INDEX BACK NEXT


六章 選定の夜




 生き急いでいると言われた事が幾度かある。言わない者の半数くらいは、言わないだけで思っているのだろうと思った事もある。
 リタは彼らの考えを否定した事は無かった。確かに、そうだと思う。何もせずに時間を過ごす事は、苦痛でしかなかった。睡眠や休息は重要だと思うのでしっかり取るようにしていたが、それ以外はどんな簡単な事でもいいから体か頭を動かして、可能な限り無駄な時間を作りたくなかった。
 だが今の生活は、リタに無為な時間を強いる。見た事も無い本が大量にあり、リタが望めばリタの知らない知識を持つ多くの者が快く教師になってくれ、学び舎としての環境はけして悪くないのだが、どちらかと言えば体を動かす事が好きなリタにとって、勉強だけの日々が五日も続くと飽きてしまった。知識を得る以外にも、考えなければならない重要な事もあったが、いつも上手く結論に導く前に思考を閉じてしまっていた。
 読みかけの本を閉じ、リタは窓に近寄った。
 神殿で与えられたものの全てが良質のものだったが、ほとんどはリタの趣味に合わなかった。しかし、窓から見える景色だけは別だ。人の手によって作られた美も悪くない、と思えるようになるほどに。
 昼の強い日差しの下で、多くの人々が行き交っていた。けして少なくない数であると言うのに、見える限りは知らない顔だ。さすが王都、と言ったところか。
 リタは少しだけ身を乗り出し、塔の真下近くを見下ろした。
 大神殿の広い敷地内のほぼ端にある塔の周辺は、限られた者しか近付かないため、外から人が出す音が届く事はまずない。だが、今日は下の方から何かが打ち合う聞こえたのだ。
 見下ろす先にはふたつの人影があった。カイとルスターだ。互いに模造剣を構え、向かい合っている。やがてカイが気合を込めた声を放ち、ルスターに向けて剣を振り下ろした。
 なかなか鋭い一撃だったが、ルスターは涼しい顔で受け流した。二撃目、三撃目を続けざまに繰り出しても同じ事だった。
 カイの力強い攻撃とルスターの無駄のない回避が繰り返される様は、見物していてなかなか楽しいものだった。カイの動きは生まれ持ったものに頼るところが大きいため、リタにはけして真似ができない分、見ていて壮快であったし、逆にルスターの軽い身のこなしは参考になる。ああして相手を翻弄すれば良いのか。
「――降参!」
 結局一度もルスターの身に当てられないまま、カイは動きを止めた。大きく肩を上下させ、呼吸を整える。ルスターも構えを解き、静かに上下する胸を押さえた。
「何なんですか聖騎士団ってのは! 化け物の集まりですか!?」
「そんな事はありません。ハリス殿やジオール殿は、確かに化け物ですが」
「……ルスターさんって、意外と迂闊な事言いますよね」
「申し訳ありません。迂闊な所は昔からなのです。これでも少しは良くなった方なのですが」
 ルスターは照れ臭そうに笑いながら首を掻いた。
「それはさておき、カイ様は充分お強いですよ。カイ様と同じ年頃の聖騎士を全て集めても、カイ様より強い者が居るかどうか。少なくとも、十六歳の頃の私では太刀打ちできません」
「あまり嬉しくない気もするけれど、一応喜んでおきます」
 カイは剣を手放すと、その場に座り込んだ。
 くたびれた体が丈の短い草に埋もれていく気持ちよさを、リタは知っていた。自然と表情が綻び、口元に笑みを浮かべた頃、地面に手を着いたカイが空を仰いだ。
 互いの視線が交錯したのはその時だった。
 突然の事に、ふたりは咄嗟に反応ができなかった。リタは目を反らすでもなく、下から見えないよう部屋の中に隠れるでもなく、硬直したままでいると、先に正気に戻ったカイが、傍らに倒れていた剣を掴み、リタに向けて振り上げた。
「リタも一緒にどうだ? 勉強ばっかりじゃ退屈だろう?」
 悔しい事に、カイの言う通りだった。多くを学べる事は貴重な経験だとは思うが、やはり体を動かしたいのである。
 大神殿に来てからこちら、一度として剣を振るう機会が無かった。カイが来るまでは毎日聖騎士たちと追いかけっこをしていたし、毎日何度も塔を上り下りしているためにさほど体力は落ちていないと思うが、剣の腕は鈍ってしまっているかもしれない。
「カイ様。私はカイ様が『勉強ばかりでは気が滅入る』とおっしゃったのでお相手をしたのですよ。気分転換と言える時間は、とうに過ぎておりますが」
 優しく叱りつける口調でルスターは言った。
「俺に気分転換が必要なんだから、リタにだって必要だろ? ジオールさんはルスターさんより明らかに考え方が硬そうだから、リタの相手なんてしてくれなさそうだし、そもそも化け物なんて相手にしたら気分転換どころじゃすまないじゃないか」
「ジオール殿の剣の腕が化け物並であるのは私も認めましたが、それ以外はきちんとした、理知的な方ですよ……」
