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六章 選定の夜




 運命の時が緩やかに近付いてくる。
 中天に昇った月を見上げながら、カイは自身の体がわずかに震えるのを感じていた。心はもう決まっている。迷いはどこにもなく、時が迫る事に重圧を感じる必要は無かったが、未来を定める重要な選択を前にして、緊張せずにいられるほど、カイは大物ではなかった。
 もっともそれはカイだけではない。昼前に見かけたリタはカイよりも緊張している様子であったし、聖騎士たちや大司教も、朝から緊張感がみなぎっていたように思う。いつもと変わらないのはただひとり、シェリアだけだった。
 カイは床に膝を着き、胸の前で手を重ねると、空を仰いだ。選定の儀の手順として大司教やルスターから説明を受けた数少ない行為のひとつだった。天上に最も近い部屋で、膝を着き、空の中心にある月に祈りを捧げる。静まった心で決断を下し、塔を降りる。そして無言で通路を進み、選んだ伴侶の待つ塔を昇るのだと。今更祈りによって心を静めずとも決断は下せるのだが、形式には従っておいた。
 目を伏せると、優しく降りそそぐ月光を肌に感じる。子供をあやす母親の手のように柔らかい光は、緊張を和らげる力を有しており、母の記憶が無いカイの胸にくすぐったい想いを湧かせた。
 淡い光が消えゆく感覚に襲われたのは突然の事だった。
 瞼の向こうから届く明かりが徐々に失われていく事に耐え切れず、目を開けたカイが見たものは、夜空を切り取る窓枠の中心で変わらず輝き続けているはずであった満月が、徐々に闇に飲み込まれていく様だった。
「何だ……!?」
 立ち上がり、窓に駆け寄る。枠に手をかけて身を乗り出し、少しでも月に近付こうとしたが、そうしたところで消えゆく月を引き止める事は叶わなかった。
 月は毎夜姿を変える。時に隠れ、姿を見せない晩もある。だが、一夜のうちに形を変え、消えていく光景を、カイはこれまで見た事がなかったし、そのような現象も知らなかった。
 カイが闇に侵食される黄金を眺めながら体感したものは、大切なものを奪われる恐怖だった。生まれてから今日この日まで、月に対して強い思い入れを抱いた事など一度としてなかったと言うのに。
 カイは自身の肩を強く抱いていた。気温は変わっていないはずだが、凍えるように寒かった。体が強く震え、このままではいけないと月に背を向けると、頭に鈍い痛みが走り出した。
 それは月が消えると同じ速度で強まっていき、夜空から完全に月が失われる頃には、立っている事すらできなくなっていた。カイは床に身を放り出し、頭を押さえ、走る激痛が消えゆく時を待つしかなかった。口からは獣のようなうめき声が漏れ、勝手に暴れる体は床を転げ周り、振り上げた足が何かを蹴倒したのか、崩れ落ちる音が部屋中に響き渡った。
 カイの目に映るものは、めまぐるしく変わっていった。床、天上、いつも眠っていた寝台の足、倒れた椅子の背もたれ、じわじわと染み渡る水の上に倒れた花と陶器の破片、積み上げられた本、父の形見の剣が床に倒れる瞬間、星しか輝くもののない夜空――
 視界が闇に覆われた。星の瞬きも映らない。完全なる闇がカイを飲み込み、カイは悲鳴も上げられなかった。
 これは何の現象なのか。なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか、理由は判らなかった。いや、この時のカイには、疑問に思う余裕すらなかった。
 闇の中に人の声が聞こえる。遠い声ははっきりとは聞き取れなかったが、男の声だ。擦り切れそうな叫びは、おそらく言葉にすらなっておらず、心を裂かれた者の泣き声に聞こえた。
 カイは知っている、と思った。この声を、近くで聞いた事がある。この声の主を、よく知っている。そうだ、この、泣いている男は――
 なぜ、泣く? かつて味わった悲しみ以上に、心を振るわせ事などは――
 黒しかない世界に、突如赤がはじけて消えた。ほんの一瞬、噎せ返るような匂いと共に。
 裂けるほどに大口を開け、カイは力の限り叫んだ。命を燃やす叫びだった。切れるような痛みが喉を走り、意味のない乾いた声だけが響き渡る中でだけ、カイは僅かな安らぎを得る事ができた。
 ふと気がつくと、得体の知れない恐怖の波は通り過ぎていた。
 手足をだらしなく放り投げた格好で、カイは床の上に倒れていた。空ろな目には、窓枠の向こうに優しく輝く満月が映り、カイは安堵のため息を吐く。
 首を傾け、自身の右手を見つけると、軽く動かしてみた。少し動きが鈍かったが、思い通りに動く。間違いない、これは自分の体だ。
 汗をかいていた。風に撫でられ、寒さを感じるほどだった。冷えた体を守ろうと、重く感じる体を起こしたカイは、喉が痛みを訴えたので、数回咳き込んだ。
 痛みはカイに教えてくれた。今体感したものは、けして夢ではないのだと。
 まだ歩くだけの気力と体力が蘇らず、カイは足を引きずって窓に近付いた。穏やかな光を注ぐ残酷な月を、少しでも近くから睨みつけるために。
「そう言う、事か」
 掠れた声を吐き出すと、血の味がした。だがその痛みも、味も、カイが知った事に比べれば、苦いものではなかった。
「そのために、俺を、リタを、シェリアを……みんなを、巻き添えにしたのか」
 使命、運命、神のさだめ。
 抗えない言葉と力で縛りつけ、人を操り、利用した存在への焦燥に似た諦めを、カイは夜空の象徴へ向けて解き放った。
「地上の民を、愛するがゆえに、なのか?」
 カイは長い息を吐いた。肺の中を空にして、月を見上げる目を両手で覆ってから、大きく息を吸う。
「いや――感謝するよ。エイドルード」
 窓に背を向け、カイは二度と振り返らなかった。
 両手を落とすと、カイの目には部屋を出るための扉が映った。カイはその扉を潜り、塔を下り、伴侶と決めた相手の塔に登らなければならない。
 心は決まっていた。迷いは欠片も無かった。だが、扉を開ける勇気が持てず、しばらくの間カイはその場に立ち尽くしていた。
 強い風が窓から吹き込み、カイの背中を押した。力が抜けていたカイの体は、風に揺られて勝手に一歩踏み出していた。
「判ってる。行けばいいんだろう。エイドルード」
 愛する大地を、大地に生きる人を、守るために消滅した存在。残される神なき地を守るために、自らの子に運命を託し、消えた存在。
 その名を呼びながら、カイは歩き出した。
 眼前に広がる階段に、果てがなければ良いと願いながら。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.