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五章 守り人の地


19

 東の空が白みはじめた頃、カイはリタよりも僅かに遅れ、レイシェルを落ち着かせたルスターと共に、城内の一室へと足を運んだ。
 治療施設として解放された広間には怪我人が溢れていて、噎せ返るような血の匂いにカイは一瞬立ち止まったが、臆する事なく歩みを進める。
 薄汚れた空気の中で、細い体で駆け回る白い服の少女は目を惹いた。もちろん、リタだった。
 残された気力と体力で、ひとりでも多くの者を救おうと奔走しているのだろう。命に別状がなさそうな怪我人を振り切る様子は辛そうだったが、重体患者を見つける度に腕を伸ばし、癒しの力を解放する様は、まさに女神のようだった。女神の恩恵にあやかれた幸運な――生死の境を彷徨うような傷を負った者が幸運と言えるかは判らないが――者たちはもちろん、あやかれなかった周囲の者たちも、一様に祈りを捧げている。
 カイは視線を反らした。すると、重傷の者たちに、城内城下町から集まった医者や、手馴れた様子の年配者が治療に当たっている事が判り、自分がすべき事は限られているのだと知った。
「カイ様、本当に……」
「人手は多い方がいいでしょう? 手伝いますよ。トラベッタに居た頃は、親父や俺の治療、ほとんど俺がやってたんです。よっぽどの深手を負わない限りはですが。だから結構慣れてるんです」
 カイが袖をまくりながら答えると、ルスターは複雑な顔をした。カイに神の子でなくてもできる労働をさせるのは気が引けるが、リタが駆けずり回っている手前、手伝うなと言い切る事もできない、と言ったところなのだろう。
「カイ様に治療をしていただくなどと、怪我人が恐縮してしまいそうですが」
 諦め混じりにルスターが口にした言葉はそれだった。
「じゃあ、できる限りザールの兵士たちの治療を手伝います。聖騎士たちはともかく、彼らならば俺の顔あまり知らないでしょうから」
「そう、でしょうが」
「ルスター!」
 諦めた顔をしたルスターは、呼び声に振り返った。隊長として、聖騎士たちに指示を出していたハリスだ。
「申し訳ありません、この場は失礼いたします。護衛隊の者たちが周囲を警戒しておりますから、万が一の事がおころうとも必ずやお守りいたしますが、けして無理はなされませんよう!」
 最後にひとこと言い付けて、ルスターは駆け足でその場を後にした。ハリスと合流すると、何やら早口で相談を続けている。この場の事にしろ、今後の事にしろ、ランディとユベールを失い、ザールの主とならざるをえないルスターに、考える事も決めるべき事も多くあるだろうと納得しているカイは、ふたりに背を向けて自身の居場所を探した。
 怪我人を城内に収用する事が主な仕事だった。何とか自力で歩ける者に肩を貸し、歩けない者は他の者と協力して運び込む。傷を洗ってやったり薬を塗ってやったり、包帯を巻いてやったりしながら、時には魔物狩り時代の知識を生かす事もあった。魔物の毒によって高熱に苦しむ青年に、魔物の毒を知らない者たちは何をすれば良いか戸惑うばかりで、カイが解毒に必要な薬草と調合方を教えてやると、涙と共に感謝された。
 人ごみの中に再びリタの姿を見つけたのは、頭を怪我した青年を、念のため医者の元に運ぼうと肩を貸す中でだった。
 元々白い肌は蒼白となり、けして暑くはないと言うのに、額に多くの汗が浮かんでいる。口元を拳で押さえつけているのは、疲労によって乱れた息を誰かに悟られないようにしているのだろうか。
 彼女が望むならば距離を置こうと思っていたカイだが、さすがに放っておけなくなり、青年を医者に託すと、リタに近付いた。
 肩に魔物の歯型をくっきりと残す青年に手をかざし、リタは力を解放する。柔らかな光が、溢れ出る青年の血を止めた頃、突如光は消え去った。
 リタの体が揺れ、大きな瞳が光を失う。
 カイは慌てて駆け寄り、倒れかけた少女の体を受け止めた。普通の男には髪の毛一本ですら凶器になりえる少女を、躊躇う事無く受け止められるのは、カイだけだった。