 ルスターは剣を持たない左手で顔を覆ったまま動かなかった。何も言わないと言う事は、諦めたのだろうか。
 ふたりのやりとりを微笑ましく見守っていたリタは、返事を待つカイの眼差しに応えるため、可能な限り身を乗り出して叫んだ。
「ちょっと待ってて!」
 リタは部屋に戻り、扉を開けようとしたが、立ち止まった。
 階段を下って通路を通り外に出て、ぐるりと回って塔の下まで行くのは、少し時間がかかる。それよりも早い方法がある事を思い出したからだった。
 再び窓に近付き、そばにある寝台の下を探る。最後の脱走の時に使った、部屋の中にあったあらゆる布を結びつけて作ったロープが、寝台の脚にしっかりと結び付けられたまま片付けられる事なく放置されていた。リタはロープを窓の外に放り出すと、続いて自らも飛び出し、軽快な動きで塔を下っていった。
「リタ!?」
「リタ様!」
 男ふたりが慌てる気配を感じるが、気にしない。あっと言う間に地面に辿り着いたリタは、ロープを手放し、服に付いた埃を掃うと、男たちに満面の笑みを見せた。
「お待たせ」
 悪びれもなくリタが言うと、ふたりは対象的な態度を見せた。カイは大口を開けて笑い、ルスターは頭を抱えてしゃがみこんだのだ。
「いくらでもお待ちいたしますから、このように危険な事はお止めください」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。前にも一回使って、平気だったから。帰りはちゃんと階段昇るし」
「当然です!」
 ルスターは語気を強めて言い切ると、わざとらしくため息を吐いてリタの横を通り抜け、ロープを手に取った。地面についているものや地面近くにあるいくつかの結び目を見て、あるいは手で触れて、安全性を確かめている。
「完璧でしょ? 簡単にはほどけないようにしてるよ。あたしだってあんな高いところから落ちて無事でいられるとは思っていないし」
 リタが胸を張って説明すると、カイの笑い声はますます増し、ルスターの顔色はますます悪くなった。
「こんなものを……隠していらしたのですか」
「特には隠してないけど? 隠していたとしても、女官たちはともかく、ジオールなら気付くでしょ。ただ、あたしが約束通り脱走しないって信じてくれているんじゃないのかな。単純に解くのが面倒なだけかもしれないけどね」
「脱走でなくとも、今後一切使わないようお願いします」
「階段で下りるより楽なんだけど」
「……私からジオール殿に、処分していただくよう伝えておきます」
 ルスターは長い指で彼自身の眉間に触れた。そこに自然と刻まれていく皺を、優しく揉み解すために。
 しばらくすると多少は気分が落ち着いたのか、ルスターはリタに振り返ると、手にしていた剣を差し出した。
「どうぞ。お使いください」
「いいの?」
「お止めしたところで無意味でしょう」
 さすがに良く判っている。「ありがとう」とリタが笑顔で返すと、諦めが混じった笑みを浮かべたルスターは、カイに向き直った。
「申し訳ございませんが、私はここで失礼させていただきます。おふたりとも、くれぐれもお怪我なさらないようお気を付けください。それからカイ様ご、休憩はほどほどに、夕食のお時間までに予習を終わらせておいたほうがよろしいですよと、ご忠告差し上げます」
 カイが苦い笑みを返すのを見届けてから、ルスターは去っていく。リタは木剣を右手でくるくると回しながら、角を曲がって見えなくなるまでその背を見送った。
「夕食後にも勉強があるの?」
「今日だけだけどな。神聖語。いつもは昼食後なのに、今日はその時間別の用件があったから。夕方は向こうの都合が悪いって言うし」
「あの人厳しいもんね。確かに、予習しておいた方がいいかも。神聖語って元々難しいし」
 カイより数日早く神聖語を学びはじめたリタだが、一切理解に至っていなかった。字のつづりがいちいち難しく、文法は大きく違い、何より発音が難解だ。幼い頃から慣れ親しんでいるとは言え、当たり前に使いこなすシェリアたちが、リタには得体の知れない生き物にしか見えなかった。
 加えて、神聖語を担当する教育係の女性が、厳しい上に嫌味たらしいのである。神の娘として理想的な物腰と容姿を持つシェリアに教育を施したと言う自負があるのは仕方がないと思うが、つい最近神殿に着たばかりのリタたちに同じものを求めないで欲しい。
「今日は、俺の事避けないんだな」
 リタは笑みを引きつらせた。
「だ、だって、楽しそうで羨ましかったから、うっかり下りて来ちゃったよ……」
「なんだよそれ」と言いながら、カイは小さく笑った。声量は大きくなかったが、ふたりしかいない空間に響き渡るには、充分な笑い声だった。
 カイの態度は自然で、朗らかで、ザールでのやりとりを気にしている様子は少しも見られない。煮え切らない態度を取って申し訳ない事をしたとか、気持ちに整理を付けずに曖昧な態度を取ってはいけないとか、悩みすぎていたのだろうか?
