもしれなかった。
「花畑」
「ん?」
「来年も、一緒に見に来ましょう」
「ああ」
「再来年も」
「ああ」
「その次も、その次も、ずっと、ふたりで。ううん、子供が生まれたら、その子も連れてきてあげましょう」
 エアはリリアナを包む二本の腕に、強い力を込めた。
 他愛もない約束は、死が二人を分かつまで、果たされ続けると信じていた。

 あの日、愛しい少女の温もりに酔いながら、まるで夢のようだと思ったのは自分だ。だから本当に夢だと知った時、生きる気力を失うほどに落胆してしまうのは、筋違いなのだろうか?
 青年――エアは、寝台から身を起こし、首を振る事で、問いかける相手も答えもない問いを脳内から追い払った。
 エアは自身の目元を指で軽く拭った。優しい思い出を引きずり出した夢は、エアの目に温かな涙を滲ませるだけの力がある事を、過去の経験で知っていたからだ。
 だが、指先に液体の感触は無かった。
 エアの手より幸福が零れ落ちてから何年もの月日が経っており、その間に繰り返し同じ夢を見て、繰り返し泣いた。だから、涙など遠い昔に枯れてしまったのかもしれない――そう考えかけて、あるいは過去を愛しく思う必要がなくなったからかもしれないと思い直したエアは、窓から差し込んでくる光の角度で大体の時間を察し、やや慌てて着替えはじめた。
 愛しい事に変わりはない。だが、過去は過去なのだ。どれほど強く望もうとも、息苦しいほど平凡で退屈だった幸福の日々に戻る事は、もうできない。
 だからこそ全てを振り切り、前へ進む事に決めたのだ。立ちはだかる無数の壁を、蹴破るように前へ進む、と。それ以外に、エアが生きる道は残されていなかったのだから。
「エア殿」
 ちょうど身づくろいを終えたところで、部屋の扉が叩かれた。
「どなたです?」
「ルスターです。さすがエア殿。もう起きておられましたか。いつもより少し早いですが、そろそろ朝食を召された方がよろしいかと思い、迎えに来ました。エア殿には不要だったようですが」
「いいえ。ご親切に、どうもありがとうございます」
 エアは扉にかかっていた鍵を開け、ゆっくりと扉を開けると通路に出る。わざわざエアを起こしにきてくれたらしい、エアよりも頭半分ほど背が低く、エアよりもいくつか歳若い少年に対して一礼した。
 食堂に向けて歩みを進めるエアの隣にルスターは並んだ。少年が一歩歩くたびに少し癖のある蜂蜜色の髪が揺れ、細い輪郭を艶やかに撫でる。嫌味のない程度に整った顔に浮かぶ曇りのない緑の瞳に見上げられ、何となく居心地が悪くなったエアは、真っ直ぐ正面を見、できる限りルスターを視界に入れないようにした。
「いよいよ今日ですね。試合の事を思うと緊張してしまい、あまり眠れませんでした」
 エアは「お前が緊張してどうする」と口にしかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。
「私が緊張する事ではないと判ってはいるのですが、つい。まさか入団一年目である自分と同期のエア殿が、御前試合に出る事になるとは夢にも思わなかったものですから。我ら聖騎士団の長い歴史において、過去に十人とおりません。もし優勝と言う事になれば、現団長アシュレイ様に続く、二人目の快挙です」
「入団一年目とは申しましても、私は遅い入団でしたから。普通の――まだ体ができ上がるか否かの年齢で入団される方々よりはいささか有利で当然です。御歳十六歳で入団され、その年に優勝なされたアシュレイ様と並ぶには、恐れ多く思います。しかもあの方は、歴史上類を見ない若さで聖騎士団長を就任なされた方ではないですか」
「確かにアシュレイ様は優れたお方です。あのお方は、エイドルードに選ばれた方なのでしょう。ですが私は、アシュレイ様と同じだけの光を、貴方からも感じます」
 少年はエアを見上げる瞳をいっそう輝かせて言った。
 エアは「お前の目は節穴か」と言いたい気持ちをぐっと抑えなければならなかった。そのように品のない口ぶりや相手を蔑む言葉は、栄誉ある聖騎士団の一員である自分が使っていいものではなかったからだ。
 それに、ある意味でルスター言っている事は当たっている。自分も、エイドルードに選ばれた人間なのだろう――良い意味ではけしてないのだが。
「滅多な事をおっしゃるものではありません」
「……そうでしたね。聞く者が聞けば、貴方に歪んだ感情を抱くやもしれません。失礼いたしました」
「ですが、貴方のお気持ちは嬉しく思います。私の力でどこまで行けるかは判りませんが、少しでも上に行けるよう、全力を尽くしましょう」
 エアは可能な限り優しく微笑んだ。
「見ている事しかできませんが、私たち同期一同はエア殿を応援しておりますよ。ぜひとも優勝し、アシュレイ団長と剣を交えてください」
「頑張ります」
 エアが答えると、ルスターも微笑んだ。それからエアが鋭い視線で正面を見据えると、ルスターはそれ以上エアに何も言おうとはしなかった。エアは内心ほっとしたが、それを外に見せはしなかった。
 当たり前だ。誰に言われなくとも、誰の応援がなくとも、勝ち進んでみせる。
 それこそが、エアがここに居る意味。生きている理由に繋がるものなのだから。


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Copyright(C) 2006 Nao Katsuragi.