「すみません。もう、限界のようです」
 意識を失ったリタの代わりに、カイは謝罪する。まだ声が出せる状態ではない横たわる青年に代わって、青年を見守る仲間たちが、強く首を振った。
「とんでもないです。こいつはもう、助からないと皆思っていました。ですがもう、大丈夫だと思います。女神様のおかげです」
「ありがとうございます!」
 リタの代わりに微笑みを返したカイは、そっとリタの体を抱き上げた。細い体は、予想通りに軽かった。
 この小さな体を限界まで酷使した少女を褒めてやるべきかと思いながらも、腹立たしいと思う心が優先されて、カイは苦笑を浮かべる。もし今リタが目を開けたら、逆にこちらが怒られるかもしれないとも一瞬考えたが、硬く伏せられた目にカイが映る事はなさそうだった。
 広間を出る前に、一度だけジオールと目が合った。リタを自由にさせているように見えたが、目の届く場所、いや、手の届く場所に、必ず待機していたのだろう。彼は何か言いたげに唇を薄く開いたが、すぐにきつく引き締め、「よろしくお願いします」とばかりにカイに礼をした。
 肯いて返したカイは、広間に比べれば幾分静かな通路を進んだ。ところどころに待機し、城外や周囲警戒している聖騎士たちが、カイを見つけると礼をしてくる。中にはリタの身を案じて声をかけてくる者も居たが、カイが「大丈夫。疲れているだけですから」と返すと、あからさまな安堵を表情に浮かべた。
 辿り着いたリタの部屋の前には、護衛隊の騎士たちが詰めていた。いくら神の御子の部屋とは言え、警戒しすぎではないだろうかと首を傾げたカイは、そこは今現在、リタひとりの部屋ではない事を思い出した。彼らは主が居ない部屋を守っているわけではなく、主を守っているのだと。
 扉を開けてもらうと、広い客間が見えた。カイたちと同様に、一睡もしないまま夜を明かしたはずのシェリアは、しかし寝台に横になる様子はなく、椅子に腰掛けている。扉が開いた事に気付き顔を上げたため、カイと目が合ったが、何を言うでもなく、ただカイの様子を見守っている。
 カイは寝台に歩み寄り、リタの体をそこに横たわらせた。柔らかな布団に身を埋めた事が心地良かったのか、少女の表情が少し緩んだように見えた。
「君にリタの事を頼んでもいいかな? すぐに人を呼んでくるつもりだけど、今は皆急がしそうだし、城内は色々混乱してそうだから、すぐに来てもらえるか判らないから」
 期待をせず、しかし失望もしないように心を保ちながら、カイはシェリアに語りかける。
 シェリアは肯きも首を振る事もせず、無言で立ち上がると、寝台の方に近寄ってきた。
「戦いは終わったと聞きましたが、魔物がまだ残っていたのですか?」
 シェリアは白い手を伸ばしてリタの服に触れたが、血の跡が広がるそこがすでに渇ききっている事を知ると、問い詰めるようにカイを見上げた。
「いいや。リタはひとつも怪我を負ってないよ。ちゃんと魔物との戦いは終わっている。戦いで傷付いた人たちを助けるために、癒しの力を使い切って倒れたんだ。俺は同じ力を持っていないからよく判らないけど、多分、疲れて眠っているだけだと思う」
 カイはリタの頬に手を伸ばし、汗で張りついた髪を解放した。
「なぜ、そのような事を」
 感情のない声は、リタに対して呆れているように聞こえた。
 ザールに到着したばかりの頃、まだユベールの事を疑っても居なかった頃と、同じ会話を繰り返しそうになった。心のどこかでシェリアが正しいのかもしれないと思いながら、自分たちが正しいのだと主張しようとしていた。
 けれど、昨日と今日とでは、状況が違う事を、カイは知っている。
「君は、君たちに刃を向けたハリスを、許したんだろう?」
 カイは詳しく顛末を聞いたわけではないが、リタやジオールがハリスの処遇をシェリアに任せた事と、現在のハリスが遠征隊長として忙しく動き回っている事を知っている。その二点から導き出される答えは、シェリアがハリスの罪を許した、しかありえない。
 正直なところを言えば、シェリアが導き出した結論は、カイにとって驚きだった。同情の余地があったとは言え、神の子を守るべきハリスが、神の子に剣を向けた事は紛れもない事実で、カイやリタならばともかく、シェリアがその事実を許すなどと、考えられなかったのだ。
