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五章 守り人の地


13

 足が悪いふりをして杖を着いていた時に比べれば格段に速くなっているが、今のユベールの逃げ足は、さほど速いとは言えなかった。どうやら原因は左足の膝から下が焦げ付いている事にあるようで、つまりはリタが咄嗟に雷を落としてくれたおかげだった。カイは心の中で、この場に居ないリタに感謝する。
 長い階段から繋がる、長い通路に突入した頃には、ユベールの背中はかなり近くにあった。カイより一歩先を行くルスターが、床を蹴る力をいっそう強くし、ユベールとの距離を一瞬にして縮める。伸ばした腕がユベールの肩を掴もうとした瞬間、ユベールは鋭く振り返ってルスターの手を振り払った。
 だが、もはや逃げられないと観念したようだ。カイとルスターに向き直り、杖に仕込んでいた刃をふたりに向けてくる。距離を置こうとしているが、逃げるためではなく、自分に都合のいい間合いを取るためのようだ。
 カイとルスターは同時に剣を構えた。ユベールが向ける刃に、怯む理由は見当たらない。
「私は今、自分自身が情けなくてたまらない」
 柔らかなルスターの声が怒りに震える様が痛々しく、カイは彼の横顔を覗く事をしなかった。
「ランディの遺体を預けた時、お前は私に言った。『ランディを闇からお救いくださった御子様にも、我らの感謝をお伝えください』と。あの時、私は僅かに疑問を抱いた。その場にカイ様もいらっしゃったからだ。ランディを闇から解放した御子がカイ様ではない事か、カイ様のお力がシェリア様やリタ様と違う事を知っていなければ、言えない台詞だと――」
「気付いていても無意味ですよ。行動を起こさなければ。気付いた時に私を殺していれば、神の子が危険な目にあう事も、あの男が犠牲になる事も、無かったかもしれないと言うのに」
 聞く者を苛立たせる低い笑い声を挟みながら、ユベールは挑発的な口調で語る。
 返すルスターの声は、不思議と落ち着いていた。
「お前の言う通りだ。だから私は、私自身の情けなさに憤っている」
 先に剣を振るったのはルスターだった。
 ユベールは斜めに振り下ろされた刃を、跳ぶ事で避ける。床を蹴る力は軽かったが、ルスターの頭上を越えられるだけの高い跳躍で、切っ先を下方に向けた剣は、ルスターの後ろにいるカイを狙っていた。
 後方に移動する事で避けたカイは、ユベールが着地すると同時に切り払ったが、ユベールは余裕を現す笑みを浮かべながら、カイの剣を受け止める。ルスターが背後からユベールを狙ったが、再び跳躍で避けたユベールは、側面の壁を伝ってカイの背後に回り込んだ。
 カイはユベールの動きをしかと追い、背を見せる事はしなかった。カイとルスターとが、ユベールと対面する形が再びできあがり、カイは力強く呼吸をしながら身構える。
 素早く距離を詰め直したルスターの剣を避けたが、避けきれずに脇腹にかすり傷を刻まれたユベールは、笑った。人のものとは思えない、歪んだ笑み。口が裂け、頬に達しているようにも見えた。
 下方から切り上げるルスターの剣と挟み込もうと、カイが剣を振り上げた瞬間、突如、側面にあった扉が開いた。
「なっ……!」
 開かれた扉から、人が飛び出してくる。男がふたり、女がひとり。男のひとりはカイの腰に、女はルスターの左腕に、もうひとりの男はルスターの足に絡みつき、続けざまに床に倒れ込む。ふいを突かれた上、強い力と人間の体の重さに引かれたカイたちは、彼らと同様に床に転がるしかなかった。
 カイは体を捻り、纏わりつく男の首を肘で強打する。並の人間なら怯み、カイの腰に回す腕の力が緩みそうだが、男は痛覚を失っているのか、変わらぬ無表情と力でカイを押さえ込もうとする。カイは負けじとがむしゃらに暴れ、無理な体勢でなんとか男の頭を掴むと、床に叩き付けた。
 視界に影が覆い被さり、目の前が僅かに暗くなるのを感じたカイは顔を上げる。すぐ傍にユベールが近付いており、しまった、と思った時には遅かった。高く掲げられた刃が、カイに向けて振り下ろされようとしている。
 カイは腕の下に転がる男の腕を振り払い、その場を跳び退ろうとした。
 しかし、間に合わない。確実にどこかが切られるだろう。せめて急所ではない事を祈りながら、カイは可能な限り刃を避けた。
 大きな塊が、ユベールが構える刃に突撃した。目の前で鈍い音がして、カイは一瞬身を強張らせたが、見守る余裕は無かった。未だ掴みかかってくる足元の男を踏みつけながら、その場を離れる。
 ユベールの刃に貫かれて倒れたのは、ルスターに纏わりついていた女だった。脇腹から腰の半ば以上を切り裂かれた女は、苦痛に喘ぐ様子も、血を流す様子も無かったが、真っ直ぐ立っていられないようで、カイが倒した男の上に倒れ込み、不気味にうごめく。
