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三章 神の娘


13

 鋭い牙を剥いた黒い大蛇のような魔物が同時に二匹飛びかかってくると、カイは一匹を避け、もう一匹を叩き切った。あと少しのところで分断されそうな大蛇の体は、皮一枚で際どく繋がったまま、大地に血の池を作る。
 はじめて使うジークの剣は、手に馴染んでいないという点においてはアシェルで貰ったものと同じ条件なのだが、不思議と使いやすかった。ジークが愛用していただけあり、切れ味も鋭い。
 魔物も過去に戦ってきたものと比較すればさほど強いとは言えず、今回はすぐに片付くだろうと思えたが、安堵はしても油断はしなかった。再び飛び掛ってきた大蛇に飲まれないよう身をかわし、体勢を立て直すと、剣を振り下ろす。今度は綺麗にふたつに分かれ、数度痙攣した後、動かなくなった。
 ひと息吐いてから、剣にこびりついた血を拭う。いざと言う時に使えなければ困るため、元より武器は大切に手入れをしてきたつもりだが、父の形見となれば余計に力が入る。もうそばに居てくれない父の代わりにずっと共にあってほしいと願いながら、丁寧に血を拭き取った。
 空気が動いたのは、剣を鞘に戻そうとした瞬間だった。
 カイは剣を引き抜きながら、微かに耳に届く草を踏み分ける音を頼りに振り返る。そこには獣の姿をした魔物が居たが、カイに飛びかかってくるよりも早く、痛みを訴える鳴き声を上げながら、大地に横倒れになった。カイに食いつこうとした口はだらしなく開かれたまま、広がっていく血に涎を混ぜ込んでいる。
「ハリスさん」
 獣型の魔物を切り捨てた男を見つけ、カイは身を強張らせる。無意識に彼の周囲を探し、他に人が――少女が――居ないかを確かめ、誰も居ない事が判ると深く息を吐いた。
「余計な助力かとは思いましたが、少し数が多いようですのでしたので、勝手に助太刀させていただきました」
「ありがとうございます。助かりました」
 軽く言葉を交わし、視線を交える事でハリスの微笑みに応えると、カイはすぐさまハリスに背を向ける。やや離れたところから届く木の枝が揺れる音に反応しての事で、振り返った直後、高い木の枝から影が飛び降りてきた。
 ギィ、と重い鳴き声を響かせ飛びかかってきた影は、体は小さいがすばしっこい魔物だった。カイと比べても短い腕を伸ばし、その先にある鋭い爪をカイの体に埋め込もうとする。当然カイは反応して避けるのだが、相手の速さに対応しきれず、体のあちこちにかすり傷を作る事となった。
 振り下ろすたびに避けられた剣が、四度目にしてようやく魔物の頭部に埋まった。体の小ささから想像した通り、魔物にしては脆い体はカイの一撃にあっさりと絶命する。
 休憩する間はなかった。草を踏み分けて走り寄ってくる魔物が一体、木の上から飛び降りてくる魔物が二体。飛び降りてくる魔物の方が動きが早く、カイがそちらを向くと、背の向こうでハリスが動く気配がした。彼がカイの背を守り、もう一体の魔物の相手をしてくれると言うならば心強く、カイは安心して目の前の魔物に対処する事ができた。
 それにしても、とカイは思う。今日は魔物の数が多すぎる。苦戦しない程度の小物ばかりだが、この調子で延々と攻めて来られては、いずれ疲れ果ててしまうだろう。
 魔物たちの襲撃がいつまで続くか判らないのだから、無駄に体力を消耗するわけにはいかないと思うと、素早くカイの攻撃を避け続ける魔物たちが煩わしい。自然と苛立つ心を抑え、カイが魔物を斬ろうと剣を振り上げた瞬間、地を駆ける魔物を薙ぎ払ったハリスの剣が、一匹の進行方向に立ち塞がった。
 偶然のように見える。だが、おそらくは意図的に、なのだろう。
