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五章 守り人の地


17

 互いに背中を向けているため、カイからルスターの顔は見えない。
 レイシェルの涙を浮かべた薄い色の瞳が、絶望に淀みながらカイを見つめた時、ルスターにも同じ苦しみを与えた気になり、カイは息苦しい思いをした。
「天上の神エイドルードの子、カイの命令だ。誇り高き聖騎士として、天上の神より与えられた使命を受け継ぐ一族の者として、偉大なる父を裏切り俺たちに剣を向けた不届き者を、忌々しき魔獣の徒を、滅ぼせ」
 剣を振るう音がする。それから、人間が倒れる音。ユベールへの道を阻む存在を、倒したのだろう。
 ルスターから返事が来るまで、さほど間は空かなかった。しかし待ちわびるカイにとっては長い時間で、悪い予感に心臓が大きく鳴る。
「了解いたしました、我が主よ」
 優しさはけして失っていない、けれど、力強い声だった。
「偉大なる天上の神と御子カイ様に誓います。必ずこの手で、魔獣の眷属の息の根を止めましょう」
 レイシェルの言葉にならない声は、悲鳴だったのか、それとも慟哭だったのか。
 あらゆる感情を込めた声が、通路中に響き渡り、カイを責める。レイシェルの美しい顔は醜く歪み、彼女の中に生まれた人としての闇が現れていたが、カイは目を反らす事無くそれを受け入れた。
「すみません」
 何もできなくて。神の子を名乗りながら、誰も救えなくて。
「ごめんなさい……すみません」
 レイシェルがその場に泣き崩れた。
 それだけで背中の向こうで何が起こったのか、大体を理解したが、確かめるために振り返ったカイの目に、まだ三体残っている操られた死体を引き受けるジオールと、神の力によってジオールを援護するリタ、その向こうで、ユベールと対峙するルスターの姿が映った。
 時間稼ぎのためにいくら囮を呼ぼうとも、驚異的な回復力で体のあちこちに刻んだ傷を癒そうとも、迷いを失ったルスターの前に、ユベールはただの一匹の魔物だった。ルスターの華麗な剣技に追い詰められたユベールは、咆哮を上げて相手が怯み、隙を見せるのを待った。
 だが、ルスターは躊躇わなかった。かつて義弟だった存在に、労わりの言葉ひとつかける事なく、剣を突き出した。
 喉を貫かれたユベールは、剣によって壁に縫いつけられ、声を失った。
 端整な顔に紫混じりの返り血を浴びながら、ルスターはいっそう深く剣を埋め込む。やがてユベールの体から力が失われると、二度と動かない事を確かめてから、両腕に込める力を緩めた。
 ルスターはゆっくりと剣を引き抜く。死に絶えた魔物から。
 重苦しい音を立てて力無く床に崩れ落ちた魔物が、紫混じりの赤い血だまりを作る様を見守ってから、ルスターは振り返り、カイに歩み寄った。カイの足元に泣き崩れたレイシェルが居る事に気付かないふりをして、跪く。
「カイ様。ユベールの始末、完了いたしました」
「よくやっ……」
「どうして」
 涙混じりの声が、短く問いかける言葉で、ルスターを責めたてる。
 聞こえないふりをして無視をするルスターの代わりに、カイがレイシェルを見下ろした。
「どうして殺してしまったのです。私の夫を。兄上の義弟を」
 カイがルスターを見下ろすと、ようやくルスターは妹を受け入れ、向き直って答えた。
「あれは人ではなかった。この大地にあってはならない邪悪な存在を滅ぼす事も我ら聖騎士団の使命であり、私は使命を果たさなければならなかった」
「神が、私の夫の死を望んだと言うのですか」
「恐ろしい言葉を吐くな、レイシェル!」
 ルスターは妹の肩に手を置き、僅かに声を荒げた。
「お前は、自分の夫がザールからこの大陸全てを滅ぼす様を見守りたかったのか? それだけの罪を、夫に背負わせたかったのか? 穢れた魂が大空に抱かれる事なく、永遠の苦しみを味わい続けても、良かったと思うのか?」
 ルスターの問いかけに、レイシェルは涙しながらもはっきりと首を振って否であると示した。
「戻る事はできない魔の世界へと堕ちたユベールに、死よりも寛大な救済は他に無かった。我が主は、それをユベールにお与えになった。そして私に、義弟へ救済を与える役目を、お与えくださったのだ。カイ様に、神に、感謝こそすれ、呪いの言葉など吐くなど……二度とするな」
 レイシェルは硬く目を伏せ、泣き続けた。漏れる嗚咽を抑えきれずに、頬を伝う涙を次々と床へと零しながら。やがて再び目を開けると、濡れた瞳で兄を見上げながら、鈍く動く手をたどたどしく滑らせ、自らの下腹部に置いた。
「ユベールは、ユベールでした。私の夫は、優しい、ただの人でした。けれど、兄上が命を奪ったあの人が、人ではない生き物になっていたと言うのなら……この子は、何者だと言うのです」
 妹の問いかけに、ルスターは息を飲んだ。
「人ですか。それとも」
 厳しく引き締めながらも、妹への愛情と労わりを消しきれずにいた端整な顔が、驚愕に引きつった。涸れる事なく涙を溢れさせる同色の双眸を見つめ、泣き崩れそうになる細い体を受け止めると、優しく抱きしめて涙ごと受け止める。
