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五章 守り人の地


18

 少し離れたところからはレイシェルの泣き声が、遠く離れたところからは喧騒が聞こえてくるが、カイは不思議と静かな気分だった。隣に立つリタもどうやら同じようで、彼女にしては静かな表情で、戦いの行く末を見守っている。
 ここからでも援護できればと思っていたが、すでに戦いは終盤にさしかかっており、交戦していない魔物の姿は見えなかった。この距離から兵士や騎士たちと戦っている魔物に攻撃を加えようとすると、謝って味方を巻き込んでしまう可能性が高く、迂闊に手が出せない。黙って見守る事が、カイたちにできる全てだった。
「さっきね、ちょっと、びっくりしたよ」
 リタは遠くを見つめたままだったが、カイに語りかけてきているのは明らかだった。
 カイはゆっくりと、リタの横顔へと視線を移す。揺れる炎に照らされる戦いの場を見つめる眼差しは、真剣で厳しいものだった。
「本当に……って言ったら変なのかな。本当に本当だから、あんたもあたしもこうしているんだし。けどさ、さっきは本当に、ちょっと立派な、神様の子供みたいに見えたんだよ」
 リタが語る「さっき」がいつの事かを理解し、カイは再び戦場へと視線を戻した。
「俺さ、とりあえず現状を受け止められるようにはなってきているけど、でも未だに、エイドルードの事を神とも父とも思っていないんだよ。リタも多分、同じだと思うけど」
 隣で肯く気配を感じてから、カイは続ける。
「けど、俺には、エイドルードの他に、神とも父とも思う相手が確かに存在してた。あの人の存在にどれほど救われていたか自覚していたし、あの人の言葉がどれほど力強かったかも、しっかり覚えている。俺にとってのあの人が、皆にとってのエイドルードだって言うなら、色々判った気がしたんだ。皆がエイドルードに何を求めていたのか、俺に、何を求めているのか。頭だけでなく、心でも」
 カイは自身の胸の上に手を置く。温かく力強い鼓動をてのひらに感じると、今は亡き人物の面影が、そこに蘇るようだった。
「で、求められた通りの人間になってあげたってわけ?」
「そんな立派……と言うか、優しい人間のつもりはないよ。名前も顔も知らない人が近寄ってきて、俺に救いを求めたとしても、俺は何もしないかもしれない。命をかけてとか、自分を捨ててまでとか、そこまでして助けてあげる自信はないし」
「そうかな」
「そうだよ。その点、君は立派だ。ザールの民や聖騎士たちのために、自分を囮にするような作戦を迷わず選んだんだから」
 リタは無言で唇を尖らせ、カイの問いかけを無言で肯定した。
「俺には君やシェリアみたいな力が無い。だから、何の力も無くて、何の役にも立てないんだろうって思った時もある。けど、違うって事は判ったよ。エイドルードの子って事実だけで、俺には凄い力がある。その肩書きを持つ俺の言葉は、たとえ俺にそのつもりが無くても、色んな力が宿ってしまうから」
 咄嗟に紡いだ言葉に、深い信念を込めていたわけではない。もし自分が彼らと同じ立場で苦しんでいたなら、ジークに何て言ってほしいだろと考えて、出てきた答えを音にして伝えただけだった。
 たったそれだけの事だ。けれど、ルスターやレイシェルには、たったそれだけの言葉が、神の子の言葉として、強い原動力となり、救いとなった。
 恐ろしい力だ。相手にエイドルードを信仰する心があるからこそ働く力だが、その心がある限り、絶対とも言える力。逆らう事すらできず、請えば死すら厭わない者も居ると考えると、あまりの重さに震え上がりそうだ。
「エイドルードに敬意を払わない俺やリタには、何の救いにもならない力だけどな」
 胸の内にわだかまるものを消し去ろうと、小さく笑ったカイの耳に、否定の言葉が届いた。
「そうでも、ないよ」
 窓から吹き込む風に煽られ、金の髪が踊る。短い短いと思っていたが、いつの間にか少し伸びている事に気付いたカイは、迷っている間にも時間は少しずつでも過ぎているのだと思い知った。
「あんたがエイドルードの子供だからとか、ジークの子供だからとかは、あたしには関係ないけど、でも、はじめて会った日から、あんたの言葉には力があった。あたしにとってはね」
 同じ場所を見つめているカイとリタの視線は、元より交わっていなかったが、より反らそうとしているのか、リタは明後日の方向を向いた。
