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序章 奪われた花嫁


「リリアナ!」
 乾いた地面の上にうつ伏せに突き倒され、抑えられた格好で、エアは叫んだ。顔を地面に押し付けられた今、叫ぶと同時に土の味がしたが、今エアを襲う悲劇と比較すれば問題にすらならない事だ。
「リリアナ!」
 情熱と渇望を秘めたエアの声は、喉を引き裂かん勢いで辺りに響き渡る。だからその叫びを聞いた者は、合わせて百を上回るはずであったが、その内の誰ひとりとしてエアの望みを叶えてくれようとはしなかった。
 エアは多くを望んでいるわけではない。エアの体を捕らえる者から、解放してもらえればそれで良かった。あとの事は、自分ひとりでやってみせる。はじめから他人などあてにしていない。奪われた大切なものを奪い返すのは、自分自身でやり遂げねば意味がないのだから。
「どけ! 離せ!」
 願いを直接的に口にしてみたものの、何の効果もなかった。エアが地に縛り付けられている間に、誰よりも愛した少女はどんどん遠ざかっていく。
「――リリアナ!」
 行かないで欲しいとの願いを込めて呼んだ。エアが何よりも強く焦がれたものを与えてくれるはずだった、三日後に神の名の下に永遠を誓い合うはずだった、これから先の一生を共に生きていくはずだった、愛しい少女の名を。
 だが、叫びは誰にも届かない。エアを拘束する者たちにも、エアに哀れみの視線を向ける村人たちにも、悲しげな瞳を反らしてエアに背を向けたリリアナ本人にも。
「リリアナ……!」
 車輪が回る音を重苦しく響かせながら、リリアナを乗せた馬車が遠ざかる。やがて姿が見えなくなると、残された轍を視界に入れる事に耐えきれず、エアは硬く目を瞑った。
 そうして闇と絶望に飲み込まれたエアの中で、悲哀、嫌悪、愛情、憎悪と言った感情が、熱く火花を散らしはじめた。どれが勝利を治めるかは、エア本人にも予想がつかない。全てが勝利者と成り得るし、全てが敗者と成り得るのだ。
 しばらくして双眸から涙が滲み出ると、エアは結果を悟った。激しい戦いの果て、全ての感情は複雑に融合し、膨れ上がったのだと。
 その感情は、エアを内側から徐々に蝕んでいった。この場に居る全ての人間が、空から地上を見下ろしているだろう偉大なる神エイドルードが――全てが呪わしく、憎らしかった。世界中の、全てが。
「返してくれ」
 エアは涙に濡れた目を開いて空を睨み、涙で震える声で言った。
「……返……せ……」
 一体何をしたと言うのだろう。
 約束された幸福を乱暴に奪われ、けれど抗う事も許されない。そんな罰を与えられるほどの罪を、自身やリリアナが犯していたとは、エアにはどうしても思えなかった。
 もし犯していたと言うならば、何をしたのか教えて欲しい。自覚していなかった事を恥じ、心から謝罪しよう。大切な者と引き裂かれる以外の全ての方法をもって贖おう。
 だから、返してほしい。
「リ――」
 再び愛しい少女の名を呼ぼうとして、胸の中の熱が喉に詰まった。声にならない願望はエアの中を駆け巡り、甦ったリリアナの笑顔が、胸と脳裏を支配する。
 滂沱たる涙がこぼれ落ちたが、それを恥じる気にはならなかった。みっともないと笑うなら笑えばいい。それでリリアナが戻るならば、いくらでも道化を演じてやる。
「手荒な真似をして申し訳ない」
 静かな美声で紡がれる謝罪と共に、エアを地面に押し付ける力が失われた。
 自由を手に入れた瞬間、エアは立ち上がった。馬車を追おうと地面を蹴ったが、それまでエアを捕らえていた青年が前に立ちふさがり、それ以上進む事はできなかった。人の足で馬の足に追い着けるはずもないのに、無駄な努力もさせないつもりらしい。
 エアが腕をがむしゃらに振り回し、体当たりをしたところで、鍛え上げられた青年はびくともしなかった。どうしようもなく、エアは首だけを少し動かして、青年を見上げた。
 彼こそが、大陸中の誰ひとり逆らえない権力を笠に着て、エアからリリアナを奪った張本人だった。
 人々の視線と女性の執着を一身に集められるほどに美しい青年で、黒い髪は上質の漆を思わせる滑らかさ、そこから覗く紫色の瞳は大粒の宝石のように輝いている。繊細な美の持ち主だったが、だからと言ってか弱さはどこにも無く、瞳の鋭さや立派すぎる上背、無駄な肉をすべて削り落として鍛え上げられた体躯は、農民の目から見ても判るほどに一流の戦士の風格を漂わせていた。
 大して難しい仕事ではないとは言え、王や大司教の書状を手に遣わされたのだから、それなりに身分も高いのだろう。平民には縁遠い絹の外套や、宝石の埋まった剣を身に着けられるほどに、金も持っているのだろう。彼が引き連れてきた部下たちの態度を見る限り、人望がある事も判る。
「どうして……俺から奪うんだよ」
 エアは呟いて、頭半分は高い位置にある紫水晶の瞳を睨みつけた。
「どうして……」
 目の前の青年のように、エアよりも恵まれている者が、この国にいくらでも居るだろう。そう言う奴らから奪えばいいではないか。