 静かな通路に、レイシェルの嗚咽だけが広がった。誰ひとり、慰めの言葉は浮かばなかった。ルスターのように抱きとめる事ができる者も他にないまま、時間だけが過ぎた。
 いつのまにか、カイの傍らにはリタが立っていた。争いに疲れきった格好をして、けれど顔に出すのは疲労ではなく、悲哀ばかりだった。いずれ母になる性を持つ少女は、カイ以上にレイシェルの苦しみを理解しているのかもしれない。夫に先に逝かれた悲しみと、やがて生まれてくる子への不安を。
「『神は人を愛し、人の子を愛す』」
 セルナーンで過ごしはじめてからひと月足らずの短い日々の中、詰め込まれた知識の中にあった文を引用し、カイは呟いた。
「貴女の子は、神に愛され、神の祝福を得ます。必ず」
 この期に及んで、あり触れた言葉しか産みだせない自身の単純さに呆れたカイだったが、レイシェルの震えが少しだけ治まったように見えた時は、何もしないよりはましだったのだと思えた。
 押し込められていた泣き声が解放される。レイシェルの言葉にならない声は、通路中、いや、おそらくは扉や壁の向こうまでも響き渡り、悲しみを伝えただろう。
 兄妹を見守り、感情を受け取っていたカイは、しばらくして踵を返し、歩き出した。もはやこの兄妹は他者を必要としていない、むしろ邪魔であろうと判断したからだ。ならば、戦いの傷跡が残る通路を進み、向かうべき場所ばある。
 リタとジオールは、動き出したカイに気付いたようだった。足音を潜めながらも、小走りに追いかけてくる。
「どこに行くの?」
「下。地上では、まだ戦いが続いているだろう?」
「そう言う事なら、ひとりで行く前に声かけてよね。あたしたちだってまだ戦えるんだから。ねえ、ジオール」
 血まみれの衣服の下にありながら、傷ひとつ残っていない腕をカイに見せつけながら、リタはジオールに振り返った。
 同意を求める口調は力強く、ジオールから否定の言葉が帰ってくる事を予想もしていなかったようで、ほとんど間を空けずにジオールが首を振ると、リタは目を丸く見開いた。
「いいえ、私がひとり向かいます。リタ様もカイ様も、城内でお待ちください」
「なんで」
「なんでだよ」
 リタとカイが同時に詰め寄ると、ジオールは音も立てずに息を吐いてから答えた。
「今夜の魔物の襲撃でお三方のお力をお借りいたしましたのは、事を早期に片付けるための、あくまで特例です。これ以上前線に立っていただくわけには参りません」
「今夜の魔物の襲撃はまだ終わってないでしょ。って事は、まだ特例続行中。問題ないよ」
「なりません」
 ジオールはカイたちの進行方向に立ちはだかり、短く言い聞かせた。
 短いからこそ揺るぎない言葉は、逃れようがないほどカイとリタを捉えた。カイは今宵、いかにも固そうな彼にも柔軟なところもあるのだと見直したばかりだったのだが、やはり本質部分は固いままのようだ。
「何より、お疲れでしょう、リタ様」
 反論の言葉を紡ごうと拳を握り締めたリタだったが、突然の労わりの言葉に声も出せず、握った拳を緩めた。
 言われてみれば、リタはここに至るまで、あらゆる力を行使した。力を使う事でどれほどの疲労が溜まるのか、同じ力を持たないカイには判らないが、ジオールの言葉に俯いたリタの横顔には、押し隠そうとしても隠しきれない疲労が覗いて見えていた。
「ご助力、ご尽力いただき、誠に感謝しております。私やハリスも含め、何人、何十人もの命が救われました」
「でも、まだ」
「リタ様ならば、残された力を使う機会が、戦いの後にもあるでしょう。共に戦っていただくよりも、多くの者を救えるかもしれません」
 ジオールが洗練された動作で深く礼をすると、リタはとうとう諦めたようだった。全身に張り詰めていた気力を解放し、肩を落とし、穏やかな眼差しでジオールを見つめている。
「確かにリタは頑張りましたし、休んだ方がいいと思いますけど、俺は別に何もしてな」
「一番おいしいところ持ってっといて、そう言う事言うわけ!?」
 大人しくなったと思えば、突然カイの言を遮るように騒ぎだすリタに驚いて、カイはリタとの間に更に一歩ほど距離を置いた。
「そんな、俺は……」
「ご立派でした」
 ジオールの褒め言葉は、やはり短いものだったが、無意味ではなかったのだと、自分も誰かのために何かができたのだと、カイに教えてくれた。
「この場の守りはルスターに任せますが、あの状態ではいささか不安です。いざと言う時は、リタ様の事をお任せしてもよろしいでしょうか?」
 カイは力強く肯く。
「そのくらいなら、任せてください」
「ありがとうございます」
「その代わり、遠くから援護の矢や雷が飛んできたとしても、許してくださいね」
 無理矢理付け足したカイの言葉に、はじめは無言で答えたジオールだったが、去り際に残した言葉は肯定的だった。
「戦場ではさほど余裕が無いと予想します。何かを見逃す事もあるでしょう」
 カイは気力を振り絞って口元に笑みを湛えると、走り去るジオールを見送った。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.