「あたしはあんたに救われたと思う。今は遠い、アシェルの地で――あたしはひとりじゃないんだって、教えてもらった気がしたから」
 照れ臭さをごまかそうと、カイは小さく笑った。
「そんな立派な事、したつもりないけどな」
「うん。綺麗な言葉でも、格好いい言葉でもなかった。でも、凄く嬉しかったんだよ。なんでだろう。よく判らないけど」
 優しい空気に惹かれるように、カイは再びリタの横顔を見下ろした。少々勇気が必要だったが、遠くを見つめるリタの細められた眼差しは優しく、湧きあがった緊張をすぐにほぐしてくれた。
 少し離れているとは言え、目の前で争いが怒っているとは思えないほどに、穏やかな時間が過ぎていく。不思議な気分だった。セルナーンに来てから、いや、リタと別れてトラベッタに帰ったあの時から、ここまで心が穏やかでいた時は他に無かった気がする。常に何かに傷付き、あるいは何かに迷い、苦しんでいたように思う。
 悲しみや迷いが失われたわけではないし、現状の全てに納得しているわけでもない。運命から逃げる事はできないし、全てを見捨てる事はしたくないが、自分自身を失う事を素直には受け入れらない。混沌とする想いを抱えるカイに、大切なものを失う事無く今を生きる事もできるのだと、今現在もけして悪くはないのだと、今カイを包む空気が教えてくれているようだった。
 どうしてだろうと考えたカイだが、答えはすぐに思いついた。今までのカイに無く、今のカイにあるもの。それは、目の前に居る少女だ。
「そう言えば、久しぶりだな」
 破顔したカイは、いつもよりもずっと優しい声で、リタに語りかけていた。
「何が?」
「こうやって、お互いに落ち着いた状態で、ゆっくり話すのが。アシェルで魔物退治の仕事を受けていた時以来、かな」
 顔を隠すように頬杖をつき、若干下方からリタを見上げると、直立したリタは、表情を硬直させて、しばらくの間立ち尽くしていた。
 いぶかしんだカイが背を伸ばし、今度は上方からリタを見下ろすと、リタは突然きれの良い動きで後退し、カイと距離を置く。
「忘れてた」
「何を?」
「あたし、あんたの事できる限り避けてたんだった」
「……ああ、でも」
 自然な流れで自然な会話ができるようになったのだから、もう関係ないだろうと続けようとしたカイだったが、リタが素早く踵を返して立ち去っていくので、ゆっくり話す余裕を失った。
「え、いや、リタ!」
 慌てて名前を呼ぶと、リタは一度足を止める。右足が半歩分下がり、振り返ってくれるのかと思ったが、そのまま動かなかった。
「時間なんて勝手に過ぎてくんだから、結論は早く出さなきゃいけないって、判ってるつもりだよ。でも、やっぱり、あっさりと割り切れない」
 少女の声は、少し震えていた。
 唐突に突きつけられた未来に怯える少女の想いを、カイとて理解できないわけではない。もしリタがここに居なければ、シェリアと言う選択肢しか無かったのならば、カイも同じようになっていたはずだから――そもそも、リタを選ぶと決めている今とて、不安がないわけではない。
「リタ」と少女の名を呼ぼうとして、喉に詰まった。呼び止めたいと言う願望と、それは利己的に過ぎるのかもしれないと言う戸惑いが混じりあい、伸ばしかけた腕が宙に浮いた。
「時間が無いのは判ってる。あたしの我侭だって事も。でも、もう少しだけ、時間がほしい」
 震える声が悲痛に訴える想いを、カイは素直に受け止めた。
「そんなの、我侭なんて言わないよ。もし我侭だって言うのなら、俺たちは聖騎士団――いや、神様が押し付けてくる我侭で悩んでいるようなものなんだから、多少我侭言ったっていいんだよ」
「いい事言うね」
 背を向けたままのリタが、少し笑っている気配がして、カイは少しだけ嬉しくなった。
「じゃあ、遠慮なく。残りの時間を使わせてもらう」
 部屋を出て行ったリタが、そう遠くに逃げるわけではなく、通路の途中で佇んでいる気配がした。追いかければすぐに追いついただろうが、カイはそれをしようとせず、再度窓の外に目を向けた。
 魔物の数が減っている。間もなく戦いは終わるのだろう。
 安堵しながら、カイはゆっくりと目を伏せた。


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