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六章 選定の夜




 欲する知識を得る事は、たとえ生きるために不必要なものであっても、けして無駄にはならないだろうとハリスは思う。
 だが、ハリスが仕える少女は、学ぶ事を望んでいるわけではなかった。カイやリタならば存分に満喫できる自由や休憩の時間を、その性格上持て余してしまい、何を考えるでもなく、窓から見える景観を美しいと思う事もなく見下ろす日々を常とする中で、ハリスがたまたま手にしていた本を目に止めただけである。
 ハリスが読んでいた本は、有名な兵法書の一冊で、シェリアには縁のないものであった。相手が人間であるならば、たとえ大陸全土を巻き込む戦争が起ころうとも、最後のひとりになるその時まで、シェリアが戦に参加する事はありえないのだから。
 ハリスにとっても、若干の興味と暇つぶしでしかなく、さして縁がある内容ではない。聖騎士団の性質上、戦う相手は人よりも魔物の方が多い上、シェリアの護衛隊長と言う役職がら、ザール以外の魔物が出現する地方に遠征する事がほとんどないからだ。今年はトラベッタへ足を運んだが、次の機会はほとんどないだろう。
「これを、教えてください」
 古くくすんだ表紙を指差しながら、シェリアが冷たい声で言ったので、ハリスは「判りました」と笑顔で答えた。少女が自ら何かを望んだ事が、純粋に嬉しかったからだ。
 夕食の前の僅かな時間、椅子を並べる日々がはじまった。教えると言うよりは共に学ぶと言った方が近い日々の中、この少女は頭が良いのだと、ハリスは改めて思い知った。他の者が教える、歴史や語学、礼儀作法、地理や算術と言ったものと同じように、見ていて小気味良いほどの速さで、知識を吸収していくのだ。
 見守り続ける中、シェリアが本当は兵法などに微塵の興味も抱いていないだろうと気付くのに、さほど時間を必要としなかった。これがただの時間潰しなのだとはっきりと理解した時は、寂しかった。時間潰しに付き合わされた事が、ではない。学ぶ以外の時間の過ごし方が判らないシェリアが、だ。
 美しい音楽や芸術に触れ合わせた事も、他愛もない会話を繰り返した事も、外の世界に連れ出した事もある。だが、どれもほとんど意味をなさなかったようだ。同じく神の血筋に生まれながらも、全く感じるものが違う少年たちと対面しても、感じるものはありながら、変わらなかったのだから。
 白い指が人の殺し方を記す様子を眺めながら、ハリスは目を細めていた。呆然としていたのか、綴られる美しい文字に見惚れていたのか――気付いた時には、少女の手は動く事をやめていた。
 必要な事を書き終えた少女は、無言でハリスを待っていた。
「申し訳ありません」
 形式上はハリスが教えるがわでシェリアが教わるがわであるのだから、ハリスが先に進めなければ筆が止まるのは当然だった。ハリスは慌てて本をめくり、次の事例に移ろうとする。
 視界の端で、金が瞬いた。
 隣に座る少女の髪が揺れたからで、特に気にする事でもないと、話を進めかけたハリスは、今は窓から風が吹き込んできていない事に気付くと、本から目を放して再びシェリアを見る。
 シェリアは窓の外、傾いた太陽が茜色に染める空の下に広がる光景を見つめていた。これがシェリアでなければ驚くような事ではないのだが、シェリアが勉強時間中、勉強以外の事に興味を向ける事などありえず、ハリスは思わず立ち上がっていた。
 窓に歩みより、シェリアの目に映るものを見た。紅く染まりはじめる白い聖堂の姿は雅で、心安らぐ光景ではあったが、シェリアが興味を惹かれるものとは思えず、何か特別なものは見当たらないかと辺りを探す。
 いくつかの人影が見えた。聖堂から去る市民の姿。忙しく移動する聖騎士たちの姿。そして――仲良く並んで歩くカイとリタの姿が。
 ハリスは息を飲み、動揺する心を落ち着けると、すぐに席に戻った。
「さあ、続けましょうか。次は四百五十二年、パルケスの反乱において……」
「ハリス」
 静かな声に名を呼ばれ、ハリスは口を噤む。
 窓の外に向けていた眼差しを戻した少女の横顔は、陽の光によって紅く染まっていた。
「もしもわたくしが、明日の選定の儀においてカイ様に選ばれなかったとしたら――わたくしが神の娘としての役目を果たせなかったとしたら、わたくしはどうなるのでしょう」
 少女の口をついた疑問は、はたして不安によって産まれたものだったのか。判るべくもなく、ハリスは笑顔で首を振った。己の思うがまま、強く否定するために。