 ちらりとルスターを見やると、ルスターは剣を力強く振り下ろし、足に絡みつく男の頭を割っていた。怯み、足を掴む腕から力を抜いた男を、躊躇う様子もなく振り払い、自身を戒めるものを排除する。
「心優しい義兄上らしくもない」
 不敵な笑みを浮かべつつ、倒れる三人――三体と言うべきか――を見下ろしながら、ユベールは言った。
「ザールの民に対して、こんなにも酷い仕打ちをなさるとは。はじめから死者であったから良いようなものの、生者であったらどうなされます。義兄上が、尊い領民の命を奪った事になるのですよ?」
 ルスターは迷いのない目でユベールをきつく睨みつけると、折り重なる三体の一番下で、立ち上がろうとしている無傷の男の胸を貫いた。
「そこまで私を甘く見るな」
 僅かに乱れた息を押し殺しながら、ルスターは言い切った。
「私は聖騎士だ。そして、カイ様の護衛隊長だ。カイ様に害なす者相手に剣を向ける事を怯みはしない。まして、彼らはハリス隊長の指示に反する者たちだ。神の名において処刑が許されている相手に、躊躇う理由がどこにある」
 迷いの無い、声。怒りも嘆きもそこには無く、ただ静かに燃えたぎる決意を秘めた眼差しが、ユベールを捉える。
「お前もだ」
 振り上げられた剣の切っ先は、真っ直ぐユベールを向いていた。通路のあちこちに備え付けられた燭台から届く炎の明かりを剣身が反射し、辺りを赤く染めあげる。
「私を、助けてくださらないのですか?」
「救う事など、できないのだろう? お前は、ここに倒れる彼らとは違う」
「何を根拠に」
「忘れたか? この城に来たばかりの時、リタ様は、お前の足を直そうと、尊きお力を使ってくださった。ランディには発動すらしなかったが、お前の時は違った」
 ルスターは一呼吸開けてから続けた。
「お前は生きている。そして、魔に支配されているのとも違うだろう――すでに隠しきれていない事を、自覚していないのか?」
 ユベールは歪んで人のものとは異なりはじめた手を唇に被せながら、幼子のように無邪気な低い笑い声を、通路中に響かせた。
 聞く者に強い不快感を与える嘲笑。苛立ちながらも、振り払う力が沸いてこず、カイはユベールとの間合いを詰めるまでに、長い時間を必要とした。
「その通りですよ、義兄上。私は操られているだけの者たちとは違います。魔獣の声を直に授かった、言わば魔獣の代理人――」
 カイが振り下ろした剣を、ユベールは易々と避け、腰から短剣を引き抜く。突然投げつけられたカイは何とか剣ではじく。一瞬後に短剣を投げつけられたルスターは、軽く身を翻して避けた。
 床と壁に浅く刺さった二本の短剣が、どす黒い闇を放つと、カイは無意識に喉を鳴らした。闇に包まれ、解放されると同時にリタに切りかかったハリスの姿が、脳裏に蘇る。
 闇の力を秘めた刃を身に埋め込めば、命が助かったとしても、魔物の言いなりになってしまうのだろう。ならば多少の傷を気にせず攻め込むと言う選択肢は残っておらず、慎重に攻めるしかなかった。
「ハリス殿を解放する方法は知っているのか?」
 ユベールはいっそう楽しげに笑い声を響かせた。
「知りませんよ。一度捕らえた者を解放する必要性がありませんからね。元より、想定しておりません」
 やかましく笑うユベールに、ルスターは冷たい笑みを投げかけた。
「嘘でも『知っている』と答えるべきだったな」
「何を――」
 一閃したルスターの剣に落とされたユベールの前髪が、はかなく舞い散る。
 油断していた中での鋭い一撃を、かろうじて避けたユベールは、驚愕に乱れた息を飲み込んでいた。
「もう、お前と交わすべき言葉は無い。カイ様に仇なすものは、排除するのみだ」
 続けざまに放たれた一撃は、華麗とも言えた。隙の無い完璧な切りの形は、こんな時でさえ見惚れる価値がある、とカイは思う。
 受け止めたユベールの腕に切り傷が刻まれる。滲み出る血は赤かったが、人間のそれとはすでに違っていて、紫がかったものだった。
 ルスターの攻撃は休みなく続いた。ユベールは硬化した皮膚、あるいは剣で受け止めるが、先ほどまでと比較して明らかに劣勢になっている。カイは強気な笑みを唇に湛え、打ち合うふたりが膠着したと同時に、ユベールへ一撃を加えた。
 予測しない方向から来た攻撃に、ユベールは唸った。人間の皮膚よりも遥かに固いため、やすやすと剣は埋まらないが、傷を与えたのは確かだ。
 カイはルスターと視線を絡ませて合図すると、ユベールから離れて身を引いた。同時に振り上げたルスターの剣は、確実にユベールの首を捉えていた。
「兄、上……?」
 か細い声が届く、その瞬間まで。


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