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三章 神の娘


14

 ハリスの告白を聞いたカイが最初にした事は、空を見上げる事だった。
 青空は幼き日の記憶に残るものからまったく変わらず、美しいままであると言うのに、見えないところでは劇的な変化が起こっているとハリスは言う。エイドルードを神とは思わず育ってきたカイにとっても、ハリスが告げた事実は衝撃で、そのせいか口の中が徐々に干からびていった。
「意味が……判らな……」
「偉大なる天上の神を失った弊害はすでに出はじめております。それまでエイドルードの力が及んでいた地域にも、魔物が出はじめているのです」
 カイは息を飲んだ。ハリスの言葉に心当たりがあったからだった。
 つい先日、アシェルの町で見た魔物を思い出す。そうだ、あれは本来ならば、出てくるはずもない存在だった。偶然に偶然が重なった不運によるものだと思い込んでいたが――
「エイドルードは最後の力で封印を強化し、我らに時間を残してくださいました。エイドルード亡き日から、およそ二十年です。しかし、これから産まれる御子の成長を待つ事を考えれば、けして長いとは言えない時間でしょう」
 ごくりと喉を鳴らし、カイは反論した。
「でも、だから、俺に犠牲になれって言うんですか? 封印が破れて、今まで魔物が出なかった地域に魔物が出るようになるからって、俺には関係ない。全ての街でトラベッタのように魔物対策を……」
「地中に封印された魔獣が蘇ります」
 ハリスは穏やかながら強い口調で言い切った。
「どれほど大司教や地上の女神が祈りを捧げようとも、エイドルードのお力が無ければ、封印は長くは保てません。エイドルードが残してくださった時間が過ぎ、封印が失われれば、魔獣は復活するでしょう。魔物程度ならばまだ人の手でも対応できますが、魔獣となれば、この大陸に訪れる未来はひとつしかありません」
「だがっ……!」
「元々結界の外にあったかどうかなど、魔獣には関わりの無い事です。魔獣は全てを滅ぼすでしょう――カイ様が愛され、ジーク殿が眠る、トラベッタをも」
 柔らかな土の上に生える柔らかな草を踏み締める音。
 ハリスがゆっくりと歩み寄ってくるが、カイは逃げる気力も勇気も湧いてこず、黙って立ち尽くしていた。
 トラベッタを守りたい。
 カイに残された、強い望み。命が尽きるその時まで、抱き続ける願い。
 そのために自分ができる事は――
「カイ様」
 カイから一歩離れた所に足を止めたハリスは、カイの名を呼んだ。
 手を伸ばせばすぐに捉えられる距離にあるカイの腕を取る事も無く、ただカイの意志によって従う事を望むその態度が腹立たしい。
 しかし、何よりも腹が立つ対象は自分自身だった。つい先ほど亡き父に誓ったばかりの事が、もう揺らいでしまっている。
 嘘だ、と、無下に追い返してしまえばいい。嘘ではなかったとしても、他に方法があるはずだと。
「嫌だ」
 真実の想いが、唇から力無く零れ落ちた。
 思い出すだけで不愉快な少女の無表情を、別の少女の笑顔がかき消していく。勝気だけれど優しさと強さが隠れている魅惑的な表情に、涙が零れそうだった。
「リタ……」
 再会の約束をした少女の名を紡ぐ。
 渇いた喉がひねり出す掠れた声を掃うように、ハリスは剣を引き抜いた。
 木の影から現れた小柄な魔物二匹をひと薙ぎで片付けたハリスが、辺りに視線を送りながら警戒を強める様子を見て、慌ててカイも剣を取る。
「どうやら、遅れて出てきた二匹だったようですね。この辺りはもう大丈夫でしょうか」
「はい――」
 周辺に物音も気配も無い事を確認してから、カイは何気なく空を見上げた。
 雲ひとつ無い澄み渡る青空に、小さく浮かぶ黒点を見つけ、目を細める。黒点は徐々に移動しており、トラベッタの街へと近付いてきている。点は少しずつ大きくなり、やがて羽ばたいている事を確認すると、カイはハリスに振り返った。
 ハリスの肩の向こうにも同じだけ小さな黒点を見つけると、カイは息を飲んだ。ハリスの肩を掴み、力尽くで振り向かせる。
「ハリスさん、俺はあっちの魔物をどうにかしますから、ハリスさんには向こうのを、お願いします」
 カイは黒点の片方を指で指し示しながら言ったが、ハリスは小さく首を振った。
「いえ。私は、カイ様が向かわれる方へ共に参ります」
「何わけの判らない事を言っているんですか! 一緒に動いていたら間に合わないかもしれないでしょう!」
 僅かに声を荒げて言うと、ハリスは再度小さく首を振った。
「トラベッタの街を守る、と言う意味では、確かに間に合わないかもしれません。ですが私の現在の使命は、カイ様とシェリア様の御身をお守りする事。私がカイ様のお傍になければ、万一の時、カイ様をお守りできないかもしれません。私にとって間に合わないとは、そう言う意味です」
 カイは掴んだハリスの肩を突き飛ばす。