「そのような事態は考えられませんが、仮にそのような事態になったとしても、何も変わりません。シェリア様には神の御子として、今後も我ら地上の民の心を支えていただきたいと、望んでおります」
 ハリスは本を閉じ、表紙に軽く手を重ね、空色の瞳を見つめながら言った。
「今までと何も変わらないと言う事ですか?」
「はい」
「そう」
 少女は改めてペンを持ち直し、ハリスが手を添える本を見つめた後、ハリスに向き直った。
「貴方は?」
「はい?」
「貴方も、変わらないのですか?」
 質問の意図するところを理解しかねたハリスは、戸惑う事で一度笑顔を崩しかけたが、すぐに持ち直して答えた。
「エイドルードとシェリア様のお許しが、この命がある限り、シェリア様のお傍にお仕えする事を誓います」
「そう」
 少女は小さな手を伸ばし、ハリスにはけして触れる事なく、本の表紙に触れた。
 態度ではっきりと示されたわけでも、命令されたわけでもなかったが、少女の動作の意味を知ったハリスは、表紙から手をどかす。すると少女は表紙をめくり、先ほどまで学んでいた場所を探り当てて開いた。
「それならば、良いのです」
 ハリスは僅かに目を見開く。
 消え入りそうな細い声で紡いだ言葉の意味を、ハリスは無言で模索した。模索したが、意味はひとつしか見つからず、それは喜ばしいものではあったが、ハリスが信じ続けていた事実を否定し、正反対のものを示すものでもあった。
 静かな混乱が胸中に渦巻き、ハリスは唇を薄く開きながら、ただ少女の横顔を眺める事しかできずにいた。
 ならば良いと。今まで通りハリスが傍に仕えるならば良いと、そう言うのなら。
 望んだのだ、この少女は。神の言葉や、運命や、誰かの指示に従うでもなく、何かを――ハリスを――望んだのだ。
「ハリス」
 シェリアはハリスと視線を重ねると、細い声で名を呼んだ。
「なぜそのような顔をするのです」
 指摘され、咄嗟に顔に触れる事で、ハリスは自分が涙している事に気付いた。ただ静かに、一筋の涙が頬を伝うのみとは言え、いい歳をした男が人前でためらう事なく泣くとはあまりにみっともないと、心の中で己を叱咤しながら慌てて涙を拭う。
「失礼いたしました」
「もうしないでください」
「はい。承知いたし……」
「また、触れてしまうかもしれません」
 眼差しは本に落としたまま、いつも通りの冷たい声で、さりげなく残された言葉だった。他の者には理解不可能であろう言葉から、全てを理解したハリスは、再び涙せずにすむよう、目頭を押さえた。
 ハリスがシェリアに仕えはじめてから流れた月日の中で、ただ一度だけ、シェリアがハリスに手を伸ばした事がある。大聖堂の奥、大司教と騎士団長を背後に従えたシェリアが、高い窓から射し込む光を背に受けて輝いていた日。忘れもしない、ハリスがはじめてシェリアに対面した日だ。
 今日のように――三年前は喜びのものではなく心痛によるものだったが――自然と頬を伝う涙に気付かずにいたハリスは、頬に伸びる白い手にも気付かなかった。そして、少女の身に秘められた力の事もまだ知らなかった。気付いた時には遠く離れた柱に背を強く打ちつけ、大きく咳き込んでいたのだ。
 思い返せば、簡単な事だった。相手がシェリアではなく、たとえばリタやカイであったのならば、すぐに正しい答えを導き出せたのかもしれない。シェリアがそのような事を考えるわけがないとの思い込みから、三年間も誤解を続けていたのだ。
 シェリアに普通の少女としての心を持って欲しいと望んでいた自分が、誰よりもシェリアを普通の少女として見ていなかった事実の滑稽さを理解したハリスは、シェリアに気付かれないよう失笑した。
「ありがとう……ございます」
 喉の奥からしわがれた声をひねり出す。この場に相応しいものかは判らなかったが、感謝を言葉にして伝えなければ気がすまなかった。
 ハリスは今なら判る気がした。頭ではなく、心で。望むままに生きた男が、死の瞬間に望んだものが何であったのかを。
 苦痛は自業自得だと判っていながらも、安らぎを求めてしまう利己的な心が求めたものは、これだったのだ。たった今自分が得たものを、彼は最後に欲したのだ。勝手だと責められる苦痛に喘いでも、手に入れる価値があるものを。
 与える事ができたのだろうか。自分は、最後に、あの人に。
 この奇跡のような幸福を、生前のあの人も得る事ができたのだろうか。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.