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五章 守り人の地


12

 ハリスが顔を顰める様を、リタは初めて目にした。敵と戦うところを今日はじめて見るため、敵に傷付けられる姿など、見る機会がなかったのだ。
 彼がその身に受けた矢は、鎧によって跳ね返されず、隙間をついて体に食い込んでいた。通常ならば「運が悪かった」と言って片付けるしかないのかもしれないが、彼が自身を盾にする前に取ろうとした行動に気付いていたリタは、とてもではないが「運が悪かった」で片付ける気にならず、「馬鹿じゃないの」と思わず漏らしてしまう。
 ハリスはもっとも効果的にシェリアを守る方法を思いつき、実践しようとしていた。だと言うのに、寸前でシェリアに触れる事を躊躇したのだ。かつて、リタの力を知る男たちが、リタに触れる事を恐れたように、手を伸ばしかけながら、戸惑い、動きを止め、触れずにすむ行動に切り替えたのだ。
 ハリスがシェリアに触れる事を恐れていたわけではないと、リタは知っている。ハリスはきちんと手袋をはめていたし、そうでなくても、触れかけた場所はシェリアの肩で、肌は服によって隠されていた。触れたところで、何の問題もないはずなのだ。
 では、なぜ、躊躇ったのか――リタは答えを知っていた。知っているからこそ、「馬鹿じゃないの」とこぼした言葉に、強い感情を込めていた。
 膝を着いたハリスは、痛みに息を乱しながら、自身に突き刺さった矢を掴んだ。歯を喰いしばって更なる痛みに耐えながら、力を込めて矢を引き抜くと、忌々しいとばかりに放り投げる。
 傷口から鮮血が溢れ出る様を目の当たりにしたリタは、自然とシェリアの姿を探していた。双子の姉は、リタと容姿は似ていたが、反応は真逆で、冷たい空色の瞳をハリスへと向けているのみだった。
「何考えてんのよ!」
 リタは傷付き蹲る男に、遠慮なく言い放った。ハリスとシェリアの双方に言わずにはいられなかったが、シェリアを見据える勇気はなかった。
 返事は待たず、唇を引き締めてハリスの傍らにしゃがみこむと、傷口に手を翳す。
 ハリスの様子がおかしい事に気付いたのは、その時だ。
 矢が一本、急所ではない場所に当たっただけだ。たったそれだけで、戦いを生業にしている人間が、敵を目の前にしながら蹲り、戦いを放棄するだろうか? まして、ハリスである。リタが知るハリスならば、傷の痛みなど飄々とした様子で堪え、何事も無かったように剣を取り、ユベールに切りかかっているはずだ。
 いぶかしんだリタが癒しの光を呼ぶよりも早く、深い闇が生まれた。主に傷口から、投げ捨てられた矢からも、僅かに。
 闇は瞬時にハリスを飲み込み、彼を隔離する。間もなく、押し殺した悲鳴が闇の向こうから響き渡った。
 リタは立ち尽くしたまま息を飲み、様子を見守る事しかできなかった。闇から離れる事ができたのは、心配そうな顔をしたカイが腕を引いてくれたからだ。
「ハリス……?」
 突如湧き出でた闇が、強い恐怖をリタの心に産みだす。
 だが、戦いの最中、それは認めてはならない心だった。
「ハリス!」
「ハリス殿!」
 恐怖を払拭するために、リタはハリスを呼ぶ。ほぼ同時に叫んだルスターも、同じ事を考えていたのだろうか?
 やがて悲鳴は消え、闇が消えた。
 薄れゆく闇の向こうから、一度は見失ったハリスの姿が現れる。彼は膝を着いたまま微動だにせず、見守るリタの心に湧いた不安をいっそう強いものにした。
 リタは背筋に悪寒が走るのを感じていた。得体の知れない闇の、得体の知れない力が、ハリスの身に何の力を及ぼしたのか、想像するだけの冷静さは、今のリタには残されていなかった。
 リタは新たな呪文を唱えていた。傷を癒すためのものではない。聖なる雷を降らせるためのものだ。腕を精一杯伸ばし、起き上がって体勢を整えたユベールへ、指先を向ける。
 天から降りる雷は、ユベールの元に降りそそいだが、一瞬早く駆け出したユベールの全身を焼く事はなかった。上ってきた時が嘘のような軽快な足音が、階段の奥へと飲み込まれていく。
 追いかけようと一歩踏み出したリタの肩に大きな手が回った。ジオールの手だ。彼はリタの体を抱いて横に飛ぶと、床に転がった。床に叩き付けられる時の衝撃はなかった。ジオールが守ってくれたのだろう。
 ジオールはリタを背中に庇うと、落とした剣を拾い上げ、立ち上がった。
 いつも以上に厳しい眼差しで睨む先に、剣の切っ先が向けられた先に、立っていたのはハリスだった。
 ハリスが手にする剣は、床を打っていた。先ほどまでリタが立っていた場所だ。確実に、明らかに、リタを殺そうとして振り下ろされた剣――
 剣を構え直したハリスが振り返ると、凍りつくような眼差しが覗き見えた。
 リタはハリスの事をあまり好意的に思っていなかったが、それでも知っている。ハリスの目はもっと人間的で、リタを冷たく見下ろすにしても、感情が宿っているはずだと。
「なんで――」