 声をかける余裕が無かったカイは、感謝の言葉は後にしようと決め、逃げ道を失った魔物を討った。容易に叩き潰した一匹の醜い死骸に見向きもせず、残されたもう一匹に向き直る。
 背中にハリスの背が触れた。カイと正反対の方向を向いている彼は、未だ警戒を解いていない――また新手が来ている、と言う事だろう。
「カイ様、ものは相談なのですが、相手を交換しませんか? その方が効率が良いと思います」
「そんな事、戦闘中に言われても、ですね」
「騙されたと思って、試してみてください」
 ハリスが軽く肩を叩いてくる。それが合図なのだろうと瞬時に悟ったカイは、一歩踏み込んで立ち位置を入れ替えた。目の前に迫った大きく開かれた魔物の口に咄嗟に剣を叩き込み、引き裂きながら地面に叩き付ける。
 次が来る僅かな余裕で背後を覗き見ると、カイのものとは比べものにならない素早い剣戟が、容易く魔物を引き裂いていた。
 ハリスの一撃の重さは、ジークはもちろん、おそらくはカイよりも軽そうだ。しかし、とにかく早い。なるほど確かに彼の言う通り、こちらの方が効率が良さそうだ。
 募る焦りや苛立ちがいくらか解消され、それでも中に燻るものを、カイは新たに迫る魔物に叩き付けた。
 何体の魔物を切ったかしれない。十を越える頃には、数えるのも馬鹿馬鹿しくなったからだ。向かってくる魔物をがむしゃらになぎ倒し、ようやく新手が尽きた事が判ると、カイは肩で息をしながらその場に崩れ落ちた。
「お怪我は大丈夫ですか?」
 ハリスの方も片が付いたのか、剣を鞘に収め、カイの元に歩み寄って跪く。
 カイの服は所々が破れており、赤く染まっていた。これでは他者から見ると大怪我をしているようにみえるかもしれないと思ったカイは、激しく乱れた息をできる限り押さえ込み、小さく笑ってみせる。
「大丈夫です。全部かすり傷ですから。放っておいても、すぐ、直ると思いますけど、念のため、後で傷薬でも塗っておきます」
「そうですか」
「それより、助けてくださって、どうもありがとうございます。俺ひとりじゃ、駄目だったかもしれない。ハリスさんのおかげで、傷も少なくてすみましたし」
 切れ切れの言葉で感謝を伝えるカイに対して僅かに微笑みながら、ハリスは左右に首を振った。
「お気になさらず。ただの親切心だけで助力を願い出たわけではありません。貴方をお守りする事は、我ら聖騎士団の使命ですから」
 カイは瞬時に表情から笑みを消し去った。
 そうだった。シェリアへの怒りのあまりすっかり忘れていた。この男は、カイに「滅び行く大陸を救って欲しい」と言ったのだ。それはつまり、カイとシェリアを――
 カイは疲れた体に鞭打って立ち上がり、数歩後退してハリスとの距離をおいた。
 父の死に嘆く自分にシェリアが投げた言葉を、カイは一生忘れられないだろう。だから、あのただ美しいだけの少女の手を取って生きていけと言われても、絶対にお断りだった。
「俺は貴方にもエイドルードにも従いません。俺が貴方の言う通り、エイドルードの子だとしても」
 カイは静かに告げた。揺るぐ事のない本音を。
 カイには誓う神が存在しない。その代わりに、今は亡き父に誓う。意に沿わないならば、天上の神と呼ばれる存在の定めを受け入れはしない。逆らう事も辞さないと。
「あんな頭のおかしい女と結婚しろだなんて、冗談じゃない」
「どうしてもとおっしゃるのならば、婚姻を結んでいただかなくても結構です」
「……なんですか、それ」
 表情を変える事なく、平然と言い放つハリスに呆れて、カイは低く唸った。
「あの女を孕ませれば、それでいいって言うんですか?」
「良いとは口が裂けても言えませんが、それもひとつの方法だとは思っております」
 カイは息を飲んでからハリスを見つめる視線を強めた。
