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三章 神の娘


12

 幼い頃からずっと、越えてみたいと望み、焦がれ続けていた壁があった。
 壁は大きく、強く、常にカイの前方にそびえ続けていて、その向こうを望む事は永遠に叶わない夢なのかもしれないと不安に駆られる日もあった。それもいいのではないかと諦める日々も、少しだけ。
 越えられるならば、方法は何でも良かった。必死になってよじ登っても、横に押し退けるでも――自らの手によって壁を越えたのだと、言える結果ならば。
 だが、壁は自分ではないものに破壊され、目の前から失われた。
 こんな形は望んでいなかった。結局自力で乗り越える事など不可能な望みだったのだと言われている気がして、とても悔しい。
 けれど今のカイは、長年の望みが断たれた悔恨の情に駆られているわけではなかった。
 壁を越える事を望んでいた。けれど、失われる事を望んでいたわけではない。目の前から背中の向こうへ追いやってやりたいと、そう望んでいただけなのだ。
 なぜ、こんなにも早く、消えてしまったのか。
「ジーク」
 呟いただけの声は、静かな空間に響き渡った。ひとりきりとはこう言う事なのだ、と思い知らされながら、カイは乾いた瞳を窓の外に向けた。
 寂しい。ああそうだ、悲しいのだ、自分は。目の前にあり続けて壁が無くなってしまった事実に、ただ悲しむしかできないでいるのだ。
 壁の向こうに広がる果てしなく広い世界は眩暈がするほど明るいと信じていたと言うのに、なぜこんなにも暗いのだろう――
 だいたい、ジークはなぜあんな魔物を相手に命を落とす事になったのか。
 ジークの剣の腕は途方もない。あの程度の魔物にやられるはずがないではないか。傷ひとつ負う事すら、難しいはずだ。
 だと言うのに、神の腕は肩から失われ、多量の出血によって命を落としてしまった。ありえない、ジークが、そんな死に方をするなどと。ジークは誰よりも強かったはずなのだ。深手を負っていたわけでも、体が思い通りにならないほど年老いていたわけでもないのだ。
 一体どうして――カイは視線を巡らせ、棚に立てかけたままの剣を見つけると、立ち上がって歩み寄った。自分でそこに置いた記憶はないので、誰かが気を効かせてくれたのだろう。
 剣を手に取り、鞘から少しだけ引き抜いた。
 繰り返し丁寧に手入れされ、長年愛用されてきた父の剣。カイが愛用してきたものより僅かに刃が長いが、重さはさして変わりが無いようで、心地良く腕にのしかかってきた。
「ジーク……」
 その行為に意味はないと頭では理解していると言うのに、失われてから何度父の名を呼んだか知れなかった。
 何度も呼び続ければ、いつか答えてくれるのではないかと、心のどこかで甘えているのかもしれない。とうに熱を失った体は、街外れの墓地に丁重に埋められ、土に還りはじめていると言うのに。
 カイは鞘に戻した剣を胸に押し抱いた。
 暗く、静かに垂れ込めた空気が、胸につかえて苦しい。このまま家の中に居ては耐えられそうにないと判断したカイは、外の空気を吸おうと扉を開けた。
 外から家の中に流れ込む風が、冷たく頬を撫でる。
 気付くと、一歩踏み出していた。父を失ってからこちら、空ろな心で家の外に出ると、必ずと言って良いほど広場の惨劇跡に辿り着いている。今日もそうなるのだろうとぼんやり思いながら、それでいいかと思う自分も心のどこかに存在していた。家の中に居ようと、街のどこに居ようと、大した差はないのだから。
 茜色の空が眩しかった。そう言えばここ数日、ろくに青空を見ていなかった。意図的に避けていたつもりはないので、空の色を忘れるほどに沈んでいたのだろう。
 体が勝手に傾いた。家の前の通りを右へ。広場に向かう方向へ進もうとする足を、カイは止めなかった――進もうとした道に、人だかりを見つかるまでは。
「カイ!」
 年齢も性別もばらばらな住民が合わせて十人ほどで道を塞いでおり、そのうちのひとりがカイの存在に気付いて名を呼んだ。続けて、全員がカイを見る。急に自分に視線が集まる事で戸惑ったカイは、何が起こっているか把握できず立ち尽くした。
 よく見れば、その場に居るのは衛視と思わしき格好の男たちが三名と、残りは近所に住む女性たちだった。カイに気付くまでは、互いに向かい合うように立っており、何か言い争っていた様子だ。
「どうしたんだ?」
 カイが訊ねると、衛視のひとりが口を開きかけたが、中年の女性がそれを遮るように口を挟んだ。
「何でもないよ。ちょっとした揉め事さ。あんたは家で休んでな」
「しかしっ」
「うるさいわね! あんたたちが気合入れて、自分たちで踏ん張れば済む話でしょ!」
 諦めきれない様子で、別の衛視が反論しようとすると、別の女が遮るように怒鳴る。その繰り返しを見守りながら、この奇妙な集団の意図や言い争いの原因が自分である事を察したカイは、手を滑らせて胸に抱いた剣の柄に指をかけた。
「出たのか? 魔物が」
 確信を抱きながら予測の形で口にすると、衛視たちも女性たちも黙り込み、再びカイに視線を集めた。全員がその表情に罪悪感を浮かべているが、衛視たちには喜びも混じえている。
 おそらくは、魔物が現れ、街を守るためにいつも通り魔物狩りを呼びに来た衛視たちと、家族を失ったばかりのカイに休息を与えようとした女性たちとで、小競り合いが起こったと言う事なのだろう。
 自分の事を気遣ってくれた女性たちに感謝しながらも、カイは強く柄を握り、空ろな心に力を呼び戻した。
「案内してくれ」
「カイ!?」
「何言ってるの、カイ!」
 女性たちは「無理をするな」とでも言いたげに、口々にカイの名を呼んだ。
 無理をしている。そうなのかもしれない。だが、気付いていながら何事もなかったように休む事もまた、無理をしているような気がしたのだ。
「気を使ってくれてありがとう。でも、俺は行く。戦いたいんだ」
 ジークの敵を取るためでも、悲しみを紛らわせるためでもない。どんな時であろうとも、魔物と戦う事、トラベッタを守る事が正しいのだと、そう思えたからだった。きっとジークも生きていれば、それで良いのだと薄く微笑みながら、背中を押してくれた事だろう。
 大切なものを失って悲しいけれど。何もかもを投げ出してしまいたいほどに、とても、とても、辛いけれど。
 失った悲しみに暮れ続ける事で、再び大切なものを喪失する事になれば、それはもっと辛いと思うのだ。
「俺は、トラベッタを守りたい」
 生まれた場所は違うけれど、物心付く前から育ち、父と共に過ごした思い出が色濃く残る故郷を。
 父が、守り続けていたものを。
 もう、失いたくないのだ。大切なものは、何ひとつ。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.