 ハリスが振り下ろした剣を、ジオールが受ける。金属音が響き渡り、耳を貫いた。
「ジオールど……」
「ここはいい! 追え! ルスター!」
 加勢しようと剣を構えたルスターに、ジオールは怒鳴りつける。ルスターは僅かに逡巡したが、すぐに覚悟を決めた目を向けて、走り去ったユベールを追った。
 カイの背中もルスターと共に階段の下へと消えていき、リタは自身の身の置き場に悩んだが、ただ立っているシェリアの姿を見つけてしまえば、カイを追う事はできなかった。ハリスが魔の力に飲まれ、魔物に操られているのだとすれば、やがてシェリアに剣を向けるだろう。この場を去ったカイや、多少戦いの心得があるリタよりも、シェリアの方が切りやすいに決まっている。
 目の前に立ちはだかる障害を排除しようと、ハリスは容赦無く剣を振り下ろした。ジオールは何とか対抗するが、ハリスの素早い剣戟全てを防ぎきる事はできず、体のあちこちに傷を作ってしまう。
 徐々に全身を赤く染め、息を乱すジオールに、加勢する方法が考え付かず、リタはシェリアの手を引いて距離を置く事しかできなかった。
 ジオールが力尽くで、重なり合った剣を押し返した。片腕同士ならば、力で渡りあう事もできるようだ。だが、両腕が使えるハリスに対し、片腕しか使えないジオールでは、不利は否めない。まして、相手を切る事に躊躇いのない現在のハリスと、躊躇いばかりのジオールでは。
 リタは拳を握り締めた。
 ランディや、茶を運んできた使用人をただの遺体に戻した時のように、リタやシェリアの力ならば、ハリスを侵食する闇の力を跳ね除ける事ができるだろう。こちらの事を何も知らないために隙を見せたランディや、鍛えていない使用人の女性と比較すると、ハリスに触れる事は遥かに難しいと判っていたが、他にハリスやジオールのためにできる事は考え付かなかった。
「一応あたしひとりで頑張ってみるけど、あんたも、機会があったら手伝ってよね」
 リタは袖をまくり上げ、ジオールと剣を合わせるハリスを睨みながら、シェリアに語りかけた。
「何をです」
「ハリスにも、ランディにやったのと同じようにするの」
「わたくしたちの身を守るために、ですか」
 嫌味として通じないだろうと判っていても、リタは深く息を吐き捨てる事をやめられなかった。
「確かにそれもあるよ。でも、あんた、三年間ハリスに守ってもらってたんでしょ。恩に着ろ、とか言ってやる義理はないから言う気ないけど、そんだけ仕えてた相手を、助ける努力もせずに魔獣の眷属のまま殺すなんて、薄情にもほどがあるとあたしは思うからさ」
 もっともこのままでは、ハリスを殺すどころか、逆に自分たち全員が殺されかねないのだが、リタはあえて言わずにおいた。
「そうすればハリスは救われるのですか?」
「うん。それは絶対」
「闇を跳ね除けた後、ハリスはどうなるのです」
「そんなのやってみないと判らないけど、元のハリスが戻ってくるって、願うしかないんじゃない? もしかしたら、あの闇に飲み込まれた時点で死んでいて、ランディたちみたいに遺体しか返ってこないかもしれないけど――それでも、ハリスを救う事になる。魔物に操られてあんたを殺すくらいなら、喜んで死ぬでしょう、あいつは」
 シェリアは冷たい眼差しを細め、シェリアと同じように感情を見せなくなったハリスの横顔を見つめた。
「リタはハリスの事を良く理解しているのですね」
 リタは反射的に鼻で笑い飛ばしていた。
「あんた、ハリスに『触るな』って命令してあるんでしょ?」
「はい」
「やっぱりね」
 再び深いため息を吐いてから、リタは続ける。
「ハリスって男が、そんなくだらない命令に逆らうよりも、矢を食らった方がましだとか考える馬鹿だって事くらいは、付き合いが短いあたしにだって判る。だから、少しはあいつに報いてあげなよ。ちょっとくらい嫌でも我慢して、その手を伸ばして、あいつと一緒にあいつを支配する力を、ふっとばしてやりなよね」
 ハリスが上段から振り下ろした剣を、ジオールは横に飛ぶ事で避けた。
 剣はジオールの背面にあった壁を抉り、小さな石の破片を床の上に撒き散らす。同時に起こった砂煙の中で、ハリスは緩慢な動きで振り返った。
 体勢を整え直したばかりのジオールは、ハリスの所業に言葉も無いようで、目を見開きながら息を飲んでいる。気持ちは判る、と、ジオールがこちらを見ていないと知りつつも、リタは肯いていた。
 ハリスの力が、通常よりも強まってきている。ハリスを支配する闇が、限界以上の力を引き出しはじめているのだろうか。
 だとすれば最悪だ。近付く事すらままならないではないか。
「そう言えば、使用人の女の人、素人とは思えないくらいいい動きしてたっけ」
 暑くもないのに汗が額からこめかみを通って顎まで流れ着くのを知覚したリタは、無意識に笑う。そうする事で、絶望的な感情や思考に飲み込まれそうな自身を奮い立たせなければ、崩れ落ちてしまっていただろう。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.