 ハリスの身は僅かに揺らいだが、それだけだった。眼差しは揺るがず、ただカイを見つめてくる。
 言うべき言葉を探したが、上手く見つからず、カイはハリスに背を向けて走りだした。この人に頼れないならば仕方がない。一方を早く片付けて、もう一方に一刻も早く向かうしか方法は無い。
「どうやら、二匹だけでは済まないようです」
 走り去ろうとするカイを呼び止めるようにハリスは言った。
 カイは足を止め、振り返る。ハリスが見つめる方向を目で追うと、確かに黒点がいくつかちらつきはじめていた。
「どうして今日に限って……こんな」
 カイは唇を噛んだ。
 複数の魔物が散らばって街を襲うとなれば、自身の体が複数無いかぎり、対処しきれない。守れるところと、守れないところが絶対に出てしまう――誰かの命が、失われてしまうかもしれない。
 ジークのように、無残に。
「魔物の様子がいつもと違いますか?」
 カイは無言で肯定した。
「それもまた、エイドルードが失われたせいなのでしょうか。魔獣が蘇る時が近付くにつれ、活発に動ける魔物の数が増え、力は強大になっていくのかもしれません。その時、たったひとりの魔物狩りでは手に追えなくなる事でしょう」
「っ……」
「カイ様はトラベッタを守りたいのですね」
 ハリスがあまりに落ち着いて言うので、カイは声を荒げて返した。
「あたりまえです!」
「ならば、取引をいたしましょう」
 ハリスは懐に手を入れ、綺麗にたたまれた一枚の紙を取り出すと、優しい手つきでカイに見えるように広げる。
 おそらく女性と思わしき、柔らかい筆跡で書かれた知らない文字の羅列。
「シェリア様より賜りました。神の言葉によって綴られた呪文です。私はただ一度だけ、エイドルードがシェリア様のために残した力をお借りし、神の雷を呼ぶ事ができます」
「それで魔物を全部倒してくれるんですか?」
「一筋の雷では数体を倒すがせいぜいでしょう。そうではありません。ただ、私は今日も、街中の至るところに部下たちを配置していると、そう言う事です」
「まどろっこしい言い方をしないでください」
 苛立ちを声に託してハリスを責めると、ハリスはひとつ咳払いを挟んでから続けた。
「彼らには『たとえ街中に魔物が現れても、カイ様かシェリア様、あるいは自らの身を守る以外の目的で剣を抜くな』と命令を下しております。つまり、今魔物たちが街中に入り、トラベッタの民を襲ったとしても、私の部下たちは一切手を出しません」
 カイは憎悪を宿らせた視線でハリスを睨んだ。
「それが、聖職者のやる事ですか?」
「ただトラベッタの民を見捨てようと思っているわけではありません。『聖なる雷が天より降りそそいだ時、その禁を解く。全力を持ってトラベッタの民と街を守れ』と、続けて指示しておりますから」
 ハリスは笑みを浮かべた。下心も、邪悪さも、たくらみも感じさせない、心優しい聖職者によく似合う、けれど彼の言にはそぐわない微笑みを。
 緩い風が吹いた。ハリスが手にする羊皮紙が僅かに揺れ、まるでカイに言葉を迫っているようだ。
「カイ様。貴方が望まれるなら、私は雷を呼びましょう。ですが、先ほども申しました通り、これは取引です。私が何を望んでいるかは――もうお判りですね?」
 数瞬間を空け、重く肯いてから、カイは目を伏せる。自分自身の間抜けさがおかしくて、腹の中で笑った。
 そうだ、最初からこの男は言っていたではないか。「ただの親切心だけで助力を願い出たわけではありません」と。カイの手に追えない魔物が出てきた時、いつでも取引を持ちかけられるように、そばに居ただけなのだろう。
「ご安心ください。今日だけではなく、カイ様がトラベッタを離れ王都に滞在される間も、耐えず精鋭の聖騎士たちをトラベッタに派遣し、この街を守り続けましょう。何年でも、何十年でも、カイ様とシェリア様の間に誕生する御子がこの大陸を救うその日まで――悪い条件では無いと思いますが?」
「ええ……ええ、そうですね」
 トラベッタのためにも、大陸のためにも、それが一番いいのだと、頭ではとっくに理解している。
 ただひとつ、カイの心だけが、ハリスに従う事を拒否していた。カイの心が呼ぶ少女の名は、けしてシェリアではないのだから。
 だが――
 カイの体が崩れ落ちる。柔らかな土に両膝を着き、項垂れながら、カイは心にも無い言葉を呟いた。
「俺が、世界を救います。セルナーンに行きます。だから、助けてください。トラベッタを」
 土の上で、両手が拳を作る。「判りました」とハリスの返事が来ると同時に、抉るように。
 やがて知らない言葉が、知らない発音が、ハリスの声で紡がれる。間もなく訪れた聖なる雷は、トラベッタの救いの光であったが、その救いはカイの心に降りそそぐ事はなかった。
「ジーク」
 闇に消えゆく己の心の救済を求め、カイは幾度も呟いた。
「ジーク……リタ……」
 今は亡き父の名と、再会を誓った少女の名を。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.