 悔しくなったリタは、尖らせた唇を隠すように、剣を振り上げた。
「いきなり危ないな」
「油断する方が悪い。あたしの気分転換に付き合うって言い出したのは、そっちなんだから。たとえ自分が勉強から逃げるための言い訳だったとしても、言った事に責任はとってよね」
「はいはい」
 カイが構えると、どちらからともなく剣を重ねた。やはり体は幾分鈍っていて、いつもよりも早く息が切れはじめたが、辛い以上に楽しくて、なかなか動きを止められなかった。傍から見れば、子供同士がじゃれあう様子と何ら変わりが無かっただろう。
 剣がぶつかり合うたび、過ぎ去った日数はさほど多くはないと言うのに、遥か遠くに感じる日々を思い出す。自身に課せられた運命など知らず、偶然同じ仕事を請けた魔物狩りとして出会い、過ごした時間を。
 少し怖くて、とても嬉しかった。気恥ずかしいけれど、隣に居て楽しかった。比較すると若干温かいカイの手が、リタの冷たい手と溶け合い、やがて近い温度になっていく瞬間が、息苦しいほど幸せだった。
 あの時のままならば。何も知らずに、再会する事ができていたら。
 さほど戸惑う事も悩む事も無く、カイを選ぶ事ができたはずなのに。
「リタ?」
 頭上から振り下ろしたリタの剣を受け止めたカイが、不思議そうにリタの名を呼ぶ。疑問を抱かれる表情や態度をとったつもりが無かったリタは戸惑い、咄嗟にカイから顔を背けた。
 見られたら、気付かれてはならない事に気付かれてしまうかもしれない。
「久々だからちょっと疲れた。でも、楽しかったよ。ありがとう」
 逃げるため、壁を作るためにやんわりと終わりと告げると、カイは僅かな間の後に肯いた。
「そうだな。俺もそろそろ予習しないと」
「この剣、ルスターさんに返せばいいの?」
「持っていても平気だと思う。また気が向いたらやろう」
「うん。じゃあね」
 楽しい時間であったのに、逃げたくてたまらない衝動に耐えかねて、リタは踵を返し小走りで走り出した。
「リタ!」
 呼び止められ、思わず足を止める。再び駆け出さずにすんだのは、カイがリタを呼び止めるだけで、近付いてくる気配が無いからだった。
「やっぱり、このままじゃ嫌だから、言うだけ言っておく。リタも、聞くだけ聞いて欲しい」
 背中を向けたまま、リタは小さく肯いた。
「俺は、リタがいいんだ」
 簡潔に纏められた想いに、リタの胸は大きく跳ねた。
 振り返らなくて良かった。瞬時に赤く染まった顔を、見られずにすんだのだから。
「俺はここに来て、頭悪いなりに色々考えた。俺が本当にしたい事って何なんだろうって。考えたら、ほとんど何もなかった事に気付いて、空しくなったんだけど……はじめは、こんな運命に従いたくないんだって思ってた。でも、俺は別に、神の子としての運命が嫌なわけじゃなかったんだ。だって形は変わっても、トラベッタを守っている自分は変わらない。そのついでに世界が守れるのも悪い気分じゃない。俺はただ、ジークが死んだ悲しみとか、強制される事への反発とか、単純にハリスに腹が立つとか、そう言う感情と混ざってしまって、自分でも判らなくなっていただけなんだと思う」
 カイは大きく咳払いし、掠れかけた声を整える。
「きっと本当に嫌だったのは、運命の相手がシェリアだって、それだけだったんだ。だから――だからリタ、俺はもう、いいんだ」
 大きく息を吸う音が聞こえた。
「リタだから、いいんだ」
 これほどまでに甘い息苦しさを、リタは知らない。
 触れる頬が更なる熱を持つ様子から、赤みが増していくのを感じながら、リタは懸命に息を吐いた。
 一度目を伏せると、再び開ける勇気が出てこなかった。幸福の全ては夢でしかなく、自分は今もまだ、大陸の東の地でひとりぼっちで生きているのではないだろうかと思ってしまう。そして、途方もない不安に陥るのだ。
「でも、あたしを選んだ事を後悔する日が、いつか来るかもしれないんだよ?」
「その時はその時だ」
 震えながら出した声に、返事が来た時は、泣きたいほどに安堵した。
「何それ。悲観的に見えるくらいに用心深かったあんたは、どこに行ったの」
「悪い方に考えてみたって、俺が選ぶのはやっぱりリタだよ。今すぐ確実に後悔するのと、いつか後悔するかもしれないのとじゃ、誰だって後者を選ぶだろ?」
 力強く言い切られた言葉に惹かれ、リタは振り返る。
 実に単純な考え方、単純な言葉は、リタの内側でくすぶっていたものを掃い飛ばす力を有していた。迷っていた事が馬鹿馬鹿しく、迷っていた時間は全て無駄だったのだと、笑い飛ばされた気分になった。
 そうか。それでいいのか。
 それで、よかったのか。
 緊張のためか、少し表情が固いカイを見つめたリタは、全ての勇気を振り絞り、精一杯の笑顔を浮かべる。
「いいよ、あたしも。カイなら、いいよ――」


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.