「カイ様とシェリア様の間に生まれる御子は、この大地を救うために必要な方。エイドルードに仕えるものとして、この国の未来を憂う者として、けして譲れない存在です。しかし、神の御子以外の事に関しては、譲歩する事もやぶさかではないのです」
「俺は、貴方をもう少し常識的な人だと思っていました」
「人が定めた常識など、神の定めを前にしては何の意味もなしません」
 ハリスは立ち上がり、カイとの距離を一歩詰めた。
「私はシェリア様の望みを叶えてさしあげたい。一番良い形はもちろん、貴方とシェリア様の正式な婚姻です。しかし、シェリア様は貴方個人を愛しているわけでも、貴方と生きていく事に価値を見出しているわけでもありません。エイドルードの後継者、真なる神の子の御生母になる事さえ叶えば、きっと満足してくださります」
 全身の皮膚が粟立つ感覚に、カイは震えた。
 シェリアだけではない。ハリスもまた、カイにとっては理解できない人種だった。初見から不可解である事を伝えてきたぶん、シェリアの方がまだましだったかもしれないと、今更思う。
 恐ろしいのか、気持ちが悪いのか、ただ不愉快なのかは判らなかったが、目の前に立つ男から逃れたいと心底願った。しかし、先ほど詰められた一歩が大きい。ふたりの間にある残された距離は短すぎ、ハリスがカイを逃す事はないだろう。
「なぜ、俺とあの女の子供が必要なんですか」
 カイは足をすり、少しずつ後退する。
 その事実に気付いているであろうに、ハリスは一歩も動かなかった。
「先日もお伝えした通り、滅び行く大地を救うためです」
「その役割を、神の力を受け継いだ子が担うと? なぜ、子供じゃなければならないんです? これまでどおり、エイドルードが救えばいいじゃないですか。神、なのでしょう?」
 浮かべる微笑みは変わらない。だが、ハリスの瞳が瞬時に陰った事が、カイには判った。ジークの死を前にして見せたものと同じ輝きでありながら、奥底に眠る光は異なる、不思議な切なさを見せる眼差しだった。
「トラベッタの民は、エイドルードをお恨みでしょう。エイドルードは大陸のほとんどを魔物から救いながら、トラベッタなど一部の地域を切り捨てたのですから。ですが、どうぞお許しください。魔獣との戦いによって深く傷付いたエイドルードには、大陸の全てを守る事など、不可能だったのです」
「それは、俺の求める答えではな……」
「大神殿には大司教、砂漠と森の神殿にはふたりの妻。そうして地上の民の力を借り受けながらも、エイドルードは三つの神殿が造る図形の中だけしか守れなかった。さぞ無念だった事でしょう。愛する地上の民を、一部とは言え見捨てねばならなかったのですから」
「ハリスさん?」
 エイドルードの行動など、想いなど、聞きたかったわけではない。カイが投げかけた問いとは的外れの返答を延々と続けるハリスをいぶかしみ、カイは彼の名を呼んだ。
 呼びながら、ハリスの語り口調に僅かなひっかかりを覚えたカイは、一瞬だけ考えた。もしかするとハリスは、的外れな返答をしているわけではないのかもしれないと。
「ハリスさん、エイドルードは」
「伝承では、エイドルードは魔獣に刻まれた傷を癒すために天上に昇った事になっています。けれど真実は違うのです。エイドルードは地上の民を守るために、残された力の全てを使っていた。傷を癒すための安らぎなど、我らの神にはなかった」
「ハリスさん!」
 カイはハリスの名を叫んだ。悲哀の中に潜む空ろへと向かいつつあるハリスの意識を呼び戻すために。
 ハリスは目を細め、カイを見つめた。その顔にはすでに笑みなどなく、カイは自身が立てた予測は当たっていたのだろうと、おぼろげに理解した。
「もうこの地に、空に、神はないのです」


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