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三章 神の娘




 ハリスは呆然と足元を見下ろしていた。
 鮮烈な赤、人の身からこぼれ出たばかりの血の色が、おぞましい青色の液体と混じりあい、だがけして溶け合って新たな色を作る事なく、目の前に広がっている。
 それは引き摺られるように先へ伸びていて、ハリスはおそるおそる首を動かし、二色の行く先を目で追った。目の奥には、剣が太陽光を反射した眩しさに焼きついたばかりの光の残像がちらついていて、ハリスの視界を不自由にしていたが、ハリスは追う事をやめなかった。
 やがて辿り着く。見なければならないもの。だが、けして見たくなかったもの。
「やめて、くださいよ」
 呟いた。若かりし日の自分が、若かりし日の彼に語りかけるように。
 口元に皮肉混じりの笑みを浮かべたが、目は思う通りに笑ってくれない。もう一度、何か言葉を紡ごうと口を開くが、何の言葉も産みだせない。
 ハリスは剣を投げ捨て、赤と青を辿る。靴の裏に纏わり付いた二色が、地面に足跡を刻んでいくが、気にもならなかった。
 辿り着いた先には、剣を体に深々と埋め込んで力無く倒れる魔物が倒れており、それを押しのけようと、ハリスは腕に力を込める。だがその体は重く、ハリスの両腕では動かなかった。殴り飛ばしても、蹴り飛ばしても、巨体を揺らすがせいぜい、その場から転がる事すらしてくれない。
「隊長……エア隊長!!」
 体中が生温かい青に染まっていき、人間の血液とは違う異臭に噎せ返りそうになるが、ハリスは叫ぶ事も、体を動かす事も、止める事はなかった。
 止められるわけがない。魔物の遺骸の下には、人の体が横たわっているのだ。魔物の牙に食い千切られて右肩から先を失い、突進してくる勢いを殺しきれず体を地面に叩きつけられ、別方向から切りつけて来る剣を避けきれず背中に傷を負い、血を流し続ける男が居るのだ。
「隊長っ! 何で、こんなっ……!」
 青い液体に手を滑らせ、体勢が崩れる。同時に、足元に広がる液体に足を取られたハリスは、その場に膝を打ち付けた。
 瞬間、目が合った。ハリス自身の乾いた瞳と、優しく細められた瞳が。
 人の精神では耐え難い激痛をその身に負っているだろうに、なぜ、そうも穏やかなのか。もうすでに、痛みなど感じていないのだろうか。
「ハリス」
 先ほどまで剣を合わせていた相手が発したものとは思えないほど穏やかな声に名を呼ばれ、ハリスは手を伸ばす。自身に向けて伸ばされた、赤と青の液体に汚れた、震える左手に。
 硬く、小さな傷がいくつも刻まれた手だった。望む生を生きるため、追っ手から逃げるために、人と、あるいは魔物と、戦い続けた履歴が刻まれていた。息子への愛情のひとつの形がそこにあり、ハリスはその手を強く握り締める。
「今更、俺は、選べなかった。お前の……エイドルードの言葉に、従う事など」
 力の無い声は、懺悔のようにも聞こえた。
「判ってます。エア隊長は、そう言う人だった。ずっと、ずっと」
「だが……お前が、選んだんだ。きっと、正しいんだろう」
「……違……俺は、隊長、何も」
 目の前の男と戦う事に、感傷に浸る事に精一杯で、周囲に目を向けられなかった。魔物が近くに迫っている事にも気付かず、剣を振り下ろす事しか考えられなかった。
 挙句、剣を交えるはずだった男に助けられ、助け返す事もできない、無力で、愚かな人間。それが自分だ。
 正しくなどない。正しいわけがない。
 ハリスの心は叫び続けたが、言葉は喉に詰まって音にならなかった。
「誰にも許されなくてもいいと、思っていた」
 掠れたジークの声が、ハリスの中で滞っていたものを開放した。
「たい、ちょう」
 横たわるジークの上に、次々と雫が落ちていく。彼の体に纏わりつく赤と青が、少しずつ洗い流されていく様が、徐々に歪んでいった。
「だが、本当は、ずっと……許されたかったのかも、しれない。リリアナと、カイと……できる事なら、お前に、は」
 どんな障害があろうとも、どんな苦悩にまみれようとも、自分が決めた道を進む事を諦めなかった男が、静かな瞳に空を映しながら言う。
 もうその瞳には何も見えていないのかもしれなかった。ハリスが知る限り、この男が何の感情も浮かべずに空を見上げた事など、ただ一度としてなかったのだから。
「何ですか。これは贖罪のつもりなんですか。だとしたら、貴方は大馬鹿です。俺は、いつだって、貴方の事を許していたのに」
 一度は夢見た事がある。彼が大人しく大神殿にカイを任せてくれていればと。聖騎士に戻り、カイの護衛隊長としての任についてくれていれば、と。そうすれば、今よりもましな結果になっていたかもしれず、何より若かりし日にハリスが抱いていた小さな夢が実現したかもしれないのだ。 
 だが彼は、そうはしなかった。ハリスと道を違えるどころか、ハリス自身が進まねばならない道の障害になった。
 それでも恨んだ事はない。ただ、嬉しかったのだ。自分とはけして相容れない存在であり続けてくれたこの男が。
「そう、か……」
 ジークの震える口元に笑みが浮かぶ。
 その唇は二度と音を発しなかった。歪む視界でははっきりと判らなかったが、最後に「リリアナ」と、「カイ」と、かたどっていた気がした。
 両手で包み込んだ手から力が失われていく。
 ハリスは固く目を伏せた。頬を伝う熱を自覚し、ジークに降り注ぎ続けていた雫が自分の涙であった事を知った。
「ずるいですよ、隊長」
 もう応えてくれる事は無いのだと知りながら、ハリスは語りかける。
「結局、一度も俺に勝たせてくれなかったんですね」
 口ではそう言いながら、ハリスは自分の想いが満たされている事に気付いていた。
 そうだ。それでいいのだ。彼が、自分に負けていいはずなど、なかったのだから。


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Copyright(C) 2007 Nao Katsuragi.