 エアには特別美しい容姿も、豊かな財力もない。背は村にいる誰よりも高かったが、青年に比べれば低い。母はエアを産んですぐ、父は二年前に事故で死んだ。兄弟も親戚もなく、父が残した畑を耕しながら、ひとりで生きてきた。
 だから、エアにはリリアナだけだったのだ。
 リリアナだけが、エアに許されたものだったのだ。
「返せよ!」
 よろける体の背筋をぴんと伸ばし、エアは噛み付く勢いで青年に迫ると、彼に掴みかかった。
 戦闘に長けているだろう青年がエアの腕から逃れられないわけがなく、ならばエアの手の中にある上質の絹の手触りは、青年があえて避けなかった証。施しを受ける虚しさを認めるわけにも行かず、エアは青年を突き飛ばすように素早く手を離した。
「すまない」
 言葉だけの謝罪でない事は、悲痛が色濃く浮かぶ表情を見れば明らかだが、だからと言って許す気にはなれなかった。
「うるせえよ。なんでリリアナなんだよ。女なんていくらでも居るだろ。ここにだって何十人も居るんだ。アンタや……王様の周りには、もっと美人が沢山居るだろ? なんでリリアナなんだよ!」
「代わりは居ない」
 エアが続けて投げかけた問いに、青年は無機質な声で簡素な答えを返してきた。
「どれほど高貴な女性でも、どれほど美しい女性でも、どれほど心清らかな女性でも、リリアナ様の代わりにはなれないのだ」
 そうだ。
 誰ひとりとして、リリアナの代わりにはなれないのだ。
 それが判っているならなぜ、俺からリリアナを奪う? 俺が辺境の田舎村に住むしがない農民だからか? リリアナを望む者が、この国で最も偉大なる存在だからか?
 次々と胸に湧き上がる疑問を、青年に叩き付けようと、エアは口を開いて深く息を吸う。
「楽になりたければ、忘れるといい」
 エアが声を出す前に、青年は表情ひとつ変えず、静かに言った。
「なっ……」
「今の君には酷な事を言った。だが、許しを乞うつもりはない。それが君のためにも一番良いと、私は確信している」
 青年の目は冗談を言っている様子も、血迷った様子もなかった。あくまでも真剣で、真摯。
 エアは体をくの字に曲げ、腹を押さえながら、笑い声を惜しみなく吐き出した。
 リリアナを忘れる事が、許される中で一番の幸福だと言うのか?
 リリアナのためにしてやれる事は、エアの居ないところで幸せであれと祈る事だけなのか?
 では、今までリリアナと共に生きてきた日々には、何の意味も価値もなかったと言うのか――?
 青年も自分自身も、滑稽でしかたがなかった。笑いはエアの口から勢いよく飛び出していき、同時に腹の底で形成しはじめた怒りを引きずり出していく。ひとしきり笑い終えたエアは、背を伸ばす勢いを借りて前に飛び出し、数歩の距離を一気に詰めて、青年の胸倉を再び掴んだ。
「……ふざけんな! どこから忘れろってんだ! 結婚の約束をした頃からか? あいつに惚れた頃からか? それともガキの頃、みんなで遊んでいた頃からか? それとも――」
 エアは乱暴に涙を拭い、嘲笑を織り交ぜて言った。
「あいつの存在そのものを忘れろって言うのか?」
 そんな事ができるわけがない。馬鹿げた事を言うな。そう言った意味を込め、青年を見上げながら見下して、エアは言ったのだ。
 しかし青年は、エアの求めない答えを平然と告げた。
「その通りだ」
 何もかもがどうでも良くなってくる。
 己の生死すら意味のないものに思えた。リリアナが居ない世界は、全てがくだらなく価値のないものだった。
「――死ねって事か、俺に!」
 吐き捨てると、エアの怒りに滾った心は、急速に静まっていった。
 ああ、そうか。
 死ねばいいのか。
 今ならば苦しむ事もなく、笑いながら死んでいけるだろう。リリアナを奪った偉大なる存在の名と、知りうる限りの呪わしい言葉を残して死んでしまえば、きっと爽快だろう。
 エアは青年の腰に下げられた長剣に手を伸ばした。手入れの行き届いたそれは、さぞ切れ味がいいだろうと思っての事だった。
 しかしエアの手よりも青年の手の方が早い。あと少しで柄に指が届きそうなところで、青年の手はエアの手を払い除ける。エアの右手に鈍い痛みが走り、日に焼けた肌が赤く染まる。
 他の選択肢を奪った男に、最後の道を奪われて、エアは途方に暮れた。僅かに痛みの残る右手を呆然と見つめた後、光のない瞳で青年を見上げた。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
 立っている事も億劫で、エアはその場に崩れ落ちた。
「生きる事も許されず、死ぬ事も許されず。俺は、どうすればいいんだ?」
「……」
 青年は固く引き結んだ唇を解き、何か言おうとして、続きを言わずにエアの前に片膝を着いた。エアと視線の高さを等しくしてから、続ける。
「本当に、忘れられないのだと言うのなら」
「忘れられるものか」
「ならば、もう一度会おう。時が流れても、君の心がリリアナ様だけを叫んでいたのなら」
 青年はエアにしか聞こえないように微かに囁いた。

「――手を組もう」


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Copyright(C) 2006 Nao Katsuragi.