 シェリアとハリスの間には、侵し難い高く硬い壁があったとカイは思っている。そして、上手く説明できないが、「その壁は良くないものだ」と勝手に思っていた。
 だが、違うのかもしれない。
「許しました」
 シェリアに断言され、確証を得たカイは、笑みを浮かべながらシェリアに返した。
「君と同じなんだ、リタだって」
 カイがリタに毛布をかけるだけの時間も空けず、シェリアは続けた。
「私がハリスを許したのは、私自身の過ちを正すためです。リタは、どのような過ちを正そうとしたのでしょう」
「君自身の、過ち?」
 予想外の言葉が飛び出てきた事に驚いて、カイは訊ね返したが、シェリアは答える気が無いのか、唇を引き結んだままだった。
「そんなに複雑な事なのか? 君はただ、ハリスを助けたいと思っただけ」
「違います」
 シェリアはカイの言葉を遮るように、はっきりと言い切った。
 表情も、真っ直ぐに伸ばされた背筋も、見たところはいつものシェリアと変わりがない。しかし、カイが語り終える事も待てずに否定したシェリアは、明らかにいつものシェリアではなかった。
「わたくしは、過ちを正すためにそうしたのです。過ちを繰り返すわけがありません」
 カイは息を飲んだ。
「シェリア、君は」
 言いかけて、カイは息と共に言葉を飲み込んだ。わざわざ言葉にするのは無粋に思った事もあるが、何より、言葉にする事でシェリアに否定される事を恐れての事だった。
「俺は以前、ハリスに言われた事がある。俺が普通の子供としての幸福を得る代わりに、君は普通の子供としての幸福を失ったんだと」
「本当の事だとして、何だと言うのでしょう。わたくしはエイドルードの娘。只人としての幸福など、無意味で無価値なものです。わたくしの使命は、真なる神の後継者の母となる事です」
 カイは小さく肯いた。
「知っている。だからこそ、君は神の子としての幸福を得なければならないって、ハリスはそう思っている。俺もそう思っていた。けれど、その幸福を与えられるのは、俺しか居ない事も知っていて、俺は、それができないだろうとも思っていて――」
 偽善的だと自覚しながら、シェリアに対して抱いた罪悪感は、リタに対して抱く感情が強まると同時に大きくなっていく。息苦しく思いながら、けして逃れられない罪悪感にこの身を焼き続ける事を、覚悟しなければならないと思っていた。自分がシェリアを選べないのだと、カイはとうに判りきっていたのだから。
 けれど、違うのかもしれない。
 平然を装いながら取り乱したシェリアの言葉の中に、カイは希望を見つけた。カイが救われるため、ではない。シェリアが、神の娘としてではない、別の生き方を得られるかもしれないと言う希望だった。
「俺が、君を選ばなかったとしたら、君はどうする?」
 シェリアはゆっくりと瞬きをしてから答えた。
「昨日、リタからも同じように問われましたが、その答えはまだわたくしの中にありません。考えた事もありませんでした。ついひと月前まで、考える必要のない事でしたから」
 カイは微笑みながら、シェリアの頭を撫でるように手を伸ばしていた。常に毅然と神の娘でありつづける少女が、無垢で幼い子供のように見えたからだった。
「この先、考えなければならない時が来ても、きっと大丈夫だ。君ならきっと、判るよ。君は心が無いわけじゃない。神の子としての使命を大事にするあまり、心が縛られているだけなんだ。解放が許された時、きっと、君の心は動き出す」
「なぜ――」
 質問を投げかけようとしながらも、続きの言葉を産みだせず、シェリアは無言でカイを見上げるだけだった。
 見上げてくる空色の双眸は変わらず空ろであったが、カイは少しだけ嬉しかった。シェリアと出会ってから初めて、真正面から向き合えた気がしたからだ。
 てのひらの中の黄金が、さらさらと滑り落ちてく感触が